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彼女たち  作者: 城ヶ崎
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慣れるまでの間


 約束の時間になっても相野あいのが姿を現さなかったので、私は彼女の家のインターホンを押した。ガチっとした感触の後、家の中で「ピンポーン」と甲高い音が鳴っているのが聞こえた。

 登下校を相野と一緒にすることは、中学の頃からの習慣だった。どちらが提案したというわけではなく、ただ家が近いから、何となくそうしていた。

 「へっちゃん?」まあ寝坊だろうな、とか、遅刻はしたくないな、などと考えながら応答を待っていると、不意にインターホンから私の名を呼ぶ相野の声がした。

 「相野、寝坊? 十分くらいなら待つけど」私が言うと、相野が困ったような声を出したけれども、ノイズが混じっていてよく聞き取れなかった。耳を近づけると、辛うじて「家に入ってきて」と聞こえた。

 途端に不安になる。何か良くないことでもあったのだろうか。階段から転げ落ちて大怪我をしたとか、突然発作のようなものがあったとか、そういう良くないことが。

 玄関のドアを開いて中に入る。二階へと続く階段と、奥の方へと延びる廊下があって、その奥の方、おそらく洗面所から、相野の「こっちこっち」という声が聞こえてきた。

 慌てて靴を脱ぎ、廊下を歩いて洗面所に向かう。

 洗面所に相野はいた。既に学生服であるブレザーに身を包んでいて、傍らには通学カバンが置かれている。彼女は鏡に向かい合って、何やら奇妙な動き、自分の指を顔に近づけては遠ざけて、時には頭を左右に振ったりしていた。

 元気そうで安心はしたものの、彼女のその動きにまた別の不安が生まれる。何やってんだ、こいつ。

 「相野、何やってんだ」友人の奇行を止めるべく、私は彼女に声をかけた。普段から変わった奴だとは思っていたけれども、まさかここまでとは、と戦慄する。

 「あっ、へっちゃん? ちょっと、助けてほしい」相変わらず自らの指と格闘しながら、相野は鬼気迫る声音で言った。


 「助けるって、何を」

 「コンタクトレンズ、着けるの、手伝って」


 相野のその言葉に、ああなるほど、と納得する。よくよく思い返してみると、彼女は先ほどから人差し指だけを自分の顔に近づけていた。多分、指の腹にレンズを乗せていて、それを目につけようとしていたんだ。

 「へえー、いつの間にコンタクトレンズに」相野に近づきながら口にすると、昨日から、という答えが返ってきた。「学校から帰ってきて、すぐ」


 「でも、手伝うってどうすればいいの」

 「とりあえず側にいて」

 「それ意味ある?」

 「あるよ、安心感が違う」

 

 そう言って、相野は再び人差し指と対峙した。目の直前までやってきて、また顔を逸らしている。どうやら、私が近くにいても意味はないらしい。

 歯を食いしばって、言葉にならない声を発している相野を眺めていると、不意に時間のことが気になった。携帯電話で確認すると、かなり危ない時刻になっていた。

 「相野、早くして」いつまでもコンタクトレンズを着けようとしない彼女がじれったくて、私は急かす。「時間がない、遅刻はやだよ、私」

 「怖いんだよ仕方ないじゃん、ゆっくりやらないと危ないじゃん、もし眼球の裏に入っちゃったらどうするんだよ」相野は私の方を振り向き、そうまくしたてた。「逸らしちゃうよ、顔くらい」

 なんだよこいつ、なんでコンタクトに挑戦してんだよ。

 「じゃあ、これでどう?」相野の両の頬に手を添えて、しっかりと固定する。これでもう、顔を逸らすことはできないはずだ。

 自然と相野と向き合う形になる。真正面から目が合う。こんなに真っすぐ彼女の顔を見たことはあまりないな、と思う。

 何となく目を逸らす。いつまで経っても相野が動かないので、不思議に思ってまた彼女の顔を見ると、口を開けて、ポカンとしている表情が目に入った。


 「なに、相野、どうしたの」

 「いやなんか、キスする前みたいだなって」

 「・・・・・・何言ってんの」


 また目を逸らす。相野が変なことを言うから、妙に恥ずかしくなってきた。次いで、彼女の存在が大きく感じられた。手から伝わる彼女の頬の温もりが、より鮮明に感じられるようだった。

 「・・・・・・なに、したことあるの」何かを誤魔化すために、急ごしらえの言葉を口にする。

 「いや、ないけど、なんとなく、こんな感じじゃん、ドラマとか漫画では」答える相野の口調はどこかたどたどしかった。目を逸らしているから彼女の表情はわからないけれども、たぶん、照れてるんだな、と直感する。

 妙な空気になるのを感じた。

 照れるくらいだったら言うなよ、と口走りそうになって、抑える。それを言ったら、ますます変な感じになりそうだったからだ。


 「おっ、もしかして、へっちゃん照れてるう?」


 明らかに強がりを含んだ声音で、相野が言った。いいから早く着けろよ、と目を合わせずに言う。頬がほんのりと熱くなるのを感じる。それが悔しくて、つい彼女の顔を掴む手に力が入った。わざとだった。


 「痛い痛い、痛いってへっちゃん」

 「いいから、早く着けろよ、遅刻しちゃうだろ」

 「わかったよう、・・・・・・ちょっと、へっちゃん、なんで顔逸らしてんの、ちゃんと見ててよ」

 「はあ?」


 思いもよらない言葉に、私はつい素っ頓狂な声をあげてしまう。ついでに手に力を込めてしまう。わざとではなかった。

 「なんで見とく必要があるの」私が言うと、相野は深くため息を吐いた。目の前で信号が青から赤に変わったとき、彼女は丁度そういったため息を吐く。腹立たしかったけれども、手に力は込めないでおいた。

 

 「へっちゃんさあ、私がうっかりコンタクトレンズを眼球の裏側に入れちゃったらどうすんの?」

 「知らないよ、ていうか、そうはならないでしょ」

 「もう、ごちゃごちゃ言ってないでちゃんと見ててよ」


 相野の主張は少しも理解できなかったけれども、残された時間は少なく、仕方なく私は彼女の目を見た。途端に、うっ、と息が詰まる。

 キスする前みたいだなって。

 相野の言葉が思い出された。咄嗟に目を逸らしそうになり、すんでのところで堪える。今ここで目を逸らすこと、それは照れたことの証左となる。それだけは避けなければいけない。

 私は自分の頭を空中に固定したつもりで、正面から思い切り相野を捉えた。

 相野が意を決したように、コンタクトレンズが乗った人差し指を自らの目に近づけた。そしてあともう少しというところで、ぴたりと止めてしまった。

 早くしろ、と視線で促すと、相野はこまめに瞬きをした。そして段々と、彼女の頬が熱くなるのが手を伝って分かった。

 「・・・・・・なんか、へっちゃんに見つめられるの凄い照れる」小さな声で、相野が言った。「変なこと言わなきゃよかった」

 「ほんとだよ」もう遅刻は免れないな、と思いながら、私はそう返した。








 遅刻するかしないか、その狭間にいる時は焦燥感を覚えずにはいられないけれども、遅刻が確定してしまうとかえって心に余裕が生まれる。だから、私はもう相野を急かそうとはしなかったし、相野も急ごうとはしなかった。

 たっぷり十五分ほどかけて、相野は両方のコンタクトレンズを装着した。その間ずっと向かい合っていたので、お互いの顔が赤くなっていたけれども、私も相野もそのことを指摘することはなかった。

 終わってから、後ろからすればよかったな、と思いつく。相野の背後に回って、そこから彼女の顔を固定してやれば、こんな思いをすることはなかったに違いない。


 「相野、行くよ」

 「はーい・・・・・・」


 そう返す相野の声は消耗しきっていた。慣れないうちのコンタクトは恐ろしいものだ、と耳にしたことはけれども、まさかこれほどとは。





 「いやあ、ありがとね、へっちゃん。助かったよ」


 三和土たたきで靴を履いていると、相野がそう言った。お礼を言うときに限って、彼女は素直だ。

 「どういたしまして」そう返すと、相野は口角を大きく上げた。


 「ねえ、へっちゃん、覚えてる? 高校入学したての頃のこと」

 「えっと、どれのこと?」

 「ほら、最初の頃、私自分でネクタイ着けられないって言って、よくへっちゃんにつけてもらってたじゃん」


 「ああ、あったね、そんなこと」彼女の言葉が呼び水となり、当時の記憶が蘇ってくる。



 入学式の日、私は中学の頃から続く習慣に従って、二人で一緒に入学式会場に行くために、相野の家の前に来ていた。しばらくすると相野が出てきて、その腕には学校指定のネクタイが握りしめられていた。

 彼女は半ば拗ねたような表情で、「へっちゃん、ネクタイつけて」と言った。

 分からないなら練習しとけよ、と思いながら、言われた通りネクタイを締めてやった。すると相野は「新婚さんみたいだね」と言った。

 それから、確か一か月ほど、相野は毎朝「ネクタイつけて」と頼んできた。私は文句を言いながらも、毎朝ネクタイを締めてあげていた。




 「今度は、一か月もかけないでよ」懐かしくなって、頬が緩むのを感じる。

 「さあどうだろ、コンタクトは怖いからなあ。もしかしたら慣れるのに一年くらいかかるかも」悪びれもせず、相野は言った。




 私たち以外に制服姿の人がいないのは奇妙な感じだった。ほんの数十分ずれただけで、道行く人々の種類がこうも変わるとは。

 空を見上げると、雲一つない空が広がっていて、天頂を目指す太陽が見えた。その光景はなんとなく、これからの高校生活の長さを連想させた。

 「ねえ、へっちゃん」となりを歩く相野が口を開いた。


 「私、へっちゃんがいないと何もできないからさ、ずっと一緒にいてね」


 それに素直に頷いてもよかったのだけれども、なんだか恥ずかしくなった。だから代わりに、意趣返しのつもりで、私は言った。


 「なんかそれ、恋人みたいだね」

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