相互不認識ガールズ
気をつけてはいるつもりが、無意識のうちに私はまた髪の毛を弄んでいたようで、その行為に気づいたら最後、私の意識はある一点へと向けられてしまう。
「ねぇねぇ、ヒナ。ちゃんと聞いてる?」
陽子が私の変化を悟ると、咎めるような口調で私に言った。
「あ、ごめん。ぼうっとしてた」
「またぁ?最近ずっとそうだよね?大丈夫?」
意識を引き戻された私は、陽子の不満そうな視線に気づいて、率直に謝った。すると一転して、彼女の声に、私を気遣うような音が含まれた。
陽子の言う通り、最近の私は頻繁に上の空になる。そうなるとき、私は決まって髪を弄んでいて、視線の先には必ず秋口さんがいた。
秋口さん。同じクラスの、女の子。彼女のことを思うと、他のことに集中できないでいる。
私がこうなった原因に、一つだけ心当たりがある。というよりも、それ以外あり得なかった。
「それにしても、髪伸びたねー」
しきりに髪を気にする私に、陽子は今気づいたとばかりに言った。
私の髪、少しクセのある髪の毛。
二ヶ月前までは、短めに保っていた。長くしたって、うるさくて馬鹿で女の子らしくない私には似合わないと思っていたからだ。
でも今は違う。訳あって、伸ばしている。
二ヶ月前、私に大きな変化を及ぼしたその日は、同時に、私にとっての秋口さんの存在が、一回り大きくなった日でもあった。
二ヶ月前、私と秋口さんは日直だった。正確には、私は遅刻した罰として、日直の手伝いをしていた。
放課後の日直の仕事は、普段は黒板を綺麗にするだけに留まるのだけれども、その日は一週間に一度のごみ出しの日で、校舎裏のごみ捨て場まで行かなければならなかった。
黒板掃除を秋口さんに任せて、私はランドセルを背負うと、今にも張り裂けそうなほど中身のつまったごみ袋を持った。
「一人で大丈夫?」
黒板消しをクリーナーにあてながら、秋口さんが言った。
「大丈夫だよ」私はそう言って、証明するようにごみ袋を掲げてみせた。「私力あるから」
本当はちょっぴり重かったけど、何となく、秋口さんの前で格好つけてみたくなったのだ。
ムリを秋口さんに悟られないように、私は足早に教室を去った。
ごみ捨て場にて仕事を終えると、どこから来たのだろうか、一匹の黒い猫が目に入った。目つきが鋭く、深い警戒心が窺えた。
そんな黒猫を見ていると、不意に、秋口さんが脳裏に浮かんだ。
秋口さんは成績が良くて、テストの度に先生に褒められている。誰か特定の人と仲良くしている彼女を見たことがなく、グループに属することもなく、休み時間などは本を読んでいる。
切れ長な目をしていて、髪の毛はさらっと長くて黒い。美人さんだ。
そんな彼女と目の前の黒猫に、どことなく共通点がある気がして、私はできるだけ視線を低くしようとその場にしゃがみこみ、おいでおいでと手招きした。黒猫が恐る恐るといった様子で、私に向かって歩を進めた。
「にゃあ、にゃあにゃあ」
私は周囲に誰もいないのを良いことに、警戒心を解くべく、猫語で黒猫へと話しかけた。心なしか、黒猫の表情が和らいだように見える。
ああ、秋口さんと仲良くなれないかな。
にゃあにゃあ言いながら、私は思った。
頭が良くて静かで美人さんで。私とは全く正反対の彼女に、私は憧れこそすれど、話しかけられないでいた。それでいて、彼女を目で追ったりしている。今日の日直なんか、絶好の機械であったにも関わらず、それをものに出来なかった。
黒猫の鼻先がもう一、二歩も歩けば私の手に届くといった距離、私の猫語も苛烈さを増す中、背後から不意に聞こえた笑い声に、私は弾かれたように振り返った。黒猫がびっくりして逃げていった。
秋口さんだった。手を口にあてがい、それでもなお笑いを抑えきれないようで、切れ切れに声がもれ出ていた。
「ご、ごめんなさい。やっぱり心配になって、来てみたんだけど、ふふふ、盗み聞きするつもりは、ふふふ、なかったんだけど・・・・・・」
とうとう堪えきれなくなり、彼女は高らかに笑いだした。
体温の上昇とともに、顔が赤くなるのを感じる。
恥ずかしい。ああ、でも、秋口さんが笑っている。珍しいな。
秋口さんが笑っているところ、それも、こんなに大きく笑っているところなんて見たこともない。
その姿は普段の物静かな彼女とはかけ離れていて、そのギャップも相まって、今の秋口さんは美人さんというよりも、とても可愛らしく思えた。
「可愛いね」
少し落ち着いて、目尻に浮かぶ涙を拭いながら、秋口さんが言った。
その評価は私に対するものか。一瞬の動揺をはさみ、胸の高鳴りを感じた後、ついさっきまでじゃれていた黒猫を思いだし、私は平静を取り戻した。
「か、可愛かったね。どこから来たんだろうね、あの子」
「違うよ。日向さんがだよ」
「うぇっ!?わ、私?」
この場を秋口さんとお話しする絶好のチャンスと考えた私は、
おもむろに繰り出された弩級の一撃に、あえなく撃沈した。
顔がだらしなく綻ぶ気配がして、私は慌ててそっぽ向いた。
「私が可愛いなんて、そんな・・・・・・」
「可愛いよっ」
表情が綻んでいくのを食い止めるのに精一杯の私に、秋口さんが猛然と詰め寄った。
近い近い良い匂い近い黒髪近い切れ長良い匂い近い美人さん近い可愛い。
目まぐるしい思考の最中、私の目が、秋口さんの目を捉えた。その瞳に吸い寄せられるようだった。
「今までも、私は日向さんが可愛いと思っていたし、もっと可愛くなれると思う」
真剣な声音で、彼女はなおも続ける。
可愛いと言われるのがむず痒い。でも、秋口さんに言われると、何だかとても嬉しい。
様々な否定の言葉が浮かんだ。それらは彼女の輝く瞳に、ことごとく打ち消された。
これからも、秋口さんに可愛いと言ってもらいたいと思った。だから、今この瞬間だけでも、大胆になってみよう。
「どうしたら、その・・・・・・か、かわ、可愛くなれるかな?」
言った途端、猛烈な羞恥心が胸中に満ち満ちた。ああ、私は何を言っているんだ。
秋口さんの表情が綻んだ。まるでパッと花が咲いたようだ。
「髪伸ばしてみるのは、どうかなっ」
「えー。でも私クセっ毛だし・・・・・・」
「絶対絶対、絶対もっと可愛くなるよっ」
難色を示すやいなや、彼女は更に詰め寄った。もはや、息がかかりあう距離だ。
「わ、わかった。やってみるよ」
彼女の鬼気迫る勢いに気圧され、私はかくかくと頷いた。
その様子に満足したのか、秋口さんも、ぶんぶんと頷いている。
その勢いのあまり、彼女の黒髪が乱れ、顔に暗幕を落とすようにしてかかった。彼女は慌ててそれを直した。
「シュシュとか、持ってないの?」
「うん・・・・・・」
彼女は弱々しく頷いた。「シュシュとかオシャレっぽいの、何となく恥ずかしくて・・・・・・」
私は手首に着けているシュシュを取り外して、一人萎んでいる秋口さんに、それを差し出した。
「あげるよ」
オレンジ色のシュシュが、太陽の光を浴びて輝いた。
「いいの?」
「うん。いいよ」
そのシュシュは数日前母から貰ったもので、乙女力を向上させなさい、とか何とか言って手渡された。当然私には括るほどの髪はないのでそれは本来の役割を果たせず、もて余した末に私の手首へと収まっていた。
私の手首よりも、秋口さんの綺麗な黒髪の方が、シュシュとしても居心地が良いに違いない。
「括ってあげる」
私はそう言って、掌に乗ったシュシュになかなか手を伸ばそうとしない秋口さんの背後に、すらりと回り込んだ。
黒髪を手に取ると、ほのかに良い匂いがした。優しい匂いだ。
髪を束ね、シュシュに通した。真っ直ぐに伸びる黒髪はすんなりと束ねられた。
秋口さんは振り返って、まとまった髪、シュシュの順に、大切にそっと触った。
「どう、かな?」
少し俯いて、上目遣いで彼女はそう訊いた。
「すっごい可愛いよ」
「あ、ありがとう・・・・・・」
・・・・・・
会話が止まった。遠くから、楽しげな声が聞こえる。校庭で遊んでいる人たちのものだ。
恥ずかしい、というより、とても照れくさい。どれがどう照れくさいのか判別できないが、とにかく照れくさい。
頬が熱い。赤くなっているかもしれない。もしかしたら、耳まですっかり赤くなっているかも。
胸が痛い。なぜか、さっきからずっと鼓動が高まり続けている。太鼓だ。太鼓が入っているんだ。だからこんなに心臓の音が大きいんだ。
「・・・・・・メロンパン」
「えっ?」
「メロンパンの特売があるから、私帰るね!!」
言うやいなや、私は疾走した。
秋口さんには申し訳ないが、多少強引でも切り上げたかったのだ。これ以上留まっていては、おかしくなってしまう。
秋口さんはどんな表情をしているだろうか?
振り返ってみたい衝動を押さえ、私はただただ走った。
ああ、それにしても、嘘が下手すぎる。恥ずかしい。
穏やかな雰囲気が漂う住宅街。それらを蹴散らすように、私は感情のままに走った。
あれから二ヶ月。
秋口さんと私の関係性には、何の変化もない。
以前と変わらず、クラスメートで友達未満。
あの日のことが妙に恥ずかしく思えて、結局、彼女に声をかけられないまま、日常へと回帰した。
だから、私は髪を伸ばし続ける。
秋口さんがそのことに気づいて、あの日のように「可愛いね」と言ってもらえることを期待して、願って、私は髪を伸ばし続ける。
私は小動物めいた臆病さと慎重さをもって、秋口さんを盗み見た。
彼女はいつものように席に座り、本を読んでいる。
その頭には、オレンジ色のシュシュ。例のシュシュ。最近の秋口さんは本を読むとき、決まってシュシュを着けている。
良く似合っている。言ってみたい。ただ一言、可愛いと。そう言ってみたい。でも、何となく照れくさくて、言えない。
私はまた、毛先を弄んだ。
秋口さんは頭が良くて、静かで、上品で、美人さんで。だから、馬鹿でうるさいだけの私なんかに、きっと気づいてくれない。もしかしたら、二ヶ月前のことなんてすっかり忘れているかもしれない。
ああ、でも。
私の視界に飛び込んでくる文章はどれも頭を通り過ぎるばかりで、それらが何の意味も持たない記号の羅列にさえ思えてきた。
さっきから、この手にある小説のページが進まない。内容を上手く理解できない。
原因は明白だった。
私は凝り固まった背筋をほぐすふりをして、教室の後方を顧みた。
一人の女の子が目に留まる。日向さんだ。
山浦さんと楽しそうにお話しをしている。彼女はいつだって朗らかで、明るい。
困ったことに、最近の私は、同じ場所に日向さんがいると意識しただけで、上の空になってしまう。
以前から彼女のことを意識してはいたが、これは少々、いやかなり、重症だ。
ずっと見ていては気づかれてしまう。私は再び、その場で足踏みをする物語に、視線を落とした。
不意に、二ヶ月前のことが思い出された。
二ヶ月前のあの日、私はそれを思い出すと、赤面せずにはいられなかった。
幸運にも日向さんと二人きりになれたとはいえ、柄にもなくはしゃぎすぎた。
普段から思っていたこととはいえ、日向さんに可愛い連呼なんて・・・・・・。
でも、あの時の日向さんは本当に可愛かったな。
私はもう一度、教室の後方を小さく顧みた。
やっぱり、日向さんの姿がすぐ目に留まる。
今の彼女の髪の長さは、恐らく今までで一番長いだろう。
ひょっとして、私の助言を聞き入れてくれたのだろうか。そう考えて、すぐにかぶりを振った。いや、自意識過剰にも程がある。女の子なんだから、髪の毛くらい誰に言われなくたって伸ばす。
・・・・・・可愛いなぁ、日向さん。
可愛いねって、言ってみたい。でも、何となく照れくさくて、言えない。二ヶ月前はあんなに言っていたのに。
無意識のうちに、私はシュシュへと手を伸ばしていた。
私の髪をまとめてくれる、オレンジ色のシュシュ。日向さんがくれた、シュシュ。
最近になってようやく、これを着ける決心がついた。やっぱり私なんかには似合わないんじゃないか、そう何度も思い返した末に、ようやくである。
可愛いよ。あの日、日向さんはそう言ってくれた。
もう一度だけ、言ってもらいたい。本当は何度でも言ってもらいたいけど、欲張らずに慎ましく、もう一度だけ。
だから、どうか気づいて、日向さん。
私は切に願った。
日向さんは明るくて、朗らかで、優しくて、運動神経も抜群で、可愛いくて。だから、暗くて地味な私なんかに、きっと気づいてくれない。もしかしたら、二ヶ月前のことなんてすっかり忘れているかもしれない。
ああ、でも。
「「気づいてくれないかなぁ」」
互いを意識しながらも相手の想いに気づけない女の子たち。
可愛いですね。