薄暗闇にて
我ながら、いい出来です。
部屋に入って早々、こたつが視界に入った。
香耶の部屋でのことだった。もう四月だというのに、まだ我が物顔で、まるで自分が部屋の主役であるかのように、まだまだ奉仕できると言わんばかりの佇まいで、部屋の中央にあった。
「まだこたつあるの? いい加減、片づけたら?」
「えー、でも、まだ時々寒い日とかあるじゃん」
確かに、この時期になっても、特に夜なんかは、寒い日があったりはする。その点は、香耶の言うことにも一理ある。しかし、こたつが必要になるほどとは思えない。要するに、片づけるのが面倒なのだろう。香耶が面倒くさがりなのは昔からだ。
「まあまあ、足いれてみなって、陽ちゃん。春になってもこたつは良いもんだよ」
「暑そうだけどなー・・・・・・」
妙に熱心な勧誘を受け、おずおずと、こたつに足を滑り込ませた。するとどうだろうか、思いの外心地が良かった。今は特別寒いわけではないので、当然電源はつけていない。ほとんど布団のようなものだが、しかし、中の空洞の自由さが、密着する掛布団とは違って、丁度いい塩梅だった。
「どう、どう? 良いでしょ?」
どこか勝ち誇った表情で、香耶が訊いた。なるほど確かに、予想していた以上に良いものだと思いはしたものの、彼女のその表情にそれとなく腹が立ったので、あえて黙した。
香耶は特に気にした様子もなく、私の対面へと座ると、自分もこたつへと足を挿し入れた。
「今日さー、何する?」
「あー、何だろ、何も考えてなかったなー・・・・・・。人生ゲームでもする?」
「二人で?」
「うん、二人で」
パーティーゲームを二人でする。何人で遊べばパーティーと定義できるかは定かではないが、少なくとも、二人でする人生ゲームにパーティーの要素は見受けられず、愉快そうでもなかった。盛り下がること必定である。
「せっかくだから、罰ゲームありにしよう」
「罰ゲーム?」
香耶の口から、不穏な言葉が漏れた。
「そうそう、うーん、何が良いかな。・・・・・・あ、負けた方が勝った方の言うこと聞くっていうのは、どう?」
「どうって言われても・・・・・・まあ、いいか、それでやろう」
かくして、灼熱の人生が幕を開けた。
終始盛り上がることなく、私たちの分身の人生は幕を閉じた。空前絶後の運の悪さを惜しげもなく披露した私は、とうとうゴールへ辿り着くことができなかった。ゲームのスパイス程度に設置されたペナルティのマスを、狙いすましたかのように踏み抜いていった。私の分身は、人生の酸いだけを味わうという結果になった。
「よし、よしっ、私の勝ちだ、勝ったぞ! 陽ちゃんに勝ったぞ! うおははははははははは!」
両手を振り上げ万歳の形をとると、香耶は声を張り上げて、大袈裟に勝ち誇って見せた。ご家族の迷惑にならないだろうか、私はぎょっとして、扉の方を見た。
「あ、今日、夜になるまで誰も帰ってこないんだよ、実は」
微妙な動きを察してか、打って変わって落ち着いた口調で、香耶が言った。そう言われてみると確かに、玄関の靴の数が少なかった気がする。
「さて、じゃあ、罰ゲーム受けてもらいましょうか」
「常識の範囲内でお願いね」
香耶は腕を組むと、うんうんと考え込んでしまった。瞬時に思いつくような、軽い罰ゲームだとばかり思っていたが、そうではないらしい。背筋に冷たいものが走った。
「・・・・・・キスしてみない?」
しばらくしてから、香耶は唐突にそう言った。机の向こう側で、上目遣い気味に、そう提案した。
「・・・・・・は、はあ? 何言ってんの?」
耳に入って脳に伝わり、その言葉の意味が十分に理解できてなお、私はそう言い返さないではいられなかった。意味が理解できたからといって、彼女の真意までは理解できなかった。
香耶は項垂れてから、そのまま続けて口を開いた。
「なんていうかさ、私たち高校生じゃん? 華の女子高生じゃん? でも私、未だにキスしたことないじゃん?」
「いや知らねーよ」
「そもそもさあ、女子高に通ってて彼氏なんて作れるわけないじゃん。そりゃあ当然、キスなんてする機会ないって。でもさ、いい加減、そろそろキスくらいしときたいわけですよ」
香耶の語気に熱が籠ってきた。喋るにつれ、早口になっていく。
「そこで一旦、私とキスしとくってこと?」
「うん」
彼女はさも当然とばかりに、軽々しく頷いた。顔を上げると、私をまっすぐに見据えた。どこか悟ったような表情をしている。彼女とは長い付き合いになるが、こんな表情は初めて見る。
「待ってよ香耶、落ち着いて。確かに、今の状況で彼氏を作ることは絶望的だけど、だからといって私とするのはおかしいって」
私は努めて冷静に、香耶の説得に臨んだ。彼女は過去から現在に至るまで余すことなく阿保ではあったが、これはもう阿保どころか錯乱のそれに近い。
「いや、全然おかしくない。よくよく考えれば、陽ちゃん可愛いし、眉目秀麗だし、才色兼備才抜きだし、全然ありだよ」
「そういう問題?」
「もう、いいじゃん、とりあえずキスしてみよって」
香耶はこたつから足を抜くと、膝歩きで私のもとへとすり寄って来た。その素早さには、彼女の必死の思いが滲み出ているように思われた。
「ちょ、ちょっと、近づかないでよ、今この状況で」
「唇が遠いままじゃ、キスはできないよ」
香耶の気迫に気圧され、そろそろと後ずさる。それに追随して、香耶が迫る。数回と繰り返して、私はとうとう、壁際に追い詰められてしまった。
「お願いだよ陽ちゃん、こんなこと頼めるの、陽ちゃんしかいないんだよう」
香耶は私の手を取ると、そこに額をこすりつけて懇願した。彼女の手は、汗で湿っていた。
香耶の物の頼み方というものは、いつも大袈裟で、しかし私はどうにも、それに弱いのだった。
「・・・・・・わかったよ、するよ」
観念して、私はそう答えた。途端に、香耶の動きが止まった。
「本当に? マジで?」
「本当」
聞くや否や、香耶は私の手をぱっと放して、緩慢な動作で後ずさった。案の定、その表情は明るかった。
「じゃ、じゃあ、えっと、お願いします・・・・・・」
そう言うと、香耶は目を閉じた。心なしか、顔を少し突き出しているようだ。
「いや、いやいやいやいや、ちょっと待て。私からするの? おかしくない?」
香耶のそのポーズが待機のそれだと気づいて、慌てて抗議の声をあげた。彼女は目を開けると、とぼけた様な、非常に腹立たしい表情を浮かべた。
「え、だって私キスしたことないし、は、恥ずかしいし・・・・・・」
「私だってそうだわい!」
それからは、己が如何に自分からキスするのに向いていない人材であるか、という、苛烈極まる、それでいて悲しい、世にも恐ろしい口論が続いた。口を開く度、自らの身を裂くような言葉が飛び交った。
こうなったら、ジャンケンで決めよう。
香耶がそう提案したのは、五分ほど時間が経ってからだった。私は一も二もなくそれに同意した。勝っても負けても私にメリットがないという点は、この際目を瞑ることにした。終わりの見えない、不毛の極みであるやり取りに、心身ともに疲れ切っていたのだ。
「じゃーんけーん、ぽん」
互いに手を突き出し、香耶の音頭で手を出した。グーとパーが対峙した。私がグーで、香耶がパーだった。人生ゲームに引き続き、私はまたしても破れてしまった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
二人とも、何も口にできないでいた。勝敗が決してしまった以上、キスする流れができてしまっていた。それゆえに、何とも言い表せない、かつてない気まずさが満ちた。
「・・・・・・じゃあ、よろしく」
再び、香耶がその場で目を閉じた。例の待機ポーズだ。
意を決して、彼女のすぐ傍まで行くと、彼女の華奢な肩へと手を置いた。瞬間、ピクリと揺れた。
その体制のまま、改めて、まじまじと彼女の顔を眺めた。古くから見てきた顔ではあるが、真正面からじっくり見る機会はなく、その上目を瞑っている香耶というのは、ひどく新鮮だった。見れば見るほど、幼さの残る彼女の表情に愛おしさを覚えるように感じた。
香耶の唇が視界の中央を占める度に、頬に熱が籠るのを感じる。
私は、彼女の肩から手を離した。
「や、やっぱり無理だよ。こんな、顔を合わせてだなんて、いくらなんでも、恥ずかしすぎる」
「じゃあ、どうすんのさ」
詰るような目つきとともに、香耶が言った。
罰ゲームの内容を変えろ、とは今更言えないのだった。
答えを求めて、部屋の中を見回した。その時、ある一つの名案が、天啓ともいえる発想が浮かんだ。視界にはこたつがあった。
「こたつだ」
思わず、そう呟いた。香耶の瞳が、困惑に曇った。
「暗い中でなら、こたつの中でなら、恥ずかしくないはずだ」
二人してこたつの前に並んだ。
机は正方形に近い形で、四隅に足が付いている。少々窮屈ではあるが、一方向から上半身を二人分入れることができる。
作戦はこうである。
まず最初に香耶がこたつに入り、横向きに寝転がる。その後すかさず私も入り、香耶と向き合うようにして寝転がる。この時、光の届かないこたつ内では、お互いの顔は十分に認識できないはずである。後はもう、キスするだけだ。
「それ、布団じゃダメなの?」
説明を聞いた後、香耶は素朴にそう訊いた。ご丁寧に、ベッドを指さして、示して見せた。
「ベッドはダメだよ」
「何で?」
「いや・・・・・・何か、生々しいからさ」
「そ、そう・・・・・・」
何かを察して、香耶は早々に話を切り上げると、こたつをめくって、上半身を滑り込ませた。なんとも、奇妙な光景だった。
「準備おっけー」
中から、くぐもった声が聞こえてきた。
鼓動が高鳴る。落ち着けることもできないまま、私も香耶に続いて、こたつをめくった。芋虫もかくやというほどにゆっくりとした動きで、彼女の傍に横たわった。予想通り、彼女の表情は見えず、輪郭がおぼろげに認識できる程度だった。
「よし、じゃあ、いくよ・・・・・・」
「うん・・・・・・」
しおらしい返事が聞こえた。普段の彼女からは想像もつかない、弱々しい声だった。直後、胸が締め付けられるように痛んだ。恐らく、今日の香耶はおかしくなっている。そして、多分私も・・・・・・。
薄暗闇のせいだ。こたつの中の、この二人の空間が、私をおかしくさせるんだ。だからこそ、早くここを抜け出さなくてはならないんだ。
狙いを定めるように、香耶の頬に触れる。少しの震えが伝わった。そしてそのまま、唇を寄せた。
こたつから出ると、蛍光灯の人工的な光が目を刺した。
続いて、香耶が出てきた。俯きがちで、その表情は読めなかった。しかし、耳が紅葉色に染まっていた。
会話は無かった。
私はいそいそと帰り支度を済ませると、立ち上がって、扉へと向かった。
「・・・・・・こたつ、片づけときなよ」
ドアノブを捻るとき、私は独り言のように言った。
「・・・・・・うん」
返事を聞くや否や、私は部屋を後にした。
香耶の家を出ると、もう日は沈みかけていた。夕日に染まる空の色は、なんとなく、先ほどの香耶の耳の色を想起させた。
薄暗闇を抜けたというのに、鼓動の抑えが効かない。堪らず、私は駆け出した。
ああ、明日からどんな顔して会えばいいんだ。




