勝ったのは誰(下)
給食を挟んで続いた五時間目、六時間目の授業、淡井はたったの一度も手を挙げることは無かった。空前絶後の事態だった。天変地異の前触れにすら思えた。
結局、その日は私が勝ち越したまま、放課後に入った。
クラスの皆が教室を出ていく中、私と淡井はいつものように居残り、勝敗メモを持ち寄って机の上に広げていた。一日の終わりに、こうして勝ち負けの数に間違いがないかをチェックするのがお決まりだった。
「一時間目と二時間目は図工で、特に勝負なしだったから省く。その後の二十分休憩はドッジボールやって、私のチームが勝ったから私に勝ちひとつ。三時間目は算数で勝負は一回あって、それはあんたの勝ち。四時間目は、まあ、勝負なし。それで───」
「四時間目は、坂本さんの勝ち一つ」
間髪入れずに、淡井がそう差し込んでくる。
「あんなの、勝負じゃない。泳げない奴に水泳で勝ったって、なにも嬉しくないし」
「でも・・・・・・」
「うっさい。はい続き。五時間目は社会で、勝負は三回で、私が勝ち三つ。六時間目は理科で、勝負は一回で、私の勝ち。だから、今日の合計は、あんたが勝ち一つの、私が勝ち五つ」
淡井の勝敗メモに記されていた余分な黒丸一つにバツ印をつけて、数を合わせる。すると、淡井が新しい黒丸を一つ付け足した。
「私が勝ち一個で、坂本さんが勝ち六個」お前のメモを寄越せ、と言わんばかりに淡井が手を伸ばしてくる。それをひょいと避けて、彼女のメモを強奪する。
「あ、返して!」慌てた淡井が、躍起になって飛び付いてくる。私は限界まで腕を上げて、彼女の届かない高さにメモを持っていった。
「プールの授業を勝負にカウントしないなら返す」
「・・・・・・イヤ」
ここにきて強情になる淡井を、私は意外に思った。普通、負けは少なければ少ないほど良いはずだ。
「なに、あんた今日おかしいよ」
「おかしくない」
「溺れたのがそんなにショックだった?」
「溺れてない!」
気が付くと、淡井の顔が真っ赤になっていた。実のところ、彼女がこうして声を荒げるのは珍しい。
「溺れてないかはともかくとして、本当におかしいって。だってあんた、五時間目と六時間目、手挙げてなかったじゃん」
そう指摘すると、淡井はぴたりと動きを止めて、どういうわけか、私の方へもたれかかってきた。彼女の控えめな重みを感じる。彼女の頭が私の胸辺りにあって、例の髪の毛がすぐ目の前にやってきた。
「わからない」下を向きながら、淡井が呟いた。「なんで挙げなかったんだろうね」
淡井が分からないのなら、当然私にだって分からない。でも、彼女が落ち込んでいることは、その声音から察することができた。溺れたせいか、私に負け越したせいか、それともその両方が原因か。
私は淡井が嫌いだ。それは紛れもない事実だ。だからといって、こんな淡井を見るのは気分が悪い。それならまだ、普段の憎たらしい彼女の方がマシだ。
私は淡井のメモ帳を開いて、今日の分をすべて塗り消した。それを半ば押し付けるように淡井に押し付けてから、続けざまに自分のメモ帳にも同じようにした。
「今日やった分は全部無し」
私が言うと、淡井が顔を上げた。驚いていることがありありと伝わってくる。
「これから、一回だけ勝負して、勝敗を決めよう。それで今日は終わり」
「なにを・・・・・・」
「ハンデとして、何で勝負するか淡井が決めていいよ。泳げないようなお子様には、それくらいのハンデが必要でしょ」
目を丸くさせていた淡井の表情から、すうっと、彼女らしくないものが退いていった。
「不器用」一人ごちるように、淡井は言った。「坂本さんは、不器用だね」
その時淡井が浮かべた笑顔を、私は知っていた。懐かしい、思い出の中にある表情。
淡井と知り合った頃、彼女は私にもよく笑顔を見せていた。挑発的なものではない、自然とこぼれ落ちたような、そんな笑顔。
「ねえ、坂本さん」その笑みを絶やすことなく、彼女は続ける。「私、坂本さんが嫌いなんだ」
「知ってる」
「ううん、坂本さんが知ってる私の『嫌い』なんてほんの一部分。私、もっともっと坂本さんのこと嫌いだから、だから───」
そこで一度、淡井は言葉を切った。何かを躊躇った、ように見えた。でもそれは一瞬のことで、彼女はまた口を開いた。
「だから、この勝負、坂本さんが嫌がるのにするね」
そう言ったきり、淡井は口をつぐんで考え込む姿勢を見せた。できるだけ、自分に分がある勝負を考えているんだろう。
「勝負の内容、決めた」
五分ほど時間が経ってから、淡井が静寂を破った。「へえ、何?」と私は応じた。
随分と時間をかけて考え出したお題。どんなものだろう、と興味を惹かれた。
「今から坂本さんにキスするね。それで、顔が赤くなった方が負け」
「・・・・・・え?」
聞き間違いかと思った。淡井の発言があまりにも現実味を帯びていなかったから、勝負の内容を理解できなかったから、むしろ聞き間違いであってほしかった。
でも、決意を固めた表情をしている淡井が近づいてきた段階で、彼女の顔がすぐ目前にまでやってきたところで、それが聞き間違いでないことを悟る。その鬼気迫る様子に気圧されて、一歩二歩と後退すると、淡井がすぐにその空白を埋めてくる。また一歩引くと、ふとももに机がぶつかった。鈍痛が止まないうちに、距離を詰めてくる。
淡井は躊躇う素振りを少しも見せない。全自動接吻マシーンがごとき様相を呈していた。
咄嗟に、彼女の肩に手を当てて押し止める。
「淡井っ、落ち着け」そう呼びかける。しかし彼女の勢いが緩む気配はない。
「私は落ち着いてる」
「これで落ち着いてるって、それはそれで問題だろ」
今日の淡井がおかしいのは分かってはいたけれども、まさかここまでとは。
私の手をどかそうと、淡井が手を添えてくる。その小さな体のどこに隠していたのか、とてつもない力で押してくる。負けじと、それに対抗する。
力が拮抗していた。均衡が保たれていた。どちらかの体力が尽きるまでこの押し合いが続くのかと思うとげんなりとしてしまう。
不意に、淡井の体から力が抜けた。急に押し合う相手がいなくなったことで、淡井の方につんのめる。あわや唇と唇が重なるところだった。
こいつ、テクニカルなことを。
今のうちに帰るか、と思ったところで、淡井がその場にしゃがみこんだ。それは、倒れそうになったのを踏みとどまった結果のように見えた。
俯いているせいで顔色は分からないけれども、彼女の体調が悪いことは明らかだった。体の力が抜けたのはテクニックでもなんでもなくて、ただ立っていられなくなっただけ。
「淡井、大丈夫?」膝をついて、同じ高さに視線を持っていく。彼女の髪が垂れて、カーテンのように顔を覆い隠している。
溺れたのが原因だろうか、なにか、水を大量に飲んでしまったとか、心に傷を負ってしまったとか。
やっぱり、無理にでも止めておけばよかった。淡井の強がりに付き合わず、勝負なんてしなければよかった。
後悔の念がせりあがってきて頭の中を満たしてしまう直前、保健室に連れて行かなければ、という考えが見えた。
「淡井、立てる?」
淡井は首を横に振った。
「じゃあ、私の首に手まわして」そう言って、頭を淡井の方へ差し出す。
ゆっくりと淡井の手が伸びてきて、私の肩を掴んだ。
それから起こったことは、一瞬だった。
私の肩に置かれた彼女の手に、ぐっと力が込められた。それは体調不良者にあるまじき力だった。
それを不思議に思っていると、淡井の顔が近づいてきた。髪の毛に隠れて表情は分からなかった。
なんだなんだ、と思っているうちに、唇に何かが触れた。柔らかくて、少し湿っていた。
なんだなんだ、と思っているうちに、淡井の顔が離れていった。窓から入ってきた風が彼女の垂れ幕のような髪を揺らして、その隙間から真っ赤な顔が覗いた。
淡井は何も言わなかった。だから私も、何も言えなかった。代わりに、彼女の髪をかき分けて、表情を確かめた。
「・・・・・・私の勝ちで、いい?」
淡井は何も言わず、あの挑発的な笑みではない笑みを、女の子である彼女を形容するのはおかしいけれども、女の子らしくて、かつ可愛らしい笑顔を浮かべた。
あ、しまった、と思った頃にはもう遅かった。淡井の人差し指が私に向けられた。
「引き分けだね」
淡井の声は、この上なく楽しそうだった。
深いため息が出た。淡井の髪から手を離して、自分の顔を覆う。手に伝わってくる熱が恥ずかしかった。
早く治まれ、治まれ。ひたすらに、そう念じ続ける。
何分かほど経って、私は覆いを取って顔を出した。依然として、淡井は目の前にいる。
「坂本さんは、三年生の頃のこと、覚えてる?」
私が口を開く前に、淡井が声を出した。
三年生の頃といえば、私と淡井が競い合うようになった頃だ。だから多分、彼女の言う「覚えてる」とは、私たちが今のような関係になった理由を覚えているか、という意味なんだろう。
私は首を横に振った。
「・・・・・・私、坂本さんに憧れてたんだ。勉強できて、運動できて。だから頑張った。あなたに追いつくために、いっぱい頑張った。でも最初のうちは勝てなかった。それが悔しくて、また頑張って、また負けて、イライラして・・・・・・それを繰り返しているうちに、いつの間にかこんなことになっちゃった」
滔々と語られる昔話に、私の記憶が少しずつ呼び起こされていく。
そうだった。ある時期から、淡井は急にテストの点数を私と比べるようになった。私に対してつっけんどんな態度をとるようになった。
僅かな間、淡井の顔が悲しみに歪んだ。何かを後悔しているような表情だった。
「私、坂本さんのことが好きで、嫌いで、好きなんだ」
そう言って、また彼女は俯いた。沈黙が流れた。心臓の音がはっきりと聞こえてくる静けさだった。その静かさが怖くなって、私は辛うじて「それは知らなかった」と絞り出した。
これは本当に淡井なのかな、とふと疑問に思う。目の前にいる、この天敵を前にした小動物のようになっている彼女と、普段の不敵で挑発的でこの上なくむかつく彼女とが、どうしても重ならない。
普段の淡井と違うから、私も普段と違う私になってしまうんだ、という考えにたどり着くのに、そう時間はかからなかった。
そうじゃなければ、このドキドキに説明がつかない。
これ以上この場にいては危険だと判断して、その場を立ち上がろうとしたその時、淡井が深く息を吐きだしてから、顔を上げて私を見た。
「じゃあ、二回目、いくね」
「・・・・・・え?」
何のことだろう、と思う暇もなく、淡井の顔が近づいてきた。先ほどのキスが思い出されて、反射的にそれをかわそうとして体勢を崩してしまい、尻もちをついてしまう。
すかさず、淡井が覆い被さるようにしてやってくる。唇が近い。
「ま、まて、引き分けで終わっただろ勝負は、もうキスする必要はないって」
驚いて、早口に言う。淡井は止まることなく口を開く。
「『勝敗を決めよう』って言ったのは坂本さんだよ」
あ、と声が出た。残念ながら、そう発言した記憶が明確にあった。
恐ろしいことになったぞ、と今更ながらに戦慄する。正直、何回キスしたって慣れる気がしない。顔が赤くならない気がしない。こんなの、ほとんど負け戦だ。
それに、これ以上のキスは、危ない。具体的にはわからないけれども、何かが危ない。
手荒だけれども、淡井を強引にどかして帰ろう。
そんな私の考えを見抜いたかのように、淡井が鋭く「逃げる気?」と刺すように言った。
「だったら、坂本さんの負けだね、不戦敗。カッコ悪」
その言葉が引き金だった。キスの時とは全く別種の熱が、体を熱くするのを感じた。
不戦敗。淡井に負けるのはまだしも、不戦敗。戦わずして負ける、淡井に。
でも、今ここで逃げておかないとキスが待っている。
いつの間にか、淡井の動きが止まっていた。まっすぐにこちらを見て、私の答えを待っている。
私はキスと勝負を天秤にかけた。どちらの方に傾くかなんて、結果を見るまでもなかった。
「私は、あんたのこと嫌いだけどね」
決意を固める。
私は淡井の不意を打って、彼女の肩に手を置き、そのまま抱き寄せて唇と唇を重ねた。
完全に油断していたらしい淡井は、本当に、この諺を考えた人が感動するんじゃないか、と思わされるほどに、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
たっぷり三秒ほどそのままの状態を維持してから、離す。彼女の顔が何色かなんて、確認するまでもない。そして私も。
「・・・・・・だから、絶対に負けない」
精々強がって、私は言った。




