強迫性ライバル
自分にとっては特別な人、または大切な人と思っていても、相手にとっての自分はその他大勢なんていうことは、ままある話だろう。
そのような状況に嫌気が差しても、大抵の場合、どうしたって覆しようがないこともままあることだ。
それはとても辛いことではあるが、それよりも輪をかけて辛いことは、それを理解していながら、なおも諦めきれないでいることだろう。
ネット一枚挟んだ向こう側にいる彼女、火口さんを見た。額に汗を浮かべ、酸素の循環が間に合わず、肩を上下させている。苦しそうな表情を浮かべ、それでもなお闘志を失わない瞳。
彼女の背後にチームメイトの面々。真剣な面持ちで、この試合を観戦している。
外からは狭く、動き回るにはとても広く感じられるコートの中、ネット一枚を挟んで対面する火口さんと私。
まるで対比だな。そう思って、私は自嘲した。
放課後の体育館。私たちバドミントン部は今日も汗を流す。
「あー、今日も負けたー」
項垂れて、火口さんは悔しそうに、心底悔しそうに、言った。
スコアボードを横目に見た。二十 対 十三を示している。火口さんが十三点で、私が二十点。今しがた一点獲得したので、二十一点でゲームセット。最後の一ポイントが更新される必要はない。
彼女も私も、ぽたぽたと滝の様な汗を流している。
暑い。軽いシャトルを扱うバドミントンという競技において、風は天敵であり、ただでさえ熱の籠る体育館を閉め切らねばならず、六月という季節も相まって、その体感温度は常軌を逸している。
「でも、やるたびに動きよくなってるよ、火口さん」
「えー、そうかな?」
励まそうという訳ではないが、私は火口さんに声をかけた。
実際、ここ数日での彼女の動きは微小ではあるが良くなっている。これは本人にでも、観戦をしているチームメイトにも分からない、相手をした私だけが気づくことができるものだ。
「ぐっちー、みずのー、お疲れー」
マネージャーの真野さんが、給水用ボトルとタオルを手に駆け寄ってきた。汗をぬぐい、ボトルに口をつけると、スポーツドリンク特有の甘みと塩気が疲れた体に染み入るようだ。
浴びるような角度でそれを一息に飲み干すと、火口さんはネットの片づけに移った。
部活動時間はとっくに過ぎていた。ここ最近、一日の練習をこなした後で、私と火口さんはこうして試合を行っていた。来る大会に備え、彼女は大幅な成長を望んでいるのだ。
火口さんは中学生からバドミントンを始めたらしく、高校でもこうして続けている。実力としても、部内では上位に入るだろう。もともと筋が良いに違いない。
一方、私はバドミントンとは小学校低学年の頃からの付き合いで、費やした時間の分だけが勝敗を決するというわけではないのだが、いまだ彼女は私に勝てないでいる。毎日毎日飽きもせず、不貞腐れず、その瞳を輝かせながら挑んでくる。
私は彼女のその姿勢を好ましく思っていて、いつしか、並々ならぬ親密感を覚えていた。
「じゃあ、水野さん。今日もありがと・・・・・・えっと、じゃあねっ」
着替え終わると、火口さんはそう言って帰っていく。ぶんぶんと手を振るその姿は、彼女の体格も手伝って少し幼く見える。他の部員たちも、それぞれ固まって、帰路に就いた。
後に残ったのは私一人で、体育館の戸締りのために片手に鍵を持っていた。明かりを消すと、広大な体育館は一面闇に染まり、なにか本能的な恐怖を掻き立てられる。
戸締りの係は、私が率先してやっている。基本的には一年生がする仕事なので、一年生である私がするのは自然なことではあるが、私の場合、他の子たちの分まで引き受けていた。
私は部内で孤立していた。誰かの悪意でそうなったわけではなくて、じゃあどういうことかと問われれば、ただ成り行きでそうなったと、曖昧にしか答えようがない。
元来、人と仲良くするのが苦手なのだ。
だからこうして、戸締りを率先して引き受ける。彼女たちに混ざって談笑に興じるわけでもないのに、誰かにその仕事を任せて帰ろうという気には、我ながら卑屈だと感じるが、私には思えなかった。
外に出ると、もう日は完全に沈んでいて、辺り一面は暗くなっていた。
今日も疲れた。練習メニューもさることながら、その後にする火口さんとの試合は特別こたえる。彼女としても、かなりの疲労を感じているだろう。
汗を流し、しかし私を見据える火口さんの姿を思い出す。
私は火口さんはいつもまっすぐで一生懸命で、バドミントンに打ち込む姿は同性ながら、非常に格好いいと、密かに思っていた。
仲良くなってみたい。友達になりたい。彼女にとっての、特別になりたい。
帰り道、私はいつもこんな願望を人知れず垂れ流し、その衝動に身を焼いていた。
しかしそれは、到底叶わない代物だ。
火口さんは可愛くて、明るく天真爛漫で、当然友達だってたくさんいるのだ。そんな彼女にとって、私は所詮同じ部活の一人。
そんな私が火口さんにとっての特別でいるには、バドミントンにおいて、彼女に負けないことが大切なのだ。
彼女のそのひたむきな向上心を、私と切磋琢磨することによって強くなろうとする意志を利用し、良きライバルとして彼女に立ちはだかることで、私は唯一無二でいられる。彼女のあの燃え盛る瞳を独り占めにできる。コートの上でなら、私は彼女と同等でいられる。
しかし、最近はそうも言っていられない。火口さんの成長は著しく、私を打ち倒す日は、そう遠くないように思えるのだ。その日、私は一体どうなってしまうのだろうか。
それに、コートの外で火口さんを見ると、たまらなく苦しくなる。コートの外にいる私は、彼女にとってなんら価値のない、路傍の石ころ程度の存在だ。最近の私は、コートの内と外とでの立場の違いに、筆舌に尽くしがたい胸の苦しみを感じている。
だからせめて、何者でもなくなってしまわないように、一日でも長く、火口さんの特別でいられるように、私は勝ち続けなければならない。
私の心を反映したかのような暗い夜道、重たい体を引きずるように、私は帰路に就いた。
翌日の試合も、私が勝利した。
スコアボードには二十 対 十六の表示。私の心はひどく粟立った。昨日よりも三点多く得点されている。
火口さんは敗北に歯がみしている。昨日よりも多くの得点ができた喜びよりも、敗北する悔しさの方が、彼女にとっては上なのだ。
向上心。私は彼女の持つそれの強大さに身が震える思いだった。
「水野さーん、今日もありがとうね」
後片付けを終え、火口さんはいつものようにそう言って、しかしそのまま帰宅せず、どういうわけか、じっと私を見た。
「水野さん、顔色悪くない? 大丈夫?」
彼女はそそっと私の側に近づくと、明らかな心配を込めて言った。
柑橘系の良い香りが鼻を通った。彼女が愛用している制汗剤の香りだった。
「もしかして、私が調子に乗って毎日試合したからかな? ごめんね、水野さん」
彼女は眉を八の字に下げると、申し訳なさそうに言った。あまりにも悔いた声音だったので、思わず罪悪感を覚えた。
「ごめん、本当にごめんね。明日からは控えるよ・・・・・・一人でかえ」
「全然、大丈夫だよ!!」
彼女の言葉に、私は続きを遮って、声の調整も忘れて言った。ほとんど怒鳴りつけるような勢いだった。
試合を控える? 冗談じゃない! そんなことになったら、彼女にとっての、火口さんにとっての私はどうなってしまうんだ。良きライバルとして彼女を打ち負かすことによって保たれてきた私という矮小な存在は、どうなってしまうんだ!
突如として昂った私に、火口さんはもちろん他の部員も目を丸くしていた。
「そ、そっか。そうだよね、大丈夫だよね。ごめん、お節介だったね」
少しぎこちない笑みを浮かべて、火口さんは今度こそ体育館を出た。手が遠慮がちに小さく振られている。他の部員も後を追うようにしてそそくさと出ていく。
体が重い。だめだ、弱音なんて吐いていられない。
私は明日も、その明日も、そのまた明日も、勝ち続けるんだ。火口さんの特別でいるんだ。
私は一人、体育館を出た。
その日は寝覚めから最悪で、どうにも心が刺々しいように感じた。
いけない。バドミントンとは、スポーツとは自分との戦いだ。こんなメンタルでは、負けてしまう。
そう自分に呼びかけ、なんとか心を律しようと努めるも叶わず、その時間はやってきた。
ラケットを振る手が、シャトルを追いかける足が、火口さんと向かい合う体が重たい。
昨日にも増して、彼女の動きは良くなっている。試合の様子をビデオに録り、確認している。そう彼女は言っていた。
暑い。汗がべたつく。風、何か涼しいもの。何でもいいから。ああでも、バドミントンに風は天敵だ・・・・・・
シャトルが枠内に落ちた。スコアボードを見る。
十六 体 二十。最後の一ポイントは、更新される必要がない。
ネットの向こうには、浮かない表情の火口さんがいる。
私は初めて、火口さんに敗北した。
身体中を、何か熱いものが駆け巡った。たまらず、私は走り出した。
「水野さん!」
背中に、火口さんの声が刺さった。構わない。今はどこか、どこでもいい。逃げなければ。
何から逃げるの?
私は沸き上がる問いかけに、答えられないでいた。
私の逃走は呆気なく終了した。追いかけてきた火口さんに難なく捕まったのだ。
校舎と離れの体育館を繋ぐ、風の通る渡り廊下だった。
手を強く握りしめられる。これ以上なく直接的に伝わる彼女の温度が熱い。
「つ、つか、はぁ、はぁ、つかまえ、た」
息も切れ切れに、火口さんはニッコリと笑った。彼女特有の、太陽のように明るい笑顔だ。
その太陽にあてられて、私の逃走意欲はたちどころに霧散した。
立ち止まってから、しかし、どうすればいいんだと途方に暮れた。この奇行を、私はなんと説明したらいいんだろう。
「大丈夫っ」
そんな煩いをバッサリと切り捨てるように、彼女はあっけらかんとして言った。
大丈夫って、何がだろう。でも、大丈夫らしい。彼女のその大きな目が、言外に説得力を持たせた。
「座ろっ、ね。座ってお話ししよっ」
さささ、どうぞどうぞ。見習いの旅館スタッフのような仕草で、彼女は促した。
屋根を支えるコンクリートの柱に、二人揃って背中を預けた。ひんやりとした感覚が、背筋を伝う。
「・・・・・・でも、話すって、何を?」
何となく一息ついたところで、私は言った。我ながら、空気の読めない女である。
「わかんないっ」
火口さんは当然とばかりに、そう返した。
本当は、私の奇行について訊くべきだろうに。しかし彼女はあくまでじっと、ただ私の言葉を待つばかりだった。
肩が触れ合う距離になって初めて、彼女の温もりを感じた。穏やかで、微睡むようで、緊張の糸がほつれ、凍った心がゆっくりと、雪解けのするような、そんな温もりだった。
話したくなった。心のうちを述懐し、この暗闇を晴らしてみたくなった。
でも、どこから話そう。
逸る思考は足を止めて、然る後歩き出す。
「・・・・・・自分にとっては大切な人、特別な人と思っていても、その人から見た自分は、特別でも何でもない、ただの人。私はそれが、嫌で。とてもとても、嫌で」
唐突な切り出しで、強張った語り口。火口さんは何も言わず、ただ続きを待っている。
「だから、私、火口さんから試合の誘いをうけた時、嬉しかった。火口さんは負けん気が強くて、だから私が勝ち続ければ、火口さんは私だけに、情熱を燃やしてくれるから。・・・・・・火口さんにとっての、特別でいられるから」
かなり踏み込んだことを言っているのが、自分でもわかる。誰にも話すまいと決めていた想いを、よりによって火口さんに話しているというこの状況を、一瞬、白昼夢と錯覚した。
隣から、火口さんが相づちを打つのが聞こえた。
「でも、負けちゃった。せっかく手にしたチャンス、だったのに。まだまだ、特別でいたかったのに・・・・・・」
これでもう、石ころに後戻りだ。
私は深く項垂れた。全てを言い終わった。
火口さんは、隣に座る彼女は、果たしてどんな表情を浮かべているのだろうか。全てを聞いた彼女は、一体どんな表情を。
日が傾きかけていた。他の部活動はもう終了していて、校舎全体が眠ったように静かだった。
しばらくの間、沈黙が続いた。涼しげな虫の鳴き声だけが、辺りを満たしている。
私は、隣の火口さんの存在に緊張し、ただただ身を強張らせた。
「・・・・・・わかるなぁ」
火口さんはそう言って、沈黙を破った。うんうんと一人頷く彼女の緊張感のなさたるや、私は思わず顔をあげた。
しかし、わかるとはどういうことだろう。
交代するように、私はその続きを待った。
「私もそういうので、よく悩むもん」
彼女があまりにも何でもない風に言うので、私はその言葉の意味を理解するのに手間取った。その後、仰天した。
あの火口さんが、この女の子が。いつも明るく天真爛漫で、笑顔をこれでもか振り撒く彼女が、私と同じようなことを考えているだなんて。にわかには信じられない。
しかし、それが事実だったとして。火口さんにそう思われるような人物とは一体・・・・・・?
想像もつかない。つかないが、私は顔も知らぬその人に嫉妬した。ハンカチがあれば「むきいいいいっ」と言って噛みちぎっていただろう。
「最近もさ、試合に誘ってきっかけを作ろうって頑張ってるのに、全く上手くいかないんだ。その人と」
寂しいようと、彼女は口を尖らせた。
動揺から、つい彼女の顔を見た。彼女もまた、私を見ていた。自然の流れで、二つの視線が交わった。
彼女ははにかんで、口をもごもごさせるばかりで何も言わない。私も、話の流れを上手く汲めず、何も言えないでいる。
「・・・・・・もー、水野さんのことだよ?」
しびれを切らして、彼女は言った。目がまっすぐに私を捉えている。
みずの、ミズノ・・・・・・水野。私だ。
かあっと、顔が赤くなるのを感じた。
「え、な、ななななな、何で!? ど、どうして!?」
揺れ動く感情に合わせるかのように、私は言葉を詰まらせた。湧いて出る言葉の膨大な数に対して、口が一つではとても釣り合わない。脳から喉にかけての渋滞がおきている。
なぜ、そんな回りくどいことを。
宇宙に届けんとする勢いで自分を棚上げして、私はそう思った。
「だって水野さん、なんか近寄り難いじゃん」
言う前に、彼女はそう答えた。拗ねたような口調だ。
「水野さん綺麗だし、バドミントンも超強くてカッコいいし、仲良くなりたいってずっと思ってたんだよね。だから私、無い頭使って必死に考えたんだー。そしたら、これだって、閃いたのです」
それが、これまでの試合。
つまりそれは、腕前をあげたかったというのは建前半分本音半分で、その真の目的は私と仲良くなるためのものだったということを意味することになる。
間違いない、これは夢なのだ。こんな都合の良い展開、許されるものか。しかし、目の前でこうして照れくさそうに笑う火口さんを見るに、とても夢の中とは思えない。
「あー、なんか恥ずかしいよー」
手で顔を隠すと、彼女はそう呻いた。見れば、彼女の耳が赤く染まっている。
私はどうだろう。そっと耳に触れた。ほんのりと熱い。これはきっと、夏の暑さのせいではない。
「まっ、でも、これはお互い様ってことで」
そう言って、火口さんはその白い手を差し出した。
照れ笑いを浮かべる彼女は平常のそれとは違い、かなり新鮮なものだった。
「水野さん、私と友達に、特別になってくださいっ」
夢にまで見たその言葉に、私は目が潤むのを感じた。なんとかそれをやり過ごしてから、私はその手を握った。
「こ、こちらこそ」
何か気の効いたことの一つでも言ってみたかったが、今の私にそんな余裕はなかった。普段ならあるのかと言われれば、甚だ疑問である。
互いの温度を手で伝えあい、火口さんはそっと、緩やかに破顔した。
「後片付けしたら、一緒に帰ろ?」
明くる日の放課後、私は火口さんから勝利をもぎ取った。昨日の雪辱を晴らしたことになる。
あーんと、火口さんが呻いた。たった一度の勝利で満足する彼女ではない。今日もまた、彼女は勝つつもりでいたのだ。
動き大分良くなってるよ。私は言った。そうかなー。火口さんはそう返した。
スコアボードを見た。二十 体 十八。一昨日の彼女の点数に比べて、また二点増えている。
でも、恐れることはない。
太陽が照りつける六月の中、窓を締め切った体育館で、私たちバドミントン部は、今日も汗を流す。
最早ガールズラブではない気がする