魔法少女は願う
疲労はピークに達していた。歩くことすら億劫だった。それでも、歩を止めることはない。どうしても家に帰らなければならない。
太陽が沈んでから長い時間が経っている。あたりはすっかり暗くなっていて、人通りなんて一つもありはしない。
何とか家にたどり着き、ほっと一息ついてから、無駄に重厚な作りの玄関の扉を開ける。
三和土に入り、後ろ手に扉を閉めると、カレーのいい匂いが鼻腔をくすぐった。思わず口元が緩む。空腹を刺激されたからではなく、その匂いがすること自体が嬉しかったからだ。カレーを作って私の帰りを待ってくれている人の存在を感じることができたからだ。
靴を脱ぎ、廊下を気持ち早く歩いて、リビングに入る。すると、机に座っている一人の女の子が視界に入ってきた。
「・・・・・・お帰りなさい」その女の子───冴は静かに言った。私はその言葉が嬉しくて、ついつい弾んだ声で「ただいま」と返してしまう。たぶん、この上なくだらけ切った顔になっているはずだ。じゃあ普段はだらけてない、引き締まった表情なのかと問われれば困るけれども。
ダイニングテーブルの上にはカレーライスが乗ったお皿が二つある。私は素早くそのうちの一皿をとって、冴の横に座った。
「普通、隣に座る? 私たち二人しかいないのに」驚いたように、彼女は言った。「向かい合って座るもんじゃない? こういう時は」
「隣同士のほうが、近い気がする」私は言う。「私はそっちの方がいいな、できるだけ冴の近くにいたいんだ」
冴が怪訝そうに目を向けてくる。最初から彼女のことを見ていた私と、自然目が合う。大きな目だ。冴と見つめあっていると、心のどこかをくすぐられているような、そういった感じがあった。
「チヒロさんは───」
「『さん』はつけなくていいよ、冴」
冴が言い終わる前に、私はそう遮った。すると彼女は少し困ったような表情を浮かべてから固まり、数秒の間を空けてから観念したような顔をすると、「チヒロはさ」と口を開いた。
「チヒロは、そういうの恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいって、何が?」
「だから、その、『冴の近くにいたい』とか、そういうこと言うの」
「ああ、それね」私は皿の傍らに置かれていたスプーンを手に取りながら応じる。「多少は照れくさいかな、でもしょうがないよ」
「しょうがない?」冴が不思議そうな声をあげた。
「そういうこと小まめに言っておかないと、爆発しちゃうからさあ」
「爆発って」
「私、本当に冴のことが好きだから、いっぱいいっぱい好きだから、そういう気持ちをちゃんと吐き出しとかないと、すぐに膨れ上がって爆発しちゃうんだよ」
言い終わると、冴が難しい表情を浮かべながら、束ねた長い髪を落ち着きなく触り始めた。それが彼女が考え事をしている時によく出る癖であることを、私は知っている。そして、彼女が何を考えているのかも、知っている。
「別に、気にする必要はないよ、冴」私は言う。それでも、冴の手は止まらない。
「冴が私のこと好きじゃないって、ちゃんと分かってるし、気にしないよ私」
冴の手が止まった。代わりに、悲しそうな、申し訳なさそうな表情になった。それに私は困ってしまう。なんでそんな顔をするんだろう。
人の励まし方なんて知らない。ましてや彼女は私が原因でそういう表情をしているらしい。どうすることもできない。
「か、カレー、食べようか」苦し紛れに言うと、あまりにも静かなものだから、無駄に広い家全体に私の声が響き渡ったような気がした。
ちょっとの間をおいて、冴がスプーンを手に取った。その様子を見て、内心ホッとする。あのまま沈黙を貫かれたらどうしよう、そう思っていたからだ。
「お、おお、カレーが温かい。もしかして作りたて? 嬉しいな」湯気が立ち上っているのを見て、私は隣の冴の様子を盗み見ながら言う。分かりやすいご機嫌とりに、我ながら呆れてしまう。不器用なやつめ。
「・・・・・・帰りが遅かったから、電子レンジで温めたの。だから、作りたてじゃない」
「あ、そうなんだ・・・・・・」
痛々しい静寂が満ちた。それを誤魔化すように、スプーンでカレーをすくって口に入れた。ちょっと辛い。
なるほど、と思う。冴は辛いのが好きなのかもしれない。やった、これでまた冴について詳しくなった。
こぼれそうになる笑みを堪えて、またカレーを頬張る。さすがに、カレーを食べながらにやにやといやらしい笑みを浮かべているところを見せるわけにはいかない。
慣れない辛さだったけれども、冴の手作りだと思うと気にならなかった。
「美味しい、美味しいよ、冴」私は言った。紛れもない、一点の曇りもない本心からの言葉だった。「ありがとう、作ってくれて」
食べる度に幸福を感じる。これが幸せなんだと感動する。
まさか、私の人生にこんな素晴らしいものがあるとは。
「ねえ、チヒロ」未だカレーを口にしようとしない冴が口を開いた。
「なあに?」
「私、家にはいつ帰られそう?」
「え、帰らなくていいじゃん。ここにいてよずっと」
そこで会話は途絶えた。冴は数秒目を閉じてからまた開いて、「そっか」と呟くと、カレーを食べ始めた。
あ、と気づく。
好きな人と並んで夜ご飯を食べるというのは、言い表しようもなく満たされた感じがする。
私はその感覚に耐えきれなくなって、思わず「冴、好き」と呟いた。
ある日、私は地球を守る魔法少女になった。
私は地球で一番適性があるらしかった。
異世界から地球を征服しようとやって来る敵と戦う魔法少女は大変危険な役目だけれども、家族も友人も、大切な人なんて誰もいない私は何となくそれを引き受けた。
魔法少女になることと引き換えに、何か一つ、魔法少女をやめる以外の願いを叶えてくれるらしいけれども、特に思い浮かばず、保留にした。
魔法少女は命を懸けて戦う。私は当然のように疲弊していった。毎日痛くて苦しくて、自分が生きているのか死んでいるのかも分からなくなっていった。
冴と出会ったのは、そんな日々の繰り返しの中でだった。
そして私は、冴と一緒にいることを望んだ。
カレーを食べ終わり、二人で流し台に並んで皿を洗った。冴は慣れた手つきだった。恐らく、普段は家でもしているんだろう。偉い。
その後、ソファに座ってテレビをつけた。しかし深夜なためかろくな番組は無く、すぐさま消してしまった。
私は隣に座る冴に寄りかかって、彼女の華奢な肩に頭を預けた。彼女を身近に感じた。
ふと思いついて、私は冴の肩から頭を滑らせて、そのまま彼女の太ももに移った。いわゆる、膝枕の体勢になった。
見上げると冴の顔があった。肩にもたれかかっているよりも、より冴を感じる。
良いなあ、これ。これから毎日しよう。
「ねえ、冴」このまま眠ってしまいたいという衝動と、お風呂に入らなければという理性が拮抗する中、私は冴に語りかける。彼女の目だけが私の方を向いた。
「私、今日も戦ってきたよ、地球を守るために、命を懸けて」緊張からか、急速に口の中が乾いていくのを感じる。自分の口から発せられる言葉に驚く。私は何を言おうとしているんだろう。「だから、その、褒めてほしい」
一瞬、冴が泣きだしそうな表情をした、ように見えた。眉を下げて、瞳が微かに揺れた、ように見えた。でも冴が背を曲げて上体を落とし、私の頭のすぐ側に頭を寄せてきたせいで、よく分からなかった。
「ありがとう、チヒロ」拳ひとつ分すら離れていない場所から冴の声が聞こえる。冴の顔が見えない分、音による情報が大きいおかげで、通常耳にする彼女の声とはまた違ったものがあった。
すごい、と感激する。膝枕をしてもらうつもりが、最終的にはこうも近くに冴を感じられるようになるなんて。絶対毎日しよう。
「本当に、ありがとう」
冴がまた囁いた。その声は濡れていた。瞬間、私は胸の底、心臓辺りが締め付けられるような感覚を覚えた。
「冴、なんで泣くの?」励まし方を知らない無知な私は、愚直に原因の究明を目指す。「どこか痛い?」
「私は、痛くないよ。・・・・・・チヒロは、大丈夫?」
「え、私? 大丈夫だけど」
「毎日毎日、一人で戦って、辛くない?」
「あー・・・・・・、前までは辛かったけど、今は平気。冴がいるから、冴が待っててくれるから、一人じゃないから、平気」
冴は肩を震わせて、しばらくそのままの姿勢でいた。私にはどうすることもできないと悟りながらも、それでも諦めきれず、「冴がいて超ハッピー」とかなんとか、そんなことを言って励ますことに徹していた。
お風呂で一日の汚れを落として、いよいよ就寝の時間がやってきた。冴とお風呂に入りたい気持ちは勿論あったけれども、やめておいた。あまり人に見せていい体じゃないという自覚があった。特に冴には。
一緒に寝ようと提案すると、案外あっさり、冴は受け入れてくれた。嬉しかった。
頑張れば五人で眠れるんじゃないか、と思わせられる程に巨大なベッドの上に、二人して横になる。ふかふかのベッドの中に沈んでいきそうになる。
冴と私の間に、人ひとり分くらいの空きがあった。本当は抱きついて眠りたいけれども、流石に憚られた。そこには妙に高いハードルがあった。だから、せめてもの抵抗として、冴のパジャマの裾を夜通し掴んでいることにした。
私は当然冴の方を向いて横になっているけれども、冴は仰向けになっている。彼女の横顔がよく見える。いくら見ても飽きない横顔で、ともすれば寝る間も惜しんで眺めそうになる。
「なんで、私なの?」唐突に、冴が口を開いた。何のことか分からず、私は黙って続きを待った。
「チヒロは、どうして私と一緒にいたいと思うの? 私とチヒロって、全然接点がないと思うんだけど」
ああ、なんだ、と安心する。そのことか。
私は相変わらず冴の横顔を眺めながら、そのことを話すべきかを考えて、止めておこうという結論を弾き出した。
冴と一緒にいたいと思った理由はひどく単純だけれども、私にとってはとても大切なことだった。そしてその感覚は、私にしか分からない。だからこそ、言わないでおく。
「ナイショ。・・・・・・じゃあ、灯り消すね」
リモコンのスイッチを押して灯りを落とすと、一気に真っ暗になった。冴が見えなくなって不安を覚えたけれども、指先にある裾の感触で安心感を補った。
「・・・・・・おやすみなさい」冴が言った。誰かに、おやすみなさいと言われるのが新鮮で少し戸惑ったけれども、私も欠かさず「おやすみなさい」と返した。
目を閉じる。完璧な暗闇があった。猛烈なまどろみがやってきた。
冴の夢を見そうだな、と思いながら、私は意識を手放した。
太陽が沈みかけている中、私は朦朧とした意識を抱えながら、もはや棒のようになってしまった足を引きずるようにして、家に向かっていた。
今日もまた、魔法少女として地球を守るために戦ってきた。昨日も一昨日もその前も戦ってきた。だから、明日も明後日もその先も戦うことになるんだろう。
もう何年になるだろう。こんなことをし始めて、もうどれくらいの時間が経っただろう。
そんなことは考えるな、という叫びが胸の内にあった。そんなこと考えたって、嫌になるだけだ。
でも、一度始まった思考は止まらない。今まで蓋をしていた分、むしろ勢いを増していた。
いつまで、こんなことを続けなくちゃいけないんだろう。一人で、誰も見ていない場所で、誰からも褒められることなく。
もう嫌だ、という声が聞こえた。他に人がいたんだ、と思い周りを見渡しても誰もいない。そうして初めて、さっきのは私の声だったんだ、と悟る。無意識のうちに、そんな弱音を吐いていた。
途端に、僅かに残っていた足の力が抜けた。私の中の何か、辛うじて私を支えていた何かが折れてしまったようだった。もう歩くことすらままならないような気がした。
その場にしゃがみこんでしまいたい衝動を覚える。でもたぶん、そうしたら最後、私は家に帰ることすらできなくなる。
そもそも家に帰る必要はないんじゃないか、と思った。どうせ誰もいない、空っぽの家なんだから。
視界がぼやける。この涙が零れたら、もう終わってしまう、そんな予感があった。
「あの、大丈夫ですか?」
不意に、背後から声をかけられた。驚いて振り返ると、そこには一人の女の子が立っていた。
人に声をかけられたのは久しぶりだな、と思った。
「すみません、突然。ただ、何だか辛そうにしてたから」女の子は続ける。「お節介だったら、良いんですけど」
ちょっと遅れて、彼女が私を心配してくれていることに気づいた。次いで、自分の頬に暖かいものが流れていることに気づく。
目の前の女の子は慌てて私の側にやって来て、「大丈夫ですか大丈夫ですか」と仕切りに言った。
表情を曇らせて、本気で私の心配をしてくれている。そんな様子を見て、この人なら、と直感した。この人となら、私はまだ頑張ることができるかもしれない。
「あの、名前を訊いてもいいかな」私が言うと、彼女はあっ、と口にしてから「吉井 冴です」と言った。
冴、と頭の中で呟く。足に力が入ってくる。ヘトヘトだけれども、家に帰るだけの元気はある。明日も明後日も戦ってやる、という気力が湧いてくる。
願い事、残しておいて良かった。
「冴、私の側にいて」
私は願った。




