他称カップル 体育祭編
この話は「他称カップル」の続編となっています。先にそちらを読んでいただけると幸いです。
夏が見え隠れし始める六月、照りつける日差しの中、校庭は異様な熱気に満たされていた。この空間だけ、気温が若干高いかもしれない。
等間隔に並べられた、三つの大型テント。屋根の色はそれぞれ、赤、青、緑となっている。生徒たちは皆、校庭の中央をぐるりと一周囲むようにして立ち、歓声を上げている。
この光景は正しく、体育祭に相応しいものだった。
学校全体が体育祭の熱に浮かれ始めたのは、開催日のおよそ三日前からだった。
組体操などの、前もって練習が必要となるプログラムはこの学校には無く、それ故に、特別やる気を起こす生徒は多くない。しかし、有志の応援団たちは違う。体育祭の三週間ほど前から練習を重ねている彼らの熱気たるや、火山にも勝る勢いだった。その猛火に炙られ、他の生徒もやる気を出すという流れがあった。それは結衣も例外ではなく、浮かれに浮かれた彼女は、輪をかけて阿呆になっていた。
そして現在、その熱量を放出すべく、皆一様に、大いに盛り上がっているのだった。
『続きまして、五十メートル走、女子の部です。選手の皆さん、入場してください』
そんな地響きのような歓声に負けじと、大音量のアナウンスが流れた。五十メートル走は、結衣が出場する競技だ。
手作り感に溢れる入場門から、選手たちが駆け足に入場する。結構な人数がこの五十メートル走に参加するので、点数の動きが突出して激しいプログラムとなっている。まだ序盤ではあるものの、勝負の優勢が決定する、重要な競技だ。
「ゆうちゃーん、見ててねー」
選手の団体の中から、大音声が上がった。言うまでもなく、結衣である。私と彼女との距離は相当あるはずなのに、はっきりと耳に彼女の声が入ってきた。見てみると、飛び跳ねたり、手を大袈裟に振っている、落ち着きのない彼女の姿が目に入った。額には、私たちのチームカラーである、赤色のハチマキが巻かれていた。いろんな意味で遠間からでも目立つ女である。
「今日も暑いねー、カップル」
「カップル言うな」
背中に声をかけられ、振り向くよりも先に、半ば反射的に言い返す。声の主が隣に立った。果たして、歩佳だった。例の不愉快な笑みを浮かべている。
「それにしても意外だなあ、結衣が五十メートル走って」
「確かにそうかもね。でも、結衣は昔から足が速かったわ」
「へえ、陸上部とかだったの?」
「いえ、全然。あの子、運動部に所属していたことがないわよ。ただ単純に、運動が得意なのよ」
「あ、そうなんだ」
そうこう言っているうちに、いつの間にか、結衣のグループに順番が来ていた。六人が各々のスタート位置に着いた。五人がクラウチングスタートを構える中、結衣一人だけが、単に足を前後に開いただけの、小学校低学年のようなポーズをとっている。珍しく、真剣な面持ちだ。
乾いた空砲が鳴り、一斉に六人がスタートを切った。先頭に躍り出たのは結衣で、そして既に、勝負は決まったようなものだった。
一位を維持し、二位との差を保ちながら、結衣はそのままゴールテープを切った。その途端に、観客が湧く。彼女は肩で息をしながら、私の方を見ている。目が合った。みるみるうちに破顔していく。今度は、控えめに手を振っている。
「あ、手振ってるよ」
隣から、歩佳が言った。わかってるわよ、ぶっきらぼうに、そう答える。
私も控えめに振り返す。何となく照れくさいと感じるのは、結衣を格好いいと思ってしまったからだろうか。
「ゆうちゃん、私の勇姿見ててくれた?」
帰ってきての開口一番がそれだった。ハチマキがうっすらと、汗で滲んでいる。彼女の頑張りが窺えた。タオルを手渡す。
「見てたわよ、お疲れ様」
「わあ、嬉しい。どう、惚れた? 惚れた?」
汗を拭いながら、結衣はそんなことを言った。また歩佳に揶揄われそうなことを。さっきまで格好いいと思っていたことが、急に馬鹿馬鹿しく感じた。いっそ、恥ずかしくさえ思った。
「あ、そうだそうだ。ゆうちゃん、写真撮ろう」
結衣はそう言って、テントに駆け寄った。水筒などの必要最低限の荷物は、そこに置いておく決まりだ。テントから帰って来た彼女の手には、携帯電話が握られていた。
「いいわよ。・・・・・・珍しいわね。結衣、写真嫌いじゃなかったかしら」
「うん、大嫌い。でも、体操服姿のゆうちゃんの写真欲しいから、我慢するよ」
「気持ち悪」
頬同士がくっつくギリギリのところまで、結衣の顔が寄ってきた。携帯電話を上空にかざして、その小さな画面に二人が収まるように、右へ左へと不器用に調整している。
「あ、ゆうちゃん、もうちょいそっち、ああ、またはみ出した、もう」
「下手ねえ。ほら、こうするのよ」
彼女の手に添える形に、携帯電話を支える。そうすると、私たちはすっかり、小さな世界に収まった。
「ほら、早く押しなさい」
「あ、ありがとう」
妙に甲高いシャッター音が鳴る。写真を確認してみると、結衣の表情がどうにも変だった。普段から彼女は笑みを浮かべ、人当たりの良い表情をしているが、写真の彼女は何というか、だらしがない顔をしている。写真のおよそ二分の一がそんな表情で埋められているというのは、如何なものだろうか。
「撮りなおす?」
「・・・・・・いや、これでいいよ。ゆうちゃんがばっちり写ってるし」
写真をまじまじと見つめながら、彼女は呟いた。口角が吊り上がっている。
「なによ、そんなに嬉しいの?」
気になって、そう訊いてみる。すると、結衣は横目で私を捉えては離し、捉えては離しとを数回繰り返し、ニタニタと笑みを浮かべた。その様子は、さしもの彼女の美貌を以てしても不審者さながらで、身が震える思いがした。
「いやあ、だってさあ、この写真、私とゆうちゃんだけの写真なんだよ?」
「それが何よ」
そう返すと、結衣は信じられないといった風に、あたかも凶悪な現行犯罪を目撃したかのような、驚愕の表情を浮かべた。
「わかってない、わかってないなあ、ゆうちゃんは。女心がまるでわかってない」
「失礼ね、私も女よ」
「いや、わかってない。女の子は、こういう特別に弱いんだよ」
特別に弱いという彼女の主張も最もだが、写真が特別というのは納得がいかない。そんなもの、いつでも撮ることができる、そう反論しようとして、しかし、そうすると余計に面倒なことになりそうだと考え直して、私はただ口を噤んだ。
「うふふ」
両手で大事そうに携帯電話を握りしめ、結衣が上機嫌に笑った。
『続きまして、借り物競争です。選手の皆さん、入場してください』
アナウンスが鳴り、入場門をくぐって、所定の位置へと駆け出す。私含め選手が三人しかいないため、全校生徒の視線を一身に受けているような気がして、落ち着かない。
「きゃーっ、ゆうちゃん頑張って」
黄色い声援が、観客の集団から届いた。果たして、結衣である。何人もの生徒をかき分けて、観客の先頭に立っている。よく見てみると、先ほどの携帯電話を片手に構えている。もしかしなくても、動画を撮っているのだろう。百歩譲って動画は良いとして、そんなに激しく応援をしないでもらいたい、そう切に思った。
三人とも位置に着いた。各々の視線の先には机が一つずつ設置されていて、その上には穴をくり抜いた段ボール箱が置かれている。
スタートの合図とともに机のもとまで走り、段ボールに手を入れる。中には数枚の小さな紙が入っていて、それらのうちの一枚を取ると、そこにはお題が書かれている。それに沿った物を観客から借りて、そのままゴールテープを切る、借り物競争の流れはこうだ。所謂おふざけ競技ではあるが、意外にも点数が高く、真剣に臨む必要がある。少なくとも、クラウチングスタートを取る程度には。
「それでは位置に着いて、よーい」
空砲が撃たれ、枯れ木が折れるような音が、校庭に響いた。我先にと、机へと向かう。
机との距離は三十メートル程だろうか、すぐにたどり着いた。早速紙を取り出す。
『彼女か彼氏(いないなら友達)』
なんと嫌見たらしい要求だろうか。その上、「(いないなら友達)」の部分が強引にねじ込まれたように、端の方に小さく、シャープペンシルで書かれているのが、余計に腹が立つ。恐らく、このお題を考えた人は、彼氏彼女がいない人という存在を、最初考慮に入れていなかったのだろう。途中でその存在に気がつき、慌てて書き込んだであろうことが、容易に察せられた。
衝動的に、八つ裂きにしてしまおうと両手に力を籠め、すんでのところで踏み止まった。
「うおおおお、ゆうちゃん愛してるううううう」
怒りに燃える頭に、一人の声が突き刺さった。確かめるまでもなく、結衣である。ひとりでにボルテージが上がっているようだ。
まあ、結衣でいいか。友達と言われて一番に思い浮かぶのは、やはり彼女だ。
今にもヘッドバンキングに移行しかねない結衣のもとへ、駆け足で向かう。
「結衣、来て」
「え、ゆ、ゆうちゃん?」
彼女の手を掴み、ゴールへ急ぐ。他の二人を見てみると、まだ物品探しに苦戦しているようで、観客の前を行ったり来たりしていた。
「ほら、結衣、一緒にゴールしましょ」
「え、あ、うん」
横並びになり、二人してゴールテープを切った。拍手の嵐が巻き起こる。その渦中にいると思うと、とても気分が良かった。
隣の結衣はまだ状況を上手く呑み込めず、曖昧な笑みを浮かべている。
「優子、結衣、お疲れ様」
テントに戻ると、歩佳が私たちを迎えた。低く手を上げて、それに応える。
「優子、ぶっちぎりで一番だったね」
「ええ、お題の運がよかったのよ」
不愉快ではあったが、とは言わないでおいた。
「へえ、どんなお題だったの?」
「あ、それ、私も気になる。紙持ってる?」
「持ってるわよ」
歩佳が訊き、それに同調する形で、結衣が言った。私は手に持ったままだった紙を二人に差し出した。握りしめていたせいか、くしゃくしゃになってしまっている。
紙を眺める二人の表情が、みるみるうちに変わっていく。歩佳は愉快そうに、結衣はりんごのように赤くなった。
「か、かか、か、か、かの・・・・・・」
結衣の口から、そのような音が漏れ出た。調子の悪いラジオを思わせる声だった。私は心配になって、彼女に声をかけた。
「結衣? 大丈夫?」
「わ、私、教室に忘れ物しちゃってたの思い出したから、ちょっと行ってくるねっ」
「え? あ、ちょっと」
結衣はそう言うなり、先ほどの五十メートル走での走りもかくやと思われる速さで、行ってしまった。
一体結衣に何があったのか、彼女の奇行に疑問を抱いていると、歩佳が自身の手に残された紙を、黙って私に渡してきた。
皺でよれよれになった紙は、シャープペンシルで書かれていた「(いないなら友達)」の部分が黒くかすれて読めなくなり、「彼女か彼氏」だけが見えるようになっていた。私は「友達」というお題に従って結衣を選んだが、当然、先ほどこれを見た結衣には、私が「彼女か彼氏」というお題に沿って彼女を選んだように思えただろう。
何か、途轍もない誤解が、生じているような気がした。
「ゆ、結衣、これは誤解よっ」
堪らず、結衣の後を追う。追い付けるはずもないのに。
背後で、また歓声が轟いた。次の競技が始まろうとしていた。
「やっぱりカップルじゃん」
誰かが言った。しかしそれは、アナウンスの声と観客の声援によってかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
いいカップルを見つけてしまった。




