少女インザダーク
月明かりと一本の懐中電灯の光のみが頼りの暗い田舎道で、私は街灯の存在の有り難みを痛感していた。あれが無いだけで、こうも夜道が心細くなるとは。
「何やってんのフジぃ、遅いよぉ」
一歩先を確かめながら、ナメクジもかくやというペースで歩いていると、少し前を歩いていた井埜がそう詰ってきた。
「う、うるさいな、お前が速すぎるんだ」そう抗議の声をあげてみても、井埜は全く意に介することなく「速くしないとオバケでるよ?」と言った。
レベルの低い女だ、感性が幼稚園児のままなんじゃないか。私がその程度の脅かしにビビると思っているのか「うわあやめろやめろ」ビビっちゃった。
「あっはっは、かわいいねえフジ」
夜に似つかわしくない快活な笑い声をあげて、井埜がからかうように言った。むっと頭にくる半面、可愛いという評価は嬉しかった。だからといって、恐怖が軽減されるわけではないけれども。
二泊三日の修学旅行、初日と二日目の夜にはクラス全体でのレクリエーションの時間が設けられていて、その時間に何をするか、という話し合いが、修学旅行一ヶ月ほど前から行われていた。
宿泊先は、近くにはコンビニすら無い田舎である、という先生からの前情報もあって、クラスメートは二日あるうちのどちらか一方を肝試しにすることを熱望した。人工的な明かりが少ない土地ならばそうするべきだ、という考えが透けて見えるようだった。
私はその安易な思い付きに怒り心頭した。何故そのようなことをする必要があるのか。半ば肝試しで決まりかけていたクラスの雰囲気に波紋を起こすべく、私は孤独に一石を投じた。肝試しなんか子供っぽい、代わりに鬼ごっこをするべきだ、と。
様々な反対の意見があった。夏といえば肝試し、などという的はずれな意見もあれば、鬼ごっこも子供っぽいじゃないか、という鋭い意見もあった。井埜は例の快活な笑いを見せていた。
しかし私は一歩も退くことなく、壊れたラジカセのように「肝試しは嫌だ鬼ごっこがいい」と繰り返した。
決着の見えない議論は、最終的に多数決で終わりを迎えることとなった。クラス委員長の「鬼ごっこに賛成の人は挙手をお願いします」という呼びかけとともに、私は天を衝くくらいの気概で手を高々と挙げた。来たれ、同志よ、と無言のうちにクラスメートに語り掛けた。
少しの沈黙の後、委員長が黒板に「1」と書いた。
手を挙げたのは私だけだった。
何となく、私は井埜の方を見た。彼女は口に手をあてがい、肩を小刻みに震わせていた。しかしやっぱり我慢できなかったのか、あっはっは、と、またあの笑い声を響かせた。
いつまで経っても追いつかない私にしびれを切らしたのか、前を行っていた井埜が歩く速度を落として、私の隣までやってきた。
「フジって本当に怖がりだよねえ」私たち以外に人通りがなく、車の一つも走っていない田舎道には鈴虫か何かの鳴き声だけがあり、井埜の声がどこまでも響き渡るようだった。その感覚が妙に心地よかった。
「違う、私が怖がりなんじゃなくて、井埜が怖がらなさすぎるんだ」右手に持った懐中電灯で前方を照らしながら、私は言い返した。
私たちのクラスは総勢四十名で、今回の肝試しでは二人で一組とした、二十組に分かれている。そしてそれぞれのペアに一つずつ懐中電灯が配られている。今の今まで自然とはほとんど無縁なコンクリートジャングルで育ってきた私は、当然田舎の夜がどのようなものか知らなかったけれども、まさかここまでとは、予想もしていなかった。懐中電灯が無ければ、本当に一寸先が闇だ。それをこの井埜という女、まるで臆することなく先へ先へと進んでいくものだから、驚かざるを得ない。
隣を歩く井埜の顔を盗み見る。暗くてよく見えないけれども、まず間違いなくにやけ面を浮かべているはずだ。
「あ、そうだ、ここで一つお話を紹介してあげるよ」そう言う井埜の声は明らかにイタズラっぽかった。「これはある男性の───」
「やめろお前、お前、それ絶対怪談だろ、絶対怖い話だろ」
「怖い話じゃない、超怖い話」
「なおのことダメだろ、ふざけんな」
そんなやり取りの後、井埜はため息を、呆れの念をたっぷり含んだため息をわざとらしく吐き、「そんなに怖いならさあ・・・・・・あの、手でも繋ぐ?」と言って、右手を差し出してきた。
こちらに伸びてきた井埜の手は細く白く、真っ暗な夜であることも相まって幽霊のようだった。私はそれを見つめたまま、しばらく何もできずにいた。
井埜と手を繋ぐ。そういえば、今までしたことがなかった。掌にじわりと汗が滲むのがわかった。さりげなく服で拭ってみても、後から後から滲む。この手汗は何が原因だろう。夏の暑さのせいか、それとも───
「流石のフジでも、手は要らないか」
「あっ・・・・・・」
私が呆けていると、井埜がそう言って自身の手を引っ込めた。どことなく残念そうな声音だった。
沈黙が満ちた。何となく気まずかった。そう思ったのは私だけかもしれないけれども。
何か喋らなきゃ、そう思った刹那、すうっと背筋をなぞるような、思わず鳥肌が立ってしまうような、嫌に冷たい風が吹いた。
なんだか嫌な感じだ、と思ったのも束の間、手に持っていた懐中電灯が急に点滅し始めた。当然スイッチには触れてすらいない。
「わわ、どうしよ井埜」若干パニックになって、井埜にそう問いかける。
「落ち着いて、フジ」いつになく真剣な面持ちで、井埜は静かに答えた。
落ち着けと言われても。私は今にも消えそうな一筋の光を祈るような気持ちで見つめた。しかしそれも虚しく、懐中電灯の光はふっと、ロウソクの火を吹き消した時と同じように消えた。
完全な闇に包まれた。目の前にいるはずの井埜すらちゃんと捉えることができない。足に力が上手く入らず、その場にしゃがみこんでしまう。
「井埜、いる?」ふと不安に駆られて、口にしてみる。間髪入れずに「いるよ」という彼女の声が返ってきた。僅かではあるものの、確かな安心感を覚えた。
「フジ、大丈夫? 立てる?」
「ごめん、ちょっと、歩けない」
「そっか、うん、それでいい、大丈夫。次のペアがここを通りすぎるのを待とう」
私と同じように、井埜がしゃがみこむ気配がした。心なしか、さっきまでよりも、よりはっきりと彼女の姿が見える気がした。
「まさかフジがここまで暗いの苦手とはねえ」静かに笑いながら、井埜が言った。そこにからかいや呆れの気は無く、純粋な驚きがあった。
「夜寝る時とかどうしてるの?」
「・・・・・・部屋の明かりを薄くして、完全には消さないようにしてる」
「なるほどねえ、ちょっとでも明かりがあったらオッケーなんだ」
それからも、フジは何事かを切れ間無く口にした。今日の消灯時間前は何をするか、明日朝早くて面倒だとか、そういったことを。私の気をまぎらわせようとしてくれていることは明らかだった。私はそれを有り難く思う反面、情けなくも思った。
よりによって井埜にこんな姿を見られるとは、なんて格好悪いんだろう。
それに続けて、先程の井埜の手を思い出した。私に向かって差し出された手。か細く白い手。今あれがあればどれだけ心強いだろう。でも言うわけにはいかない。これ以上みっともない姿を井埜に晒すわけにはいかない。
初日のレクリエーションが肝試しに決まると、早速ペア分けが行われた。そっちの方が盛り上がるだろうという意見が多く、男子一人女子一人の男女ペアを二十組作ることになった。
しかし私たちのクラスは男子十九人に対して女子が二十一人いて、どうしても一組だけ女子ペアになる。
「じゃあ私とフジがペアになるよ」
いの一番に手を挙げたのは井埜だった。当然のように私の許可を取っていない下での提案だった。
井埜がこちらに視線を寄越した。彼女にしては珍しいことに、自身の無い、探るような視線だった。
ずるいなあ、その目は。
彼女の無言の問いかけに、私もまた黙って頷き返した。
まっさらな黒板に私と井埜の名前が書き込まれるのを見て、私はしっかりとした、決して無視することのできない胸の高鳴りを感じた。
もうどれくらい時間が経っただろう。感覚的には、もう十分は経っているような気がするけれども、恐らく実際は二分も経ってない。恐怖が時間感覚を狂わせている。
声を途切れさせまいと、先程から井埜が立て板に水とばかりに喋っている。私はそれに、ただただ生返事をすることしかできないでいた。いい加減、申し訳なくなってくる。
「フジ」
井埜が私の名前を呼んだのが聞こえたのとほぼ同時に、私の体が前方に引き寄せられた。体勢が崩れて、上半身が前につんのめる。懐中電灯が手から滑り落ちた。
顔が何かにぶつかる。柔らかくて良い匂いがして、そして暖かい。
自分が井埜に抱かれていると気づくのに、少しの時間が必要だった。
「どう? 手繋ぐよりも効果ありそうじゃない?」頭の上から井埜の声が降ってきた。背中に回された彼女の手の存在が大きく感じられた。
「い、井埜、何を───」
「こういう時は、やっぱり人肌でしょ。おーよしよし」
「な、な・・・・・・」
井埜は私の頭頂部に手を添えたかと思うと、そのまま私の頭を撫で始めた。まるで小さな子供をあやすかのようだった。井埜の手の動きに合わせて髪が乱れる感覚がくすぐったく、でも手放したくない感覚でもあった。
かつてない距離感だった。最早暗くて怖いだとか、そういった感情は消し飛んでいた。頬が急速に熱くなっていく。
離れよう、という考えはまるで浮かばなかった。緊張を解き、体を井埜に預ける。
より密接になったことで、井埜の心臓の音が聞こえるようになった。そこで初めて、彼女の鼓動が早いことに気づいた。鈴虫の涼し気な鳴き声を塗りつぶすような鼓動だった。
「もしかして、井埜も怖いのか?」そう訊くと、彼女は深く息を吸って、吐いた。
「・・・・・・そうだね、怖いよ、色んな意味で」
「・・・・・・そっか」
私だけじゃないのか、怖いのは。
知らず知らずお祈りをするような形に組んでいた手を解き、私は恐る恐る井埜の背に回した。井埜の鼓動がまた早くなった、ような気がした。
「男子の方が良かった?」井埜が言った。「もし私が男子だったら、この状況この上なくロマンチックだけど」
「いや・・・・・・井埜が良かったよ、私は」
「・・・・・・わーお、すげえ大胆じゃん」
「あ、間違えた。井埜でも良かったよ、私は」
「訂正しなくていいよ、そこは」
心臓の音だけが響いていた。これが私のものなのか、はたまた井埜のものなのか、近すぎて判別がつかない。
まあどっちでもいいか。そう結論付けて、井埜が家にいてくれたら電気を消して眠れるのになあ、なんてことを思った。




