大富豪の行方
お手洗いを済ませ、木張りの長い廊下を歩いていた。時間が惜しくて、知らず知らずのうちに早歩きになる。
修学旅行の夜、消灯時間まであと一時間以上ある。一説には、就寝前の自由時間は修学旅行で一番楽しい時間であるとかなんとか。
私たちはその時間を、大富豪にあてていた。五人でできる遊びの定番であり、全国津々浦々の学生たちに親しまれている。気心の知れた友人たちと談笑しながらする五人用ゲームとしては、これ以上は無いと言える。
ドアを開けて、部屋に戻る。さあもう一戦だ、と意気込んだところで、異変に気がつく。
和室様式の部屋の中には、東山、西野、南、北林の四人が、寄せ合った五つの敷布団の上に座っている。私の班のメンバーだ。
先ほどまでは、和気あいあいと、楽しく大富豪に興じていた。途中私はお手洗いのために席を立ち、そして今、戻ってきた。
すると、どういうわけか、楽し気な雰囲気は霧散していて、代わりに、張りつめた空気のみが四人の間に流れていた。見ると、彼女たちの目が、商品を狙い定める万引き犯のように怪しく光っていた。
険悪ではないものの、ただただ緊張感があった。それはまるで、神聖な祭事を前にした神官たちのようだった。
「た、ただいま」そんな尋常ならざる空気に気圧されて、少し声が上ずった。
私の声に反応して、四人の神妙な顔つきは呆気なく崩れ、いつも通りのものになった。
「おかえり」四人の声が重なった。その声が穏やかだったので、私はほっと一安心して、敷布団の上に座り、東山と西野の間に入った。西野の長い髪が私の肩に少しかかった。シャンプーの良い香りがする。
「じゃあ、もう一戦しようか」私が言うと、四人は一様に押し黙り、視線を忙しなく行き来させた。私を除いた四人が、お互いに目配せしているように感じた。私の知らない、彼女たちだけの合図を出し合っているような、そんな気がした。
「あー、中村ー、私疲れちゃったよー」
右隣の西野がそう言いながら、私の膝へと倒れ込んできた。自然、膝枕の形となる。彼女の長い髪が、絡みついてくるように、足にかかった。
「疲れたの? じゃあもう寝る?」目の前に現れた彼女の頭を、私は半ば反射的に撫でた。
西野は「あと一回が限界かなー」と言うと、穏やかな日向の下でお腹を撫でられた犬のような表情を浮かべた。
「あ、なっちゃん。私も後一回したいな」左隣の東山が続けて言う。何の意図があるのかは定かではないけれど、彼女は私の手に手を重ねてきた。温かく小さい手の感触が伝わってくる。
「私も、最後の一勝負といきたいな」左前の南が言い、それに追従するかのように「・・・・・・私も」と、右前の北林が呟いた。二人の視線は私にではなく、西野の頭に乗せた手や、東山に握られている手に注がれているようだった。
示し合わせたかのように、四人の意見が一致した。四桁の暗証番号をでたらめに入力してみると、偶然解除できてしまったかのような趣があった。
もうちょっと遊びたかったけど、四人がそう言うなら仕方がない。私は自分をそう納得させて、「いいよ、じゃあ次の一戦でラストにしよう」と言った。気のせいか、四人の目つきが鋭くなったような気がした。
皆疲れているんだな。西野を起こしながら、私は思った。
「せっかくだから、最後大富豪になった人には、何か優勝賞品を与えないか?」まだ序盤も序盤のところで、南が言った。手札からスペードの五を切っていた。いかにもリーダー然としている彼女は、やはりはきはきと明瞭に喋る。
「それ、良いね。楽しそう」おっとりと、東山が賛成した。
「私も、まあー、賛成かな」眠たげに、西野が肯定した。
「・・・・・・私も、良いと思う」静かに、北林が頷いた。
五人中四人が良いと言うならば、それに逆らう必要もない。私も「良いと思うよ」と返事をした。
南が右から左へと、班員の表情を見回した。彼女は髪の毛を短く束ねていて、視線も鋭い。
なるほどなるほど、とわざとらしく、どこか演技がかった様子で、南が言った。「じゃあ、優勝賞品は何が良い?」
遊びの範疇であるならば、そんな高価な物である必要はない。仮に高価な物だとしても、受け取る側は困ってしまうだろう。たかが大富豪で、そんな物は受け取れない、とかそういう風に。
そう考えた末に、私は『自販機のジュース一本』という、至って平凡な物を思いついた。
ジュース一本にしよう、そう言おうとしたところで、左隣の東山が、我先にと口を開いた。
「なっちゃんと一緒に眠る権利」
「え?」
彼女の口から発せられた言葉の内容があまりにも突拍子の無いもので、私は驚いた。東山は普段こういう冗談を言わない。だからその分、余計に驚いた。
「賛成」
「え?」
東山と私を除いた三人の口から、賛成の二文字が飛び出した。寡黙で、独特の間を空けながら喋る北林でさえも、淀むことなく、はっきりと言った。
「じゃあ、中村。どんな優勝賞品が良いと思う?」
残った私に向かって、南が訊いてきた。
「ジュース一本」冗談の次に普通のことを言うと、何ともいたたまれない気持ちになる。
「よし、ここに優勝賞品が二つ並んだな。すなわち、『中村と一緒に眠る権利』か『ジュース一本』。さあ皆、どっちを選ぶ?」
そんなこと訊かずとも、ジュースに決まっている。私と一緒に寝ることに需要などあるはずもない。この『中村と一緒に眠る権利』は、さしずめ、私がお手洗いに席を立っている間に、即興で打ち合わせをした結果だろう。ちょっと驚かしてやろうと、そう思っての行動だったに違いない。
「一緒に眠る権利」
「え?」
三人の声がそろった。私は流石に怪しさを感じて、右に左にと視線を巡らせる。誰一人として、冗談の含んだ目つきをしていなかった。
「じゃあ、優勝賞品は『中村と一緒に眠る権利』で」
「え?」
あまりにもトントン拍子で進む物事のシュールさに、私はずっと茫然としていた。
いやいや、冗談はやめろ。その言葉は喉まで出かかったけれども、四人の「異議は切り捨てる」という百戦錬磨の剣豪がごとき圧迫感に押し戻された。
代わりに、私は再び、困惑の声をあげる。
「え?」
かくして、『中村と一緒に眠る権利』を巡る闘いの火蓋は切られた。
決着がつくまでに、長い時間が費やされた。私以外の四人が、まるでプロ将棋士が盤面を睨むように手札を睨みつけ、数学の問題を解くかのような真剣さで勝筋を計算するため、一巡するのに莫大な時間が費やされたのだった。
見ると、いつもは面倒くさがりの西野ですらそうしていた。理由はともかくとして、彼女たちのこの一戦にかける熱量が尋常でないことが察せられた。
そんな彼女たちの由来不明な情熱も虚しく、一番にあがったのは私だった。
私が大富豪になった。
つまり『中村と一緒に眠る権利』は私のものとなった。しかしここで問題となるのが、そもそも中村とは私のことであり、私が私と眠るという、ある意味哲学的な結果に終わったことだった。
よくよく考えてみれば、私になんのメリットも無い。
四人が一様に項垂れていた。中央に積み重なっている、闘いの軌跡であるカードたちを眺めている風でもあった。少し申し訳ない気がした。
「じゃ、じゃあ、もう寝よう」
沈黙を破る。それでも、四人は動こうとしない。
「に、西野、もう寝るんだろ?」不安になって、西野の肩を揺する。すると、大木が根こそぎ倒れるように、彼女は私の膝に倒れこんできた。そしてそのまま、無言を保っている。
「東山、寝よう?」同様に、東山の肩を揺さぶる。彼女もまた動かなかったけれども、代わりに、肩にかけた手を握り返してきた。
左手を東山に拘束されたまま、残った右手で北林を揺らす。「北林、もう寝るよな?」
彼女は返答せず、両手で私の手を捕まえて、ふにふにと触った。掌を指で押されたりしてくすぐったい。
「南?」
南はいつの間にか私の背後に回り込んでいた。やはり彼女も何も言わず、私の背中をその細い指でつついたり、なぞったりした。
なんだこいつら。私は思った。
その後、魂が抜けてしまったような四人を何とか布団に横たわらせ、部屋の明かりを落とした。消灯時間には間に合ったので、ほっと一息ついた。
布団は五組あり、私の左に南、右に西野、前に北林と東山が並び、頭を寄せあうようにして眠ることにした。
南に背を向け、西野が正面にくるように横たわる。
突然、南が口を開いた。
「私、寝相が悪いから、勘弁してな、中村」
何故名指しなのだろうか。そんな疑問が浮かんだけれど、すぐに消えた。
「私も、寝相悪いかな。ごめんね、なっちゃん」
「あー、私もー、ごめんね中村」
「・・・・・・私も」
他の三人も便乗して言った。何故名指し、何故私だけ。
まいったな、と思う。私も寝相は怪しいほうだ。朝目を覚ましたら、掛け布団を蹴飛ばしていたことが何回もある。
「じゃあ、布団離して寝る?」欠伸混じりに言う。
「それはだめ」四人の声が殺到した。「そ、そうですか」
暗闇の中、私は先程までの四人の様子を思い出していた。
結局、大富豪が終わってから、彼女たちはほとんど言葉を発しなかった。鈍重なゾンビのような振る舞いだった。やはり、疲れていたのだろうか。
不意に、腹部にぬくもりと圧迫感を覚えた。見ると、誰かが抱きついてきている。闇に目が慣れると、それが西野であることが分かった。むにゃむにゃと、やけにはっきりとした寝言を呟いている。
早速、寝相の悪さが発揮されていた。まさかこれほどとは、としめやかに驚愕した。
続いて、背中に何かが密着した。この流れでいくと、おそらく南だ。彼女の寝息が規則的に背中に当たる度、湿った温もりを感じる。こっちも寝相か。
二人に密着され、次第に暑苦しくなり、汗が噴き出る。
前にテレビで見た、ミツバチの生態に関することを思い出していた。
ミツバチが汗水流してせっせと作った巣に、時折、オオスズメバチが強盗のようにやって来る。両者の間の体格差は致命的なまでに大きく、通常であれば、ミツバチとオオスズメバチが一対一で戦えば、小さな虫が勝てる可能性は皆無だ。そこで、ミツバチは一斉に一匹のオオスズメバチに張り付き、己の体温を利用して無慈悲な強盗を蒸し殺してしまう。今の私は、それに似ている。私がオオスズメバチで、西野と南がミツバチ。
このままでは熱中症になってしまう。そう危惧して、彼女たちを振り払い、一時脱出を試みた。
妙にがっしりと抱きつかれていて、振り解くのに苦労した。体をタコのようにくねらせ、辛うじて抜け出す。
取り敢えず廊下に出よう、そう考えて、東山と北林をうっかり踏んでしまわないように細心の注意を払いながら、一歩一歩進んだ。
不意に、何かに足首を掴まれた。ひっ、と声が出る。
目を凝らして見ると、その手は東山のものだった。小さな手が確かな力強さで私の足首を掴み、動きを封じていた。「うーんむにゃむにゃ」と口にしている。なるほど確かに、彼女の寝相もひどい。
突然、目の前に影が立ちふさがった。北林だった。目を閉じたまま直立している。
彼女はすうすうと限りなく普通の呼吸に近い寝息を立てながら、迫ってきた。躱そうにも、足の自由を奪われているせいでできない。
これは寝相というより、夢遊病の類ではないだろうか。そんなことを思っていると、北林に押し倒された。再び、布団の上に横になった。すかさず、東山が私の腕を絡めとってきた。何やら柔らかい感触があった。
北林がおもむろに覆いかぶさってくる。誰かの指が私の頬をつついた。方向的に、恐らく南だろう。
足音がした後、東山に囚われている腕とは別の方に、西野がやってきた。彼女もまた、腕を捕まえてくる。
もみくちゃにされている。何が何やら、一体全体何が起こっているのか、まるで把握できない。
「むにゃむにゃ」誰かが言った。「むにゃむにゃ」「むむ、むにゃむにゃ」「むにゃ・・・・・・むにゃ・・・・・・」
「いや、『むにゃむにゃ』じゃない! お前ら、絶対起きてるだろ!」
深夜の静かなホテルに、私の声は隅々まで響いた。一分もしないうちに先生がやって来て、この光景に目を白黒させることになるけれど、それはまた別のお話しだ。




