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彼女たち  作者: 城ヶ崎
30/71

勝ったのは誰(上)

(下)はまた明日投稿します。


 淡井蛍(あわいけい)が嫌いだ。

 あいつがいなければ、テストの点数も体育の成績も私がいつも一番なのに、二回に一回はあいつに抜かされる。算数のテストを一点の差で、五十メートル走を小数点以下の差で、あいつに、淡井に負かされる。

 あいつが一緒のクラスにいるせいで、私は時折一位の座を逃す羽目になる。

 だから、私は淡井蛍が嫌いだ。




 


 三時間目の授業の、算数でのことだった。

 「はい、ちょっと難しいけど、これ分かる人ー?」黒板に問題文を書き終えた先生が、教室全体を見渡してから言った。その瞬間、二つの手が挙がった。私と、淡井だった。

 しまった、と歯噛みする。一瞬だけ、淡井の方が早かった。

 「お、淡井さんの方が少し早かったかな」先生が嬉しそうに言った。「じゃあ淡井さん、黒板に答え書いてくれる?」


 「はいっ」


 淡井は気持ちの良い元気な声でそう答えて、椅子から立ち上がって教壇に上がった。先生みたいに慣れた手つきで、問題文の横に答えを書いていく。淡井は低学年の頃から、ああやって自分の答えを黒板に書く機会が多かった。チョークの扱いはもうとっくにお手のものだった。

 黒板とチョークとがぶつかり合って、硬質な音が教室全体に響き渡った。

 まだ答え合わせも済んでいないのに、皆が淡井の書き出す回答をノートに写している。誰も、淡井が間違うという可能性をこれっぽっちも考慮していない。

 淡井、間違えろ。呪いでもかけるかのように、私は心の中でそう呟く。間違えて、私に回答権を譲れ。

 チョークの音が止まった。次いで、先生の「はい正解、お見事」という声。

 淡井は手に付いたチョークの粉を払い落とすと、澄ました顔で自分の席に戻った。

 窓から入ってきた風が、彼女の黒くて癖のない、長い髪をなびかせた。

 席に着く直前、淡井は私の方を見て、挑発的な笑みを浮かべた。これで一勝、とでも言いたげな笑みだった。私はそれに心底腹が立ったから、舌を出して、これでもかってくらいのしかめ面を浮かべた。

 着席した彼女はポケットから「勝敗メモ」を取り出して、そこに鉛筆を走らせた。

 同様に、私も勝敗メモを開いて、続きのページに黒い丸をに塗った。

 次こそは、とリベンジに燃えたものの、その算数の授業で再び発表する機会は訪れず、結局、一回負けの勝ち無しという結果に終わってしまった。




 


 日常のどんな些細なことでも、私と淡井は勝敗を争った。朝、どちらの方が早くに登校しているだとか、給食を先に食べ終わったのはどっちだとか、そんなことですら競いあった。

 どういうきっかけで私と淡井がこのような戦いを始めたかは覚えていないけれども、三年生の頃から始めたことは覚えている。それは五年生になった今でも変わることなく、むしろより大きい火花を散らしながら続いている。来る日も来る日も、勝敗メモを埋めている。

 時々、どうしてこんなにも淡井に対抗心を燃やしてしまうんだろう、と疑問に思う。

 うんうんと考えた末にたどり着く結論はいつも同じで、要するに、羨ましいんだろうな、というものだった。

 あいつのまっすぐに伸びた綺麗な黒髪は、癖毛で少し茶髪の私にとっては、もうこの上なく羨ましい。

 だからこそ、淡井には負けたくない。あんな日本人形みたいな髪のやつには、例えどれだけ下らないことでだって、負けたくない。





 四時間目の体育は、今学期初の水泳だ。多くの人が楽しみにしていたプール開き。それはもちろん私も例外じゃなく、皆と同じように、浮わついた思いを胸にプールへと向かった。

 水着に着替えて、コンクリートのプールサイドに出る。普段の直射日光のせいで、足場はちょっとしたホットプレートみたいになっていた。

 今日の気温は例年通りの、つまりうんざりするくらい暑い。そのおかげで、プールの水面が余計に輝いて見えた。早く入りたい、という願望を抑えていられるのも時間の問題だった。

 ふと、浮かない顔の淡井に気づいた。プールから離れた隅の方で、一人突っ立っている。

 不思議に思って眺めていると、淡井と目が合った。その瞬間、彼女はばつが悪そうに、目を逸らした。

 ああ、そういえば、と思い出す。そうだ、淡井は泳げないんだった。すっかり忘れていた。

 運動神経抜群の淡井にしては意外なことに、彼女はほんの十メートルだって泳ぎことができない。なんでも、水に浮かぶ感覚が恐ろしくて、上手く体を動かすことができないとか。

 仕方の無いことだと思う。そういう、頭では分かっていても体が受け付けないようなことは、そう簡単に克服できるものじゃない。

 それに、泳げなくたって、将来困るようなことはない。水泳選手を目指してるなら別だけど、泳げない人はそもそも水泳選手を目指さない。というか、淡井のように容姿端麗女なら、泳げないことがむしろ高評価かもしれない。そういった弱点は、親しみやすさでもあるはずだから。

 この時間中は勝負は無しだな、と密かに安堵する。淡井を打ち負かすのも良いけど、せっかくのプールを純粋に楽しみたい気持ちもあった。

 自分の頬が緩むのが分かる。たぶん、すごいだらしない顔をしている。淡井に見られてはなるまいと、私は彼女に背を向けた。

 先生が来るまでの間、特にすることもなく、私はただぼうっと風に合わせて形を変えるプールの水面に心踊らせた。

 良いなあ、冷たいんだろうなあ、気持ち良いだろうなあ。

 そんなことを取り留めもなく考えていると、不意に後ろから肩を掴まれた。思いのほか強い力だったので、私は驚いて振り向いた。

 淡井がいた。険しい目つきで、私を睨みつけている。

 「な、なに?」鬼気迫る彼女の表情に気圧されたことを悟られないように、私はできるだけ不敵な風を装って応えた。

 「坂本さん、勝負よ」淡井はずいずいと顔を近づけて、静かにそう告げた。


 「勝負って、なにで」

 「水泳勝負」

 「はあ?」


 耳を疑った。

 水泳勝負。淡井は確かにそう言った。でも、淡井は泳ぐことができないはずだ。

 もしかして、泳げるようになったのか。今日のプール開きに間に合うように、学校外のプールで猛特訓してきたのか。

 淡井の闘志に満ち溢れた瞳を見ていると、もはやそうとしか思えなくなってきた。そうだ、こんな闘争心剥き出しの奴が、泳げないはずがない。

 「・・・・・・わかった、そこまで言うなら、いいよ」私は頷いた。「二十五メートル、先に泳ぎ切った方が勝ちでいい?」

 淡井もまた、無言のうちに頷いて、言った。「逃げないから」

 突然、甲高いホイッスルの音が響いた。いつの間にか、先生が来ていた。


 「はいはい、皆並んでね。準備体操から始めるよ」


 淡井は身を翻すと、列の中に入っていった。

 私は先ほどの淡井の言葉に引っ掛かりを覚えた。逃げないでよ、ではなく、逃げないから。



 



 準備体操、プールに入って少し泳いだ後は自由時間だった。

 誰に言ったわけでもないのに、どういうわけか、クラスの皆が私と淡井の勝負のことを知っていて、二つのコースを空けてくれていた。戦いの舞台が整えられていた。

 隣のコースに立つ淡井を見る。彼女の腰にはブイが巻き付けられていた。身に着けるビート版のような物だ。ぷかぷかと浮かぶ。

 なるほど、と思う。別に淡井は泳げるようになったわけではなくて、あのブイを利用して強引に泳ぎ切ってしまおう、という作戦に打って出たらしかった。

 心なしか、彼女の呼吸が荒いように感じた。


 「大丈夫?」

 「え、なに? 別にブイ使ってもいいでしょう?」

 「いや、そういうことじゃなくて、あんた泳げないんじゃないの?」

 「泳げないからブイ使うの。心配はいらないわ。というか、坂本さんに心配されても嬉しくない」

 「・・・・・・あっそ」


 柄でもないことをして後悔する。もう、やっぱりこいつ嫌いだ。

 溺れても助けてやんねえ。

 とは思ったものの、ブイを身に付けている限り、まず溺れることはない。非常に癪だけれども、淡井の言う通り、心配には及ばない。

 「あの時計の秒針が一番上にいったらスタートな」そう言って、私はプールサイドに立つ大きなスポーツタイマーを指さす。隣の淡井が小さく頷いた。

 何人かのクラスメートが私たちを見ていた。なんだかやりにくかった。

 意地悪でもするかのように太陽がギラギラと光って、水につかっていない部分を熱してくる。冷たい感覚と熱い感覚が同時にあるこのプール特有の感覚が、私は好きだ。

 タイマーの秒針が、いよいよ頂点に達しようとしていた。九秒、八秒、七秒・・・・・・。

 私は吸えるだけの空気を取り込んでからできるだけ深く潜り、目一杯の力で壁を蹴った。水泳において、最初の伸びは重要な部分だ。

 ドルフィンキックで距離を稼ぎ、水中から勢いを減少させることなく水面へと出て、クロールを開始する。

 息継ぎのついでに、隣のコースの淡井の様子を窺う。意外なことに、彼女は私のほとんど真横にいた。泳ぐことができない、とは到底思えない、綺麗なフォームだった。

 ぎくりとする。こいつ、浮かぶことさえできればちゃんと泳げるのか。

 息継ぎの回数を減らし、腕の回転数を底上げする。二十五メートルなんてすぐに終わってしまう。だから、今ここで引き離しておく必要がある。

 息苦しいけれども、水を掻き分けて、前へ前へと進む感覚は爽快だった。

 二十メートル辺りで、隣に淡井がいないことに気づく。

 勝利を確信して、頭を少し下げて後方を確認する。あいつとの差がどれだけあるのか、しっかり確認してやる。

 淡井は十五メートル付近にいた。

 異常に気づく。彼女の姿勢が泳ぐためのそれではなかった。思わず、私は全ての動きを止めて、その場に立って詳しい状況を確認した。

 紐の結びが甘かったのか、はたまた紐自体が傷んでいたのか、何が原因なのかは分からないけれども、ただ確かな事実として、淡井の体からブイが外れていた。

 頼りを失なった淡井は、見るからにパニック状態に陥っていた。

 場所も悪い。プールは基本的に中央にいけばいくほど深くなっているから、今淡井がいる所は一番深い。彼女の身長は高くなく、むしろ低めの分類される。鼻が水面から出るか出ないか、といった身長だ。

 

 「淡井っ!」


 誰かが彼女の名前を叫んだ。少しして、それが他でもない自分の口から発せられたことに気づく。いつの間にか私はプール底を蹴って、淡井のもとへと向かっていた。

 淡井と私の間には五メートルも無く、たどり着くのは一瞬だった。

 私が淡井の腰に腕を回すのとほとんど同時に、私の首に彼女の腕がかかってきた。生命の危機を感じて咄嗟に出た行動だと分かっていても、こんなにもあっさりと淡井が私を頼るのは意外だった。

 密着したことで、彼女の震えが直に伝わってくる。恐怖の程が伝わってくる。馬鹿なんじゃないのか、と率直に思う。こんなに怖いなら、止めておけばよかったのに。

 淡井を抱き込むような姿勢で、ゆっくりと浅い方に移動する。その間、彼女の腕はまるで緩む気配をみせず、もしかしてどさくさに紛れて私を絞め殺すつもりなのでは、と戦慄した。

 もう溺れる余地がない程の深さの地点に来てもなお、淡井は依然として私に抱きついていた。普段の彼女からはとても想像できない。こんな姿の彼女を想像することは、宇宙の外を想像することに等しい。

 「淡井、もう大丈夫だから、離れて」そう呼びかけてみても、反応はなく、ただぼうっと私を見上げている。ショックがよほど大きいと見える。

 

 「淡井さん、坂本さん、大丈夫?」


 プールサイドから先生が声をかけてきた。


 「私は大丈夫ですけど、淡井さんがちょっと、怖かったみたいで」頑なに口を開こうとしない淡井の代わりに、私が答える。「淡井さんは、もう休憩しといたほうが良いと思います」

 

 「あらそう、じゃあちょっと悪いけど坂本さん、淡井さんをこっちに連れてきてくれる?」

 「先生、私は大丈夫です」


 何の前触れもなく、淡井が言った。普段と変わりない声音だった。

 

 「え、そうなの?」

 「はい」

 「いや、無理すんのやめなよ。明らかに大丈夫じゃなかったって」


 私がそう口を挟むと、淡井が下から睨みつけてきた。負けじと視線を返す。

 「じゃあ、私から離れてみてよ」意識的に、挑発の色を滲ませて言う。「大丈夫だったら、できるでしょ」

 言い終えてからしばらくの間、淡井は黙りこんだ。ほらやっぱり、と言おうとしたところで、そろりそろりと、私の首から腕を解いた、と思いきや、今度は私の手を握り始めた。

 なに、この手は、と見つめていると、それもまた放していった。

 一人でも平気であることを証明するかのように、淡井は両手を挙げた。

 

 「ううん、まあ確かに大丈夫そうね。でも淡井さん、どこか痛かったり、しんどくなったらすぐ言ってね」


 先生はそう言い残して、別のところで遊んでいるクラスメートの方へと歩いて行った。

 「せめて、泳げるようになってからにしなよ」私はまるで独り言でも呟くように言った。「心配になって、勝負にならない」

 その言葉を口にした直後、しまった、と後悔する。「心配」だなんて言葉、使うべきじゃなかった。


 「心配って・・・・・・」

 「いや、あ、違う。今のはなんというか、言葉の綾みたいな」


 ちゃんと聞いているのか聞いていないのか、淡井はまた静かになって、俯いてしまった。

 あちこちで楽し気な声が聞こえてくるのに、私たちの周りにはそれがなく、あたかも私と淡井だけが周囲とは別の空間に隔離されてしまったかのように感じた。

 なんだか気まずくなって、私はその場を離れようと彼女に背を向けた。

 皆に混じって遊ぼう。そうしよう。

 

 「ありがとう・・・・・・」


 後ろから聞こえてきた声に、私は聞こえなかったふりをした。





 

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