表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼女たち  作者: 城ヶ崎
32/71

彼女が望む間接的なそれ


 琴音ことねの提案で、学校からの帰りにアイスクリーム屋さんに寄った。

 キャンペーン中だったらしく、コーンの上に三種類の味のアイスを盛り付けることができた。味は全部で数十種類もあって、そこから三つ選ぶのには苦労した。琴音はほんの十数秒で決めていた。思い切りのいい女である。

 うんうんと悩み抜いた末に、オレンジと、それを上下から挟む形でチョコレートを二つ選んだ。

 「ええー」琴音が大袈裟に声を上げた。「チョコレート二つて、もったいな」

 そう言う彼女の手には、上からチョコレート、抹茶、イチゴの順番で積み重なったコーンがあった。一見してカラフルであり、ただのアイスであるにも関わらず洒脱である。なるほど確かに、私のチョイスにケチをつけるだけのことはある、と感心させられた。

 会計を済ませた後、お店の外に並べられていた席に二人して座った。白い丸机は清潔感に溢れて、背もたれが長い椅子は不安を覚えるほどに軽かった。

 空に浮かぶ太陽が私たちを見下ろしている。それだけだったら全然構わないのに、嫌がらせみたいに熱く照らしてくるものだから、汗が滲んでは制服に染みていく。それはまるで「おい君たち、夏だぜ」と知らせてくれているようだった。

 いいですよ、そんなことしなくても、と心の中で呟く。カレンダー見たらわかりますから。

 この暑さではすぐに溶けてしまう、そう思って、慌てて一個目のチョコレートを舐める。あっさりとした甘さとともにキンとした冷たさがやって来て、体の熱を少し奪っていく。しかしそれもほんの僅かな間のことで、またすぐに熱くなってくる。

 舐めては涼をとり、涼をとっては熱さが来る。そのいたちごっこを数回繰り返したところで、正面に座っている琴音の視線が私に注がれていることに気づいた。大きな二つの目が私を捉えていた。

 見たところ、あまりアイスを食べていないようだった。

 

 「なに、私の顔に何かついてる?」


 不思議に思い訊いてみると、琴音は少し言葉を詰まらせてから「いやっ」と言った。「別に、なんでもない」

 そうですか、と再びアイスを舐め始める。

 依然として彼女の視線を感じる。監視員さながらである。なんでもあるのは明らかだった。

 チョコレートを半分ほど舐め終えたあたりで、不意に琴音が口を開いた。

 

 「あ、あのさ、私の食べてみる?」


 そう言って、彼女は自分のアイスを芸能人にマイクを向けるような格好で差し出してきた。こぼれちゃうんじゃないか、と一瞬不安になる。

 琴音のアイスをちらりと一瞥する。一番上はチョコレートだ。


 「いや、いいよ別に。私もチョコレートあるし」 

 「あ・・・・・・」


 私のアイスと自分のとを交互に見て、琴音はぽかんと呆けたように口を開けた。


 「しかも二つある」

 「・・・・・・あ、うん。そう、ね」


 ほんのりと頬が紅潮していた。

 語尾を曖昧にさせながら、琴音はアイスをしずしずと引っ込めた、かと思うと、鬼気迫る勢いでチョコレートを齧り始めた。げっ歯類だってもうちょっと落ち着いてるだろう。

 頭キーンってなんないのかな。

 彼女はあっという間にチョコレートを食べ終えたかと思うと、また腕を伸ばしてアイスを私の目の前にかざした。


 「抹茶は、ないでしょ。ほら、だから、私の一口どうぞ・・・・・・あーん」


 少しだけ齧られた深い緑色のそれが目に映る。本当に、抹茶をそのまま冷凍したんじゃないかってくらい真緑だ。いかにも苦そうだ。


 「ごめん、私苦いのダメなんだ」


 正直にそう告げる。一度ならず二度も断るのは申し訳ないように思えた。

 琴音はキツネにつままれたような表情を浮かべて、おもむろにアイスを引っ込めた。しばらく呆然とそれを眺め続けてから、かあっと顔を赤くさせた。

 細めた目で私を睨みつけて「アホっ」と罵倒してから、味わう素振りすら見せずに抹茶を食べて、続くイチゴも休むことなく食べ続けた。

 赤い顔の琴音と赤いイチゴ味が並んでいる光景は愉快だった。

 何をそんなに怒っているんだろう、と疑問に思いながら、私もチョコレートを舐め進めた。 






 

 夏休みの番人たる期末試験の影がチラホラと目につき始める時期、私と琴音は近くにできた、おしゃれであると噂の喫茶店に来ていた。

 クラスの皆がしきりに「おしゃれおしゃれ」と評するので、気になって「どの辺がどうおしゃれなの?」と訊くと、「なんかもう、全体がおしゃれ」と返ってくる程度にはおしゃれであるということは知っていた。

 実際に来てみてその様子を間近で見てみて、なるほど、全体的におしゃれだ、という素朴な感想が浮かんだ。百聞は一見に如かずとは言うけれども、今回の場合は百聞と一見がイコールで結ばれていた。

 喫茶店はガラス張りであり、外からでも店内の様子を観察することができた。

 やけに線の細いテーブルが並んでいて、その一つ一つに、何をどう頑張っても足が地面につかないこと請け合いの椅子が三つから四つほど集まっている。床は灰色がかった木でできていて、それが店内に落ち着いた雰囲気を提供していた。

 おお、と感嘆の声が出てしまう。

 こんなおしゃれな所に入ってしまったら、私は一体どうなってしまうんだろう。足を踏み入れてしまったが最後、身長はぐんぐんとファッションモデルもかくやという高さにまで伸びて、髪は艶のあるストレートに、凹凸が激しい体つきになり、高校の勉強に頭を悩ませる余地がないほどの知性を手に入れて、その当然の結果として、万人にモテるようになってしまうんじゃないだろうか。いや、そうなるに違いない。

 そんなことを考えて一人身もだえていると、いつの間にか玄関扉に手をかけていた琴音が「早く入るよ」と冷ややかな声を浴びせてきた。

 慌てて彼女の後を追い、店内に入る。最初の一歩を大きく踏み出してみたけれども、特別何も起こらなかった。

 まあ、そりゃそうだよね。

 お店の中は冷房が効いていて、夏の暑さが蛇口をひねって出し続けていた汗が引いていく。

 何名様ですか、と女性の店員さんが訊ねてくる。琴音が指を二本立てると、店員さんは素敵な笑顔を浮かべてから、ではあちらの席へ、と外に面した席を示した。

 椅子に腰を落ち着ける。案の定、足がぷらぷらと漂う。

 なんとなく外を眺める。暑そうだ、というか、実際に暑い。さっきまで私も外にいたんだから、そんなことは知っている。

 肌寒さすら感じてしまいそうな場所から夏真っ盛りの外界を眺めるというのは、なんとも愉快だった。

 

 「あんた、何見てんの?」


 テーブルの上にメニューを広げた琴音が、怪訝そうに私を見ていた。


 「外」

 「いや、そんなの分かってるわよ」

 「暑そうだなって」

 「・・・・・・」


 琴音の言葉が途切れた。見ると、呆れたような表情を浮かべている。おおかた、こいつアホだな、とか思っているんだろう。

 

 「あんた、アホじゃないの」


 言われた。心で思われるだけに留まらず、声に出されてしまった。

 失礼しちゃうわね、どうせ私はアホですよ、と不貞腐れながらメニューに目を通す。

 メニュー表は商品名とその値段だけが記載された、実にシンプルなものだった。余白が目立つものだった。でもそれが逆におしゃれな気がした。

 「琴音はもう決めたの?」と訊くと、「うん」という彼女の声。相変わらず決断力のある女だ。


 「その、エメラルドジュースっていうやつ」


 そう言って琴音は身を乗り出して、メニュー表のソフトドリンク欄の一行を指さした。白くて細い指がエメラルドの文字をなぞっていく。

 なんだろう、エメラルドという文字が気に入ったのかな。

 私もジュースにしようと決めて、ソフトドリンク欄を上から下に、下から上にと数回往復する。

 せめて写真くらいは付けてほしかったな、と思う。名前だけで選ぶのはいささかハードルが高い。でも空白の美のためには仕方がないのかな。

 腕を組んでムムムと悩んでいると、不意に視線を感じた。メニュー表から顔を上げると、琴音の大きな目と合った。顎を合わせた両手に乗せて、柔和な笑みを浮かべている。


 「なに、私の顔に何かついてる?」


 前にもこんなことを言ったな、と思いつつ口に出す。すると琴音は「いやね」と口を開いた。


 「あんたってほんと、昔から選ぶのが遅いなあって」

 「琴音が選ぶの早すぎるんだよ」


 そうかもねえ、と琴音が楽しそうに笑った。明らかにそうかもとは思っていない態度だった。

 むっとして、私は再びメニュー表に視線を移した。そこまで言われて穏やかでいる私ではない。速攻で決めて、琴音の度肝を抜いてやろう。

 しかしいざ選ぼうにも、琴音の視線を感じてうまく集中できなかった。目が文字の上を滑っていく感覚だった。耐えきれなくなった私は「あのさ」と声をかけた。


 「そんな見つめられると落ち着かないからさ、琴音は外でも見ててよ」

 「いやよ、外見たって面白くないもの」

 「・・・・・・そうですか」


 私を見つめるのは面白いのか。

 それは暗に、私の顔が面白いって言っているんですか琴音さん。

 そんな私の内なる悲鳴も知らないで、琴音はずっと私を見続けていた。




 

 結局、決めるのに五分ほどかかってしまった。

 素敵な笑顔のお姉さんに注文をして、テストが怖いだの、それはあんたが勉強していないだけだの、今度家うちで教えてあげるだの、そんなことを喋りあっていると、思いのほか早い段階で店員さんがジュースをお盆に乗せて運んできた。

 ブラッドオレンジジュースが私の前に、エメラルドジュースが琴音の方に置かれた。二つとも、やけに縦長のグラスに注がれていた。

 それぞれのジュースの色に、私は興味を惹かれた。

 ブラッドオレンジジュースは確かに赤いけれども、ブラッド、つまり血の色であるという印象はなかった。赤いにも関わらずなぜか涼しげな、不思議な色をしていた。

 それよりも視線が攫われるのは琴音のエメラルドジュースだった。名前の通り、エメラルドを溶かしてジュースにしたような、目も覚めるような海緑色だった。メロンソーダのような濃い緑色がくると高をくくっていた私はひどく驚かされた。

 天井から垂れた球形のペンダントライトから降り注ぐ光がジュースを通り、テーブルの上に赤と緑色の不規則な模様を描き出している。それはストローを動かすだけで微細に形を変えた。

 私は早速ストローを咥えて、ジュースを口に吸い入れた。通常のオレンジジュースよりも酸味が強く、爽やかな味わいだった。

 気になるのはエメラルドジュースだった。琴音を見ると、今まさに飲んでいる最中だった。

 琴音はストローから口を離すと、きょとんと不思議そうな顔をした。


 「どんな味だった?」


 私がそう訊くと、琴音は難しそうに首を捻ってから、一言「わかんない」と呟いた。


 「なんというか、こう・・・・・・すっきりとした味で・・・・・・うーん」


 琴音が口ごもった。

 私は端的に「美味しいの?」と訊いてみた。すると琴音はあっさりと首を縦に振った。

 形容しがたい味だけれども、ちゃんと美味しいらしい。ますます分からない。

 不意に琴音の動きが止まった、かと思うと、自分のジュースと私とを反復横跳びでもするように、交互に見た。

 三回ほどそうしてから、グラスをそうっと私の方に押し出して、目を伏せながら「飲んでみる?」と言った。ストローの飲み口が私を見つめるようにしていた。

 

 「え、いいの?」


 琴音が小さく頷いた。

 お言葉に甘えて、私は彼女のグラスを近くに引き寄せた。

 琴音が私を上目遣い気味に見ている。

 そんなに私を見るのが面白いのか、今度鏡でじっくり見てみるか、なんてことを考えながら、私は自分のグラスからストローを抜き取ってエメラルドの液体に差し込み、ちゅうちゅうと控えめに飲んだ。

 口内に流れ込んできた液体を喉へと通していく。

 琴音の言った通り、言葉にするのに苦労する味だった。野菜や果物のようであり、しかしその正体の輪郭は朧気で、とても掴むことができない。

 よくわからなくて美味しい。奇妙な感覚だった。


 「ありがとう。確かに、よくわかんないね」


 ストローを回収して、グラスを琴音に返す。

 戻ってきたグラスを、琴音は丸い目をして見つめていた。しかしよく見てみると、彼女の視線はジュースの方ではなく、ストローの方に注がれているようだった。

 まさかこの女、ストローを見つめることすら面白いと言い出すんじゃないか。

 そう戦慄していると、琴音は荒々しく、憎々しげにストローを噛むように咥えた。

 

 「アホ」


 琴音は硬い声でそう呟いてから、野武士のような凄みを湛えた目で私を見た。そうして初めて、今の「アホ」が私に向けられた言葉であることを理解した。理解したからといって、納得するわけでは決してなかった。


 「え、は、なにが」

 「アホアホアホアホアホアホ」

 

 呪詛でも唱えるように、琴音はしきりにアホアホと言った。その度にストローがくしゃっと潰れていく。

 まただ、と私は思う。また琴音が何の脈絡もなく不機嫌になった。

 次いで、琴音は静かになったかと思うとストローから空気を送り込み、エメラルドジュースをぶくぶくと泡立たせ始めた。

 「ちょっとちょっと、行儀行儀」と私が言うと、「うっさい、アホっ」と切り捨てられた。しょんぼりした。

 ご機嫌を取るために、私は自分のグラスを差し出した。「お返しに、私のもちょっとあげる」と提案すると、琴音は少しの間何事かを思案してから、「いや、いい」と言った。怒りからか、顔が赤くなっていた。

 そうですか、とグラスを引き下げて、大人しくちゅうちゅうと吸い始める。

 酸っぱいの苦手だっけ。

 再び外を眺めながら、そんなことを思った。







 テストが一週間前に迫ったある日、私は琴音に誘われて彼女の家に来ていた。

 テスト勉強が目的の来訪だった。

 私のように、隙さえあれば勉強から逃げてしまうような人間にとって、友達との勉強会は、その実勉強をしないものでお馴染みである。

 テキトーにお菓子食べて、テキトーにお喋りして、たったの一つも問題を解かないまま、テストまじ死んだわー、とか言いながら解散。それが勉強会。

 しかし琴音との勉強会は違う。勉強会は本当に勉強会として成立する。

 だらける素振りを見せようものなら間髪入れずに「アホ」や「どアホ」などのボキャブラリー豊かな罵倒が飛んでくる。シャープペンシルを手放そうものなら、ガムテープでそれを手にぐるぐる巻きに固定される。剥がすときに苦労するので、それだけは最低限避けたいのだった。

 厳しくはあるものの、琴音と二人でする勉強会は、それはそれで楽しい。それにちゃんとそれはテストの点数という形で結果に出る。

 

 「お邪魔します」

 

 そう言って玄関の三和土に入ると、もうすでに靴を脱いでいた琴音が「いらっしゃい」と迎えた。靴の数からして、誰もいないらしかった。


 「私ジュース用意するから、先に部屋行っといて」

 「へーい」


 琴音の部屋は二階にある。もう幾度となく通ってきた道順をなぞり、「琴音」と書かれた小さなプレートが下げられたドアを開ける。

 琴音の部屋は至って簡潔的だ。入って右手に学習机と本棚があり、左手にベッドがある。部屋の中心には角が丸い机がでんと置いてあって、そのすぐ傍にクッションが二つある。

 それで全てだった。

 整理整頓が行き届いているというか、なんというか。

 もう少し華やかにしてみてはどうだろう、とは思う。ベッドの掛布団なんて鼠色だし。女の子にしてはちょっと無骨すぎる気がする。

 唯一の女の子らしさといえば、ベッドの上に座っている一体のぬいぐるみくらいのものだった。中学の頃、ゲームセンターのユーフォーキャッチャーで二千円ほど費やして私が獲得したものだ。

 大事にされてるなあ、と感心する。

 今のうちに準備しておこう、と机に鞄を置いたところで、学習机のすぐ横に吊るされているコルクボードに目がいった。

 そこには数枚のプリクラ写真が貼ってあった。写っているのは、私と琴音。ぬいぐるみを取った同日に撮ったものだ。

 プリクラってコルクボードに貼る物だっけ、と首を傾げる。筆箱とかスマホケースとか財布とか、そういうのに貼るんじゃないのかな。

 たぶん、失くしてしまわないように、破損させてしまわないように、ここに安置しているのだろう。それはいかにも琴音らしかった。

 小さな四角の中にいる私たちは今よりもずっと幼くて、でも今と変わらない。

 加工が激しいせいで、ただでさえ白い琴音の肌は病的なそれになっていて、幽霊のようだった。

 テストが終わったら、また撮りに行こうかな。

 そう考えたところで、部屋の扉が開いた。琴音が携えたお盆を危うげに揺らしながら入ってくる。ガラス製のコップにはオレンジジュースが注がれている。琴音がそれを床に置くと、氷がからりと鳴った。

 早速コップを一つ取って、ストローから吸う。オレンジジュースは酸味もあれど甘味がはるかに勝っていた。

 ブラッドオレンジもいいけど、やっぱりこっちの方がいい。


 「あ、あんたストロー青い方ね」

 

 琴音が指さして言った。見ると、確かに私のコップに差された半透明の白いストローには青い縞模様が入っていた。もう一方のストローは赤。 

 机の上にあったリモコンをエアコンに向けて、琴音がスイッチを押した。すると天井の隅にひっそりと佇んでいたエアコンがその横長い口をあんぐりと開けて、ふうふうと冷たい息を吐き出し始めた。


 「とりあえず一時間くらいやって、その後休憩にしよっか」

 

 琴音の提案に、私は渋々首を縦に振った。

 一時間を「とりあえず」と言うことができるその強靱な精神にただただ感服した。

 琴音は早速数学の教科書を広げた。何の教科から始めても等しく苦痛な私は、裏を返せば何の教科から始めても構わない。彼女に倣って、私も数学の、なにやら訳の分からないいくつかの数式が無造作に散りばめられた、この上なくグロテスクな表紙の教科書を開いた。

 目に飛び込んでくる数字やアルファベットやらに苦いものを感じながら、私はシャーペンを取った。

 




 分からないところにぶち当たっては琴音に即質問。

 これを逐一繰り返し続けているうちに、なんとか自分一人の力で、それが正解であるかは別として、答えを出せる程度になった。

 ここまでくれば、数学ではあまり苦痛を感じなくなる。答えを出すためにうんうんと頭を捻り、文字同士で複雑に絡み合った糸をほどくのは大変で疲れるけれども、回答への第一歩すら踏み出せないまま呆然としているよりは断然マシだった。

 五つ目の練習問題を終えたところで、猛烈な糖分への欲求が湧き上がった。喉も渇いていた。

 傍らに置いてあるお盆からコップを一つ取る。ガラス製のコップがジュースの冷え具合をはっきりと手に伝えてくる。

 ストローを咥えて、ゆっくりと吸う。オレンジジュースがストローを伝って、おもむろに上昇する。下から徐々に、ストローがぼやけたオレンジ色で染まっていく。


 「あっ!」


 突如として琴音が悲鳴をあげた。強烈な不意打ちに、あわやコップを落とすところだった。

 なんなんだいきなり、と私は琴音へと非難の視線を浴びせた。

 その時私の目に映った琴音はひどく奇妙だった。

 ただでさえ大きい目をかっと見開き、口をぱくぱくと開けたり閉めたりを繰り返して、顔は耳まで真っ赤になっている。それはもう琴音というより金魚だった。一般家庭で飼われている金魚と今の彼女を取り換えてもばれないのではないかと思われた。

 金魚が恐る恐るといった様子で私の手元を指さした。え、まさか私が原因ですか、とそこに目を向けてみると、何も無い。一滴だってこぼしていない。

 なんだよ、驚かせるなよ、と琴音を見ても、しかし依然として指がこちらに向いていた。

 「それ、それ」口を震わせながら、琴音が言った。「それ、私の」

 あ、と思い、ストローを見る。赤い縞模様があった。お盆に残ったもう一方を確認する。青いそれが入っている。

 どうやら、間違えて琴音のオレンジジュースを飲んでいたらしい。

 でも、それがどうしたのだろうか、と暢気に構えていると、「アホっ」という罵倒がこん棒のように振り下ろされた。

 怒気を含んだ「アホ」だった。予想だにしていない展開に、私は気圧された。

 

 「アホっ、アホ! お、お前、なんでそんな・・・・・・」

 「待って、待ってくださいよ琴音さん。ちょっと間違っただけだって、悪かったって」

 「そういうことじゃない!」


 反射的に「ごめんなさいごめんなさい」と口に出していた。かつてない琴音の様子に、私は完璧に圧倒されていた。何が彼女の逆鱗に触れたのか皆目見当もつかないけれども、私はただひたすらに平身低頭を努めた。その間にも琴音はアホアホと投げつけてきた。

 白粉おしろいを塗ったように白い顔が紅潮している。金魚を通り越してマッチ棒のようだった。何に擦らずともひとりでに発火しそうな、そんな危うさがあるマッチ棒だった。

 まずいぞ、と戦慄する。こんな罵詈雑言の嵐の中に長く留まっていたら、かなりしょんぼりしちゃう。

 

 「わ、私の、私の飲んでいいから!」


 荒ぶるマッチ棒を鎮めるべく、私はそう言って青色が立っているコップを琴音に差し出した。普通に考えれば、誤って飲んでしまった分を返せばそれで済むはずだ。

 途端に、嵐が止んだ。

 琴音は目の前のコップをトマトのような顔を維持しながら眺めている。手を伸ばしてそれを取ろうとしては引っ込めたりしていた。大きな葛藤があるようだった。彼女の中で二つの人格がせめぎ合っている様がありありと思い浮かんだ。


 「どうぞ」


 ここが正念場とコップをさらに突き出した。

 深呼吸一回分くらいの間を空けて、琴音の手がそうっと伸びてきた。警戒心の強い猫に触れるかのような、一度触れてしまえばなくなってしまうと思っているかのような、そんな手つきだった。

 琴音の手が触れた。私はそれを見計らって、コップから手を離した。

 小鳥がついばむような仕草で、琴音はストローの飲み口を口に含んだ。

 穏やかな川の流れのように、オレンジジュースが彼女の口に運ばれていく。

 お風呂の栓を抜いた時のように、ジュースが減っていく。その勢いは止まらない。

 からん、と氷が鳴った。ジュースが無くなった。

 ストローからゆっくりと口を離して、琴音は「ドウモ」と言ってコップを差し出してきた。妙に片言な「どうも」だった。たったの三文字を片言で発生するのなんて、日本語に慣れていない外国人くらいのものだと思っていたけれども、案外そうでもないらしいことが今証明された。

 琴音は力なくその場に座った。魂が抜けてしまったようだった。

 気まずい沈黙が流れた。

 結局、私の何が原因で琴音を怒らせてしまったのかは分からずじまいで、当の琴音は常軌を逸している風で、何と声をかけていいのか分からなかった。だからといって、この静寂が続くのはどうしても避けたかった。

 私は今しがた数学で鍛え上げた「答えへとたどり着く力」を利用して、この場での最適解を考えた。

 正解かどうかはともかくとして、答えはすぐに思い浮かんだ。


 「あ、間接キスだー・・・・・・つってね」


 場を和ませようと放ったその言葉は、思いもよらない化学反応を起こした。

 人形のように項垂れていた琴音の体が、びくっと震えた。

 あ、と思ったころには手遅れだった。


 「この・・・・・・アホーーーーー!!!」


 耳を裂かんばかりの大音声が轟いた。







 それから丸々三日間、琴音は私に「アホアホ」と言うばかりで、まともに口もきいてくれなくなった。

 このままじゃテストが来てしまう、と危機感を抱いた四日目にやっとそれが解消されて、テスト勉強会を再開することができた。

 不思議なことに、琴音の頬は常に赤かった。風邪ではないか、と心配しても本人は「なんでもない」の一点張りなので、もう言及しないでおいた。

 プリクラで撮れば白く加工してくれるのかな。

 ストローの色を確認しながら、私はそんなことを思った。

合計9500文字くらいであるにもかかわらず、内容はこんなにも小規模。

でも書いてて楽しかったので、満足です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ