デコピンの手順
渾身の一作です
いつの頃からか、放課後になると空き教室に入って、名取と時間を潰すのが常になっていた。
少子化の影響なのか、はたまたこの高校の人気が右肩下がりなのか、入学してくる生徒の人数が年々減少していき、とうとう使用されない教室が生まれた。私と名取はそこを秘密裏に使用していた。
私と名取だけの、二人だけの秘密の場所、と形容するには少々密やかさが足りない気はするけれども、少なくとも他の誰かが利用しているところを目撃したことがない。つまり、私と名取だけの場所と言える。
私はその言葉の響きが気に入っていて、なおかつ誰にも邪魔されることなく名取と二人きりでいられるその空間が、とても好きだった。
ホームルームを終え、私と名取は二人して校内をあてどなく歩いた。
放課後になって即座に空き教室に向かうと、誰かに目撃されかねない。一応、そこに入ることは禁じられているので、先生に見つかってしまったら面倒なことになる。仮に生徒に見つかったとしても、もしその生徒が空き教室を気に入ってしまえば、それはそれで面倒になる。せっかくの二人だけの空間が壊されてしまう。
校庭から運動部の野太い掛け声が聞こえてきて、校内に吹奏楽部の演奏の音色が響くと、頃合いだった。私たちは気持ち忍び足で教室に向かう。
教室には二つのドアがあり、いずれも施錠されている。しかしどういうわけか、廊下に面した窓の方は手が付けられておらず、取っ手を掴むと、何の抵抗もなく横にスライドして開く。鞄を先に投げ入れ、窓枠に手をかけて跨ぎ、室内に入り込む。
「八野、早く入ってよ」急かすように、名取が言う。ぐいぐいと背中を押してきた。
「ちょっと待ってちょっと待って」足を引っかけそうになり、少しひやっとする。
名取が軽やかな身のこなしで入ってきた。彼女の小ぶりな上靴が床について、乾いた音が鳴った。
素早く窓を閉めて、廊下から見えないように床に座り、壁に背をぴたりとくっつける。隣に名取が腰を落ち着けた。
一息ついてから、鞄から携帯ゲーム機を取り出す。少し遅れて、名取も同じものを取り出した。
側面に付いているスイッチを押し、起動させる。ディスクの読み込み音が、小さな唸り声のようだった。少し待つと、画面が色彩豊かになった。
それは、対戦型のパズルゲームだった。シリーズ物のゲームであり、私たちが持っているものは最新版から四つほど古い。けれど、十分に面白い。
放課後、私たちはこのゲームで暇を潰していた。時間を費やしていた。当然、ゲーム機を学校に持ってくることは校則違反にあたる。けれども、もう既に空き教室を無断で使用しているので、いまさら違反の一つや二つ増えたところでどうということはないだろう。
部活動に入らず、勉強はほどほどに、校則は適度に守らない。不良ではないが、優等生でもない。いかにも中途半端な生徒だと、自分でも思う。
お前の高校生活はそんなものでいいのか、とどこからか声が聞こえてくるようだった。というか、実際に親などから言われている。前までなら耳を塞ぎたくなっていたけれども、今は違う。今は正面から、ちゃんと言い返すことができる。これで良いんだ、と。
「今日は勝ち越す」自信を漲らせて、名取が言った。適当に相槌を打ち、彼女の横顔を盗み見る。小さい顔に小さな鼻。耳にかかった髪の毛。ゲーム画面に集中している目は大きく、目つきは真剣そのものだ。たかが暇つぶしのゲームですら、彼女は真剣に、小さな子どものように必死に取り組む。
そんな彼女の様子を視界に捉えると、自然と気色の悪い笑みを浮かべそうになる。
好きだなあ、と胸の中で呟く。好きだよ、名取。
どこからか流れてくる吹奏楽部の音色は穏やかなもので、人知れず速くなった鼓動が静まっていく。
ゲーム機を操作しながら、幸せを噛み締める。私と名取だけのこの空間が、誰の目にも留まることがないこの部屋にいられることが、どうしようもなく嬉しい。隠すだけで精一杯だ。ちょっと油断すれば、幸せは風船のように膨らんで破裂し、無くなってしまうような気さえする。そうならないように、必死に圧し隠す。
これくらいの距離感が、ちょうど良いんだ。
十戦ほど終えたところで、飽きがそろそろと歩み寄ってきた。思えば、最近はもっぱらこのゲームで遊んでいた。食傷気味になるのも当然だった。
「何か他のやつ持ってくればよかったね」うんざりしたような声音で、名取が言った。「トランプとか、花札とか」
どうしようか、と、二人してうんうん唸った。やることがないなら素直に帰宅するべきだけれども、それだけは論外だった。せっかくの二人きりの時間を自らドブに捨ててしまうほど、私は愚かではない。だから、名取が「じゃあ、今日のところは帰ろうか」と提案してしまわないか不安になった。
「じゃあさ」はっ、と何かを思いついたようで、名取が意気揚々と口を開いた。「罰ゲームしようよ」
「罰ゲーム?」応じながら、なるほど、と思う。「いいかもね、それ」
「でしょでしょ? じゃあ、次から負けた方は罰ゲームね」
「罰ゲームの内容はどうする?」
「うーん、どうしようね。ジュース一本とか?」
「ええ・・・・・・、お財布への負担は厳しいよ、最近よく買い食いしてるから、余裕ない。ていうか、名取もそうでしょ?」
「あ、そうだった・・・・・・、うん、百十二円しかない」
ポケットから財布を取り出して中身を確認してから、彼女は言った。缶ジュースすら購入不可能の手持ちだった。私も彼女に倣って財布の中身を検める。二百三円あった。辛うじてペットボトルジュースを買えるものの、それは焼け石に水だろう。
嘆かわしや、女子高生の懐事情はかくも無残だ。
「デコピンでいいんじゃない?」面倒になって、思いついたものの中から無造作に抜き取り、それを提出する。
「デコピンかあ、痛いの嫌だよう」名取は苦虫を思いきり噛み潰した。「まあ、いいけど」
とりあえずは罰ゲームが決定した。再びゲーム画面と向かい合い、勝負へと進む。
かくして、デコピンを賭けた戦いの火蓋が切られた。
罰ゲームの緊張感からか、お互い普段よりも格段に冴えていた。おかげで勝負は長引きに長引き、通常であれば二分、長くとも四分で終わるところを、決着がつく頃には七分も経過していた。
死闘の末、勝利したのは私だった。名取が隣でがっくりと肩を落としている。
「はいはい名取さん、早くおでこを差し出してくださいよ」そう言うと、彼女は心底悔しそうに、嫌そうに前髪をたくし上げて、顔を突き出した。「ちきしょう、さっさと終わらせやがれってんだ」
親指の腹に中指の先を引っ付けて、名取の、その露わになった、つるりと綺麗なおでこにあてがう。すると、彼女はぎゅっと目を瞑った。
「あー、怖い怖い」小鳥の囀りのようだった。「デコピンなんて、小学生以来かなあ」
びくびくと怯えながらデコピン執行の時を待つ名取の様子がおもしろ可愛くて、ふつふつとイタズラ心に火が点いた。指をふわりふわりと漂わせて焦らし、名取の反応を少しの間、楽しむことにした。
「ちょっと、八野。早くしてよ、この状態辛いんだよ」若干まぶたを痙攣させながら、名取は言う。
ここらへんにしといてやるか、と思ったところで、何となく、そうする気はなかったのに、名取の顔をじっと眺めてしまった。
考えてみれば、目を瞑ったままの名取の顔は珍しい。言ってしまえばレアだ。だからこそ、私はそれに釘付けになってしまう。
改めて、可愛いなあ、と素朴な感想を抱く。目を閉じて震えている様は小動物めいている。
その時、今まで流れてきていた吹奏楽部の音楽が途切れて、一瞬完全な静謐さを保った後、目の前にいる名取の呼吸が聞こえてきた。思わず、彼女の口元を見やる。一文字に結ばれた口と、薄い唇。
次の瞬間、私はそこに唇を重ねていた。あっ、っと思った頃には、もう遅かった。
名取の唇は予想通り柔らかかった。
唇を離し、名取から一歩離れる。彼女は驚愕で目を見開き、口を金魚のように開け閉めしている。たぶん、私も同じような表情をしている。
なにをやっているんだ、という声が頭の中で木霊した。なにを、なにを。
背中から汗が噴き出る。視界が揺れて、目に映るもの全ての輪郭がぼやける。
終わってしまう。このままでは、何もかもが終わってしまう。何か言い訳を、どんなことを言っても挽回のしようがないけれども、せめて何か言わなければ、足掻かなければ。
「あの───」
「もう一戦」
どうやって弁解するか、まるで未定の状態で口を開くと、それに被せるように、名取が静かに、しかし確かな力強さで言った。
「えっと、今なんて?」本当は聞こえていたけれども、聞き間違いかと思い、そう返した。
「だから、もう一回、対戦しようよ」私を真っ直ぐに見据えて、名取は言う。つぶさに観察せずとも、彼女の頬と耳が赤みがかっていることが分かる。それに、少し声が震えている。
困惑のあまり、私はどうすることもできなかった。鳩が豆鉄砲を食ったようとはこのことだろう。
「もう一回、同じ条件でやろう、ね?」
その言葉が耳に入った途端、私は自我を失ってしまったように、首をがくがくと縦に振っていた。
罰ゲーム導入後の二戦目は、悲惨の一言だった。
お互いにイージーミスを連発し、勝負の決め手となる決定打をいつまで経っても放つことができないでいた。酩酊状態の人たちがプレイした方がまだマシだったかもしれない。
勝負の最中、私の脳内は混沌を極めていた。私のしたことは許されたのか、許されていないのか、名取は一体なにを考えているのか、などが順繰りに思考の大部分を占めた。
およそ十分の後、決着がついた。今回は名取が勝利をもぎ取った。もうその頃には、私の精神は疲労の彼方にあり、ただでさえ元々高くもない思考能力が低下していた。それゆえに、ああデコピンですか、と露ほども疑問を持たずに、額を差し出していた。
名取の細い指が近づいてくる。額の前で止まるのかと思いきやそうはならず、その指は私の頬に添えられた。そして間髪入れず、残るもう一方の手が別の頬に添えられた。子犬を撫でる時みたいに優しい手つきだった。
何してるの? と問いかけようとして、正面にある彼女の目に射抜かれて、口を噤んでしまう。
「罰ゲーム・・・・・・、これは、罰ゲームだから」
うわ言のように呟き、名取が唇を寄せてきた。そして、触れる。
それは数秒の間のことだったけれども、私には永遠にすら感じられた。
こんなことが現実にあって良いのだろうか。りんごを連想させるほどに赤くなり、目を伏せて指を弄んでいる名取の姿をぼうっと眺めながら、そんなことを思った。私が名取にキスをして、名取が私にキスをした。こんなことが、夢以外にあって許されるのだろうか。
私の脳は完璧に麻痺してしまった。物事を正常に考える能力が失われてしまった。
だから───
「えっと、じゃあ、もう一回、対戦する?」
だから、こんな提案をしてしまう。
三戦目は、どろどろの泥仕合だった。最早、泥に肩まで浸かったまま戦ったと言っても差し支えないほどだった。
辛うじて、私が勝った。名取はもう悔しがらなかった。何も言葉を発せず、ただ目を閉じて、「デコピン」されるのを待つのみだった。
いつの間にか日が落ちかけていて、燃えるような夕日の光が、校庭に面した方の窓から差し込んできていた。それは私を照らして、名取を照らしている。
名取に膝立ちのまま近づき、彼女の華奢な肩に手をかけた。
名取の緊張が手から伝わってくる。恐らく、彼女にも私の緊張が、私の手から伝わっているだろう。
今更ながら、肩に手を置く、という行為が明らかにデコピンとは無関係なものであることに苦笑する。
「じゃあ、いくよ」
名取が静かに頷いた。
あーあ、私たちこれからどうなっちゃうんだろう。少なくとも、もう元には戻れないな。そんなことを思いながら、私はゆっくりと唇を近づけた。




