尾上由帆の友達(上)
穏やかな五月のことだった。寒すぎず暑すぎず、過ごしやすい日々が続いていた。
私はいつものように一人で下校していた。部活動には所属せず、学校が終わり次第帰路につくので、まだまだ日が高い内の帰宅だった。
道の途中に、ゴミ捨て場がある。何の気なしにそこを眺めると、打ち捨てられている人形を見つけた。女の子の人形で、フリルが幾重にもあしらわれた水色のブラウスと、足首が隠れそうな丈のロングスカートに身を包んでいる。絵本に出てくるお姫様のような格好だった。
何となくそれを手に取って、顔の前に掲げてみると、大きなガラスの目と合った。灰色の瞳だ。ふわふわとした髪が腰辺りまで伸びていて、中々整った顔立ちをしている。身長は四十センチほどで、どことなく西洋風だ。
衣服は汚れが目立ち、ところどころ破れている。かつてはどこかの家庭の女の子に大事にされていただろうに、今はこんな場所に横たわっている。
それが哀れに思えて、私は彼女を連れて帰ることにした。せめて洋服の穴は直してあげたい、そう思ったのだ。
家に帰り自室に入ると、すぐさま押し入れの中を探った。ほどなくして、数種類の僅かな布とファンシーなデザインをした裁縫ボックスが出てきた。開けてみると、裁縫道具は一通り入っていた。布の方も、全部使えば足りそうだ。
「ちょっと失礼」一言断りを入れてから、人形の服を脱がして、早速作業に移った。
作業は思いの外長引き、二時間以上もかかった。途中、何度か指を針で刺した。痛かった。
上手くできた、かどうかは怪しい。裁縫をしたのは小学生以来だったし、そもそも、補修に使った布と人形の服との色が違うので、どうしてもちぐはぐになってしまう。綺麗な水色の中に様々な色が混じっている。それでも穴はなくなったのだから、まあ良いだろう。
ある種の現代アートとも言えなくもないそれを、慎重に人形に着せた。脱がせる時よりも少し手間取った。
着せてみると、彼女の美貌も手伝って、案外悪くないように思えた。つぎはぎの洋服も、その奇抜さがむしろ最先端のファッションのように見えた。最初にあったみすぼらしさは見る影もない。
当初の目的を達成したところで、この子をどうしようという考えが浮かんだ。
元あった場所に戻すのはあまりにも薄情だ。まあ、あまりかさばる物でもないし、私の部屋にあまり物もないし、ここに置いておいてあげても良いか。ぬいぐるみ代わりと思えば、心なしか、女子力も向上する気がする。
机の上に座らせて、少し位置を調整する。頭が重いのか、項垂れたような姿勢をしてしまうが、それは仕方がない。
少し離れた位置から彼女をしばらく眺めて、スマートフォンで何枚か写真を撮った。
そうこうしているうちに、一階にいる母に呼ばれた。晩御飯ができたのだ。もうそんな時間になっていたのかと驚き、人形をそのままにして部屋を後にした。
晩御飯の後、部屋に戻ると、人形が床に横たわっていた。どうやら、机から落ちたらしい。窓は開けていないから風は入らないし、当然、誰かが部屋に入って落としたわけではないだろう。
どうして落ちたのだろう。不思議に思い、少しの間その場に立ち尽くしたまま思案を巡らせてみたが、特に何も思いつかず、不思議は不思議のままにしておこうと結論付け、再び彼女を机の上に座らせた。
その日はそれから彼女に触ることもなく、床に就いた。完全なる眠りに落ちる寸前、何やら奇妙な物音、硬質なもの同士が擦れ合うような音が聞こえてきたが、安眠の妨げとなることはなかった。
朝目を覚ますと、時刻は七時半だった。昨日、慣れない裁縫をしたせいか、随分と遅い起床だった。
即座に異変に気付いた。ベッドのすぐ近くの床に、人がうつ伏せになっていた。身長は多分、百七十センチほどある。
心臓が跳ね、「ぎゃあ」という声が出た。自分でも聞いたことがない声だった。朝の眠気など完全に吹き飛んだ。
掛布団を胸元に手繰り寄せながら、恐る恐る、先程からピクリとも動かない、その謎の人物を観察した。
顔は見えないが、どうやら女性のようだ。ふわふわとした髪を腰辺りまで伸ばしている。幾重にもフリルがあしらわれた、水色のブラウスとロングスカートに身を包んでいる。奇妙なことに、それはところどころ、赤色だったり黒色だったり黄色だったり、全く異なった色の布が使用されていた。
そこまで観察し終えてから、あっ、と声が出た。眠気は吹き飛んでいたが、どうやら頭はまだ正常に働いていなかったらしい。
うつ伏せになっている彼女の衣服は、どう見ても、昨日私があの人形のために補修した物だった。
咄嗟に、机の上を見る。昨日座らせておいたはずの人形がいない。その事実を認識するとほぼ同時に、ある考えが生まれた。
いやいやまさか、とは、到底思えなかった。こんなことは、今までにもあったのだから。
ベッドから降りて、おっかなびっくり、彼女の肩をさする。反応は無い。その際に、ブラウスの袖が少し捲れて、彼女の手首が露になった。その球体関節も。
「由帆? 起きた? 朝ごはん出来てるよ」
ノックも無しに、母が入ってきた。デリカシーの欠片も無かった。
入ってきて一番に、母の目には「これ」が入ったようで、目をこれでもかと見開いた。
「あんた、この人、どうしたの?」
当然の疑問だった。視線を右へ左へと振り、どこかに上手い言い訳が落ちていないか探したが、やはりどこにもなく、観念して正直に話すとこにした。正直に、と言っても、ただゴミ捨て場から拾ってきたというだけだけれども。
「拾ってきた」
「拾ってきたって、どこから?」
「何か、ゴミ捨て場」
「ご、ゴミ捨て場? 何、酔っ払いなの? この人」
「あ、人じゃなくて、人形なんだけど」
そう言ってから、また人形の肩を少し強めに揺すった。依然として反応はない。それは人間でなく人形であることを示すのに十分だった。
しばしの間、母はぽかんとそれを眺めていたが、やがて「ああ」と、何かに納得したような声を出した。
「そう言えば、あんた小さい頃お人形遊びが好きだったねえ」
「え?」
昔を懐かしむような色を含んだ母の声に、今度は私が驚いた。
「ああ、なるほどなるほど、懐かしいねえ」
そう言いながら、母は部屋を後にした。
若干の困惑を覚えつつ、私も部屋を出た。出る間際、人形の方を振り返った。やはり動かない。でもきっと、彼女は動いたのだ。動きもしたし、大きくなったりもした。
それに驚きこそすれ、不気味に思えるような感性は、私には残されてはいなかった。
小さい頃から、私の周りでは奇怪なことが頻繁に起こった。それらは怪奇現象の類だった。
幸いなことに、それが原因で怪我をしたり、命の危機にさらされたことは無かったが、友達はいなくなった。
尾上由帆の近くにいると怖い目に会う。そんなことが囁かれ、同年代の人たちは皆離れていった。それは必然だった。
小学校を卒業するころには、友達は一人もいなくなっていた。中学生の時は、自ら孤独を選んだ。そしてそのスタンスは、高校生になった現在でも変わらない。変わったことと言えば、孤独であることに痛みを感じなくなったことぐらいだ。
一階のリビングに入ると、既に父が着席していた。朝のニュース番組に釘付けになっている。「おはよう」と声をかけると、気の抜けた「おはよう」が返ってきた。
母が朝食を運んできて、それらが全て並べられた後で、家族そろって手を合わせた。
各々が朝食を摂る中、不意に母が隣に座る父に「そういえば」と切り出した。
「そういえばね、あなた。由帆が人形を拾って来たのよ」
「人形? へえ、そうなのか? 由帆」
「うん、まあね」
「それでね、それがこーんなに大きいのよ」
そう言って、母は限界まで腕を広げた。それは大袈裟な表現ではなかった。
それを受けた父は、口を大きく開いて、快活に笑った。
「それは、すごい大物だな。・・・・・・でも、どうしてそんなの拾って来たんだ?」
「ほら、由帆は小さい頃お人形が好きだったじゃない」
「ああ、そうかそうか、そうだったな。なるほど、人形熱が再燃したわけか」
そう言って、父が喜色を含んだ目をこちらに向けた。私はそっけなく、「まあね」とだけ返した。
「人形か、ううん、いかにも女の子って感じだな。由帆、それは間違いなく武器になるぞ」
「武器?」
「モテるってことだよ」
したり顔で父が言い、母と二人して笑った。全く元気の良い夫婦だ。
私に友達がいないのは、まず間違いなく私の責任ではあるけれど、この両親の、何でも受け入れてしまう朗らかさも一因なんじゃないか、時々、そんなことを思う。
朝食を食べ終わり、部屋に戻ると、人形は先程と全く同じ位置でうつ伏せになっていた。しかし、肩を揺すってみると、微弱ではあるが、反応があった。微かにだが、彼女自身が動いたように感じた。
もしかしなくとも、彼女はそのうち、自らの意志で動き出すだろう。根拠は無いが、確信があった。
私が学校に行っている間に動かれてしまうと、大変困ったことになる。流石の母も、背丈が百七十もある人形が家を徘徊している様を目撃すれば、腰を抜かすに違いない。いや、多分、きっと。
そうならないように、何か手を打っておく必要があった。しかし良い案は得られず、登校時間も迫っていたので、気休め程度の、おまじないめいた手法を取ることにした。
「ねえ人形さん。もし君が動けるようになっても、どうかこの部屋に留まっていてほしいんだ。少なくとも、私が帰ってくるまでは。お願いね」
言い終えると、彼女の肩が二、三度上下したような気がした。半ば強引にそれを了承と受け取って、最後に「約束ね」と言ってから、私は家を出た。
学校からの帰りは、駆け足とは言わないまでも、かなり早歩きになっていた。若干息が上がっていた。
やはり、どうしても心配だった。今までの経験からして、あの人形が人に危害を加える類のものでないと決めつけていたが、絶対ではない。
家に着き、足早に階段を駆け上がり、部屋のドアを開ける。そこに人形はいなかった。「あれ?」と素っ頓狂な声が出た。
まずい、外に出てしまったのか、そう思っていると、突如として、背後から手が伸びてきて、口を塞がれた。硬くて冷たい感触だった。それと同時に、私の両腕を巻き込む形で、相手の腕が胴体に回された。
半ばパニックになり、何とか拘束から逃れようと暴れても、まるで振り解けなかった。
背後でドアが閉まる音がした。暴れる私をものともせず、相手はのそのそとベッドの前まで私を運び、そのままそこへ放った。
ベッドに背中から着地すると、スプリングが軋む音がした。顔を上げ、相手の顔を見る。すると、大きなガラスの目と合った。人形だ。
彼女は神妙な顔つきで私を見下ろしていたかと思うと、突如として破顔し、「うくく」と笑った。まるで理解が追い付かず、私は恐らく、呆けた表情を浮かべていた。
「ねえ、驚いた? うくく、驚いた? ドアの陰に隠れていたのよ、うくく」
彼女が口を開くと、意外にも、透き通るような美声が私の耳に届いた。輪をかけて放心する。
そんな私の様子がさぞおかしいのだろう、彼女はますます「うくく」と笑った。
人形にも表情があるんだ。麻痺した頭で、そんなことを思った。
中途半端な分割で申し訳ない。
(下)は明日投稿します。




