一方通行この先行き止まり
まず間違いなく、どこかの時点で、私は間違った選択をした。
何の前触れもなく、季節は秋から冬に移り変わった。そもそも、今年は秋という季節は存在していただろうか。記憶に無い。
朝から、社会人の通勤意欲を削ぐような、学生の登校意思をより薄弱にしてしまうような、そんな冷気をふんだんに含んだ風が吹いていた。そんな中、私はいつものように制服に身を包んで歩いていた。スカートから露出した足が容赦なく風に晒されて、寒いを通り越して痛い。毎朝毎朝、スカートの下にジャージを履きたいという欲求に駆られる。一応、校則ではよいとされているけれども、オシャレ的にはよくない。
自宅から歩くこと数分、私は目的地へと着いた。学校ではない、でも、学校よりも大事な場所、すなわち、恵の家だ。
黒いインターホンを押す。かち、という固い感触の後、間延びした、甲高い音が鳴った。少ししてから、インターホンから「今出るね」という声が聞こえてきた。聞き慣れた声、他の誰でもない、恵の声。胸が高鳴る。
「おまたせー、彩良。今日も寒いねー」
一分もしないうちに、恵は出てきた。おっとりとした目元、柔和に微笑む表情、少し癖のある、ふわふわとした長い髪。ゴールデンレトリバーのような女の子だ。
「おはよう、恵。じゃあ行こっか」にやにやと口元が緩むのが自分でもわかる。それを隠すために、首に巻いたマフラーに口元を埋める。
二人並んで、学校へと向かう。今日は昨日よりずっと寒いんだってー、とか、今日の運勢七位だったー、などの恵の発言を油断なく耳に入れつつ、私は横目で彼女の表情を子細に観察した。彼女は相も変わらず可愛らしい笑みを浮かべている。こんなに寒いというのに、なんて良い子だろう。
それから十分ほど、恵は喋り続けた。朝起きてから私に会うまでの間のどこでそんなに話のネタを仕入れてくるのだろう、毎朝の不思議だ。
ふと、会話が途切れた。ここだ、という内なる声があった。
右手を、ぷらぷらと自由にしている恵の左手めがけて伸ばし、そっと握った。彼女の体温が伝わってくる。お互い手袋を着けていないのだから、当然どちらの手も冷たいはずだ。それなのに、手と手が触れ合うとこうも暖かくなるのは何故なんだろう。
再び恵の表情を盗み見る。緊張の瞬間だ。
彼女は視線を自らの左手、私の右手に注いで、困ったように微笑んでいた。それでも、決して手を振り解こうとはしなかった。
よかった、と胸を撫で下ろす。これで今日も、私は恵の彼女でいられる。
私が恵の恋人になったのは、つい一か月ほど前からだった。恵を好きになったのは更に前のことだ。
告白を断られたらどうなってしまうのか、少なくとも、小学生の頃から続く、「恵の友達」という立場ではいられなくなる。それどころか、今までのように一緒にいることすらできなくなるかもしれない。
様々な不安があった。ともすれば、やっぱり告白なんてやめよう、欲張らずに、今の状態を維持しよう、という思いが湧き上がってくる。それでも私は、想いを伝えることを決意した。
放課後の、誰もいない教室でのことだった。私は彼女に告白した。
その時の恵の表情は、困惑やそれに類する様々なものの集合体だった。そして少なくとも、そこに喜びの類の感情は無かった。
恵は何も言わず、教室内のあちこちを落ち着きなく見回した。まるでどこかに最適解が落ちていないか、と探しているようだった。
そうしてから、恐る恐る、といった風に、恵は私を見た。その時私がどんな表情をしていたかは分からない。たぶん、泣きそうな、絶望に満ちた表情をしていたんだろう。
罪悪感からだろうか、恵の顔が苦し気に歪んだ。私はそこに活路を見出した。
緊張で金縛りにでもあったかのように固まっていた足を動かし、恵のすぐ側まで近づいて、彼女の手を握った。必死に、必死に彼女の目を覗き込んだ。縋りつくように、助けを乞うように。
「お願い、恵・・・・・・お願い」
正面から恵に寄りかかり、彼女の胸の中でそう呟いた。
彼女の返答は、私が望んでいたものだった。恵から見えないように項垂れて、私はほくそ笑んでいた。
もう引き返せない。
一切の混じり気なく、純粋に、同情の念だけで、恵は私と付き合っている。そこには、本来恋人たちが持つべき愛は無いだろう。私から恵に一方的に矢印を伸ばしているだけで、恵から私にそんなものは伸びていないだろう。
それがどうした。私はそれで一向に構わない。たとえ同情であろうと、恵の優しさに付け込んだとしても、恋人は恋人なんだ。私には恵しかいない。恵みの代わりなんていない。
それにしても恵は優しいなあ。こんなに優しいと、ちょっと将来が不安になる。悪い人に騙されないように、ずっと側にいよう。
授業終了を告げるチャイムの音が校内全域に流れた。昼休みだ。教室全体に弛緩した雰囲気が満ちた。
私はお弁当箱を持って、恵のいる教室に来ていた。机を二つくっつけて、私と恵はそこに向かい合って座った。
恵のクラスメイトは、誰一人として喋りかけてこない。他クラスの生徒である私がいるせいで、躊躇いがあるのだろう。それは私にとって好都合だ。二人で昼食というのは、いかにも恋人らしい。
恵がお弁当箱の包みを解き、その姿を露にさせた。いつも通りの、小さなお弁当だ。そんな量で足りるのだろうか。
「ねえ彩良ー、午後から雨降るらしいよ。確か、彩良傘持ってきてなかったよね?」
「うん、すっかり忘れてた」
「もうー、ちゃんと天気予報確認しないとだめだよ?」
「今日のところは相合傘でお願い」
「うん、いいよお」
恵とのとりとめのない会話、しかし大切な、掛け替えのない会話。それに集中すると同時に、私は別のことを考えていた。すなわち、今ここで「あーん」を決行しても大丈夫だろうか、という考えだ。付き合って三日目ぐらいの頃から現在に至るまで、私は毎日飽きることなく、それについて考えてきた。
正直に、私はそういった恋人らしい行為というものに飢えていた。恵が同情心から付き合ってくれているということを知っている分、余計に欲していた。しかし、恵はそうじゃない。
たとえば、毎朝している、手を繋ぐという行為。あれにしても、恵は微妙な、面白いと評判の映画を面白いと思えなかった時のような表情で受け入れる。そのにあるのも、やはり同情心だろうし、「恋人らしい行為」に対して後ろめたい気持ちもあるように見える。
だからこそ、慎重にならざるをえない。欲張って色々なことをして、恵に愛想を尽かされたら、同情心よりも嫌悪感が勝ってしまったら、それは終わりを意味する。
恵の口元と、私のお弁当を交互に見やる。
・・・・・・止めておこう。
心の奥底で暴れる衝動に蓋をして、私は恵の、友人に等しい恋人の立場へと戻ることにした。
恵の恋人でいられることは嬉しい、たとえそこに愛が無くても。でもそれと同じくらい、ここから先に進んではいけないという自制の念と、それに伴う苦しみがある。
恵に告白せずにいたら、彼女の友達のままでいたら、夢を見ずにいたら、こんな思いはせずにすんでいたのだろうか。
最近、そう考えることが多くなった。
なんで恋人になってしまったんだろう。恵みの側にさえいられれば良かったはずなのに。
六限目の授業、私は机に突っ伏して眠ってしまった。その際、夢を見た。
夢の中には恵と私の二人だけしかいなかった。私たちは現実よりも恋人らしく、なんの躊躇いもなく手を繋ぎ、お互いがお互いに「あーん」をして、挙句の果てには、キスまでしていた。
この上なく幸せで、この上なく最悪な夢だった。目覚めた時の喪失感たるや、尋常ではなかった。
名残惜しくなって、私はまた目を閉じた。瞼の裏に、先ほどの夢の続きを写そうとした。でもあるのは暗闇だけだった。寂しくなるような暗闇だった。
私もいつか、恵とあんな風に過ごせるのだろうか。
そんなことを考えると、不意に悲しくなった。その可能性の低さに気づいてしまったからだ。
目じりに涙が溜まる。
違う、これはそういうのじゃない。誰かにそう言い訳する。眠たいから、欠伸をしてしまったから、涙が出てくるんだ。
先生が何事かを解説している声が聞こえてくる。それが妙に鬱陶しく思えて、私はより深く顔を腕の中に埋めた。そしていつの間にか、再び私の意識は深く落ちて行った。
二回目の眠りでは夢を見なかった。だからだろうか、すんなりと目覚めることができた。
背中や肩が凝り固まっていて、じわりと滲むような痛みがある。それを解すために、私は上半身を持ち上げながら、両腕を天井に向けて突き出して、伸びをした。
一番最初に、恵の姿が視界に入った。それから、彼女以外に誰もいない教室、窓から差し込む夕日の光を認識した。
「あ、おはよう、彩良」目を細めて、恵が朗らかに言った。
「・・・・・・おはよう」我ながら呆けた返しだった。
教室前方に掛けられている時計に視線を移す。六限目の授業はとっくに終わっている時間で、むしろ最終下校時間が迫っていた。
「恵、起こしてくれればよかったのに」涎がついていないか心配になり、さりげなく口元を拭いながら言う。
「いやあ、気持ちよさそうに寝てたから、起こすのも悪いかなあって」
「そっか・・・・・・、ごめん、待たせちゃったね」
「ううん、いいよ全然」
それから少しの間、辺りは静謐に満たされた。
寝ぼけた頭が冴えてくるにつれて、今の状況を呑み込めてきた。
二人きり、目の前には恵。起こさずにわざわざ待っていてくれた。やっぱり優しい。
穏やかで温かみのある夕日の光に照らされた恵は、どこか神秘的だった。美術館に展示されている一枚の名画のようだった。思わず凝視してしまう。心を奪われてしまう。
やっぱり私は恵のことが途方もなく好きなんだなあ、と再認識させられる。
ぼうっとして帰り支度を始めようとしない私を見て、恵はくすくすと笑ってから、窓の外を見た。夕日の光が眩しいのか、目を細めている。
その時、私の脳裏に浮かんだのは、先ほど見た夢の光景だった。厚い灰色の雨雲の間を煌めく稲妻のように、その衝動は湧きあがった。
「恵」
「ん? なあに彩良─────────」
椅子から腰を浮かせて、上半身を乗り出し、恵の名を呼ぶ。それに反応してこちらを振り向いた恵の、その無防備な唇に、私は唇を寄せた。
「・・・・・・」
数秒ほどしてから、私は恵からそっと離れた。
恵は呆気にとられた表情をしている。たぶん、私も似たような表情をしているはずだ。なにせ、自分で自分が何をしでかしたのか、うまく理解できていなかったのだから。
再び沈黙が満ちた。その沈黙は今までに経験したことのない、体の芯を、心の奥底を震わせるような、生きた心地のしないものだった。
恵の表情が変わった。鳩が豆鉄砲食らったようなものから、悲しさと罪悪感をはらんだ、危うい微笑みに変わった。
彼女が今にも泣きだしそうなのは、長い付き合いからわかった。
「ごめん・・・・・・」
やっとのことでその言葉を絞り出し、私は鞄を持って足早に教室を後にした。教室を出る間際、項垂れている恵の姿がちらりと横目に入った。ずきりと胸が痛んだ。
もう何も考えられなかった。何も考えたくなかった。
私は足音を派手に出しながら、下足室に向かって逃げるように走った。
念願のキスは、幸せから程遠かった。
学校から出た後もしばらく走った。頭の中から何もかもを追い出したかったから、走りに走った。酸素を求めて口を開くたびに、冷たい空気が喉を通って肺に取り込まれる。冷たくて、痛い。
気が付くと、私は帰り道から大きく外れた、懐かしい道に来ていた。その道は、小学生の頃に恵と一緒に通っていた通学路だった。
体力の限界を感じて、歩き出す。久しぶりに全力疾走したせいか、ふくらはぎが今にも攣りそうだった。
高校生になって歩く思い出の道は、当時の感じとは大きく違っていた。全てが小さく見える。
なんでここに来てしまったんだろう、そう疑問に思っていると、向かいから赤いランドセルを背負った二人の女子小学生が歩いてきた。二人とも笑顔で、何事かを元気に話し合っている。
その二人の女の子の姿に、私は小学生の頃の私と恵を重ね見た。あの頃の私たちも、あの子たちのように純粋に笑い合えていた。でも、もうそれは叶わないだろう。
空を見上げる。綺麗な橙色の空と、ずっしりとした雲。小学校から恵と帰るとき、私はいつもこの空を眺めていた。その時、私は何を思っていたのだろう。
後悔だとか、郷愁だとか、様々な感情が渦となって、いつの間にか目には涙が溜まっていた。視界が滲む。
恵は、もう帰っただろうか。それともまだ教室に一人残っているのだろうか。泣いているのだろうか。そう思うと、胸にぽっかりと穴が空くような感じがした。
二人の女の子は私のすぐ横を通り過ぎて、そのまま歩いて行った。
まず間違いなく、どこかの時点で、私は間違った選択をした。
でも、それを反省するだけの余裕は、私にはもう無い。




