気まずい関係
青々とした空が数日続き、七月ということもあって、灼熱のごとき日々が続いていた。そんな中、たらいをひっくり返したような大雨が降ったのは、下校中のことだった。
傘は持っていなかった。当然だ。今朝は晴れていたから、その必要があるとは、夢にも思わなかったのだ。自分が濡れる分には構わないが、問題は、肩にかけた鞄の中の、教科書や読み止しの小説が濡れてしまうことだった。ページが折れてしまうことすら耐え難い。ましてや、水浸しにしてしまうなんて言語道断だ。
私は鞄を庇う様にして抱えると、急遽、すぐ近くにあった公園の、屋根のついたベンチへと避難した。
鞄を開けて中身を確認すると、幸いなことに、本たちは無事だった。一安心して、鞄を閉じる。
周囲は雨音に支配されていた。公園には私の他に誰もいない、その上、雨の音以外聞こえないとなれば、何となく、世界から隔離されたような、しかしそれでいて居心地が良いような、奇妙な感覚を覚えた。
この感覚に浸りながら本を読めば、かつてない没入感、満足感、そして何より、非日常感が得られるかもしれない、そう思った私は、しかし、今の自分は本を守る代償として全身余すことなく雨に濡れてしまっていることに気がつき、泣く泣く断念した。この状態で本を手に取れば、本末転倒もいいところだ。
スカートの端から水が滴り落ちる。寒気を感じた。
猛暑が続く中、せめて雨でも降ってくれとは思っていたが、流石にこれはマズい。風邪を引いてしまう。真夏に風邪を引いてしまえば、完治するまでが面倒だ。
帰れもせず、本を開くこともできず、悪寒は走る。状況を打破する手段はない。成す術もなく、私は遠くを見つめた。
その時、こちらへ走ってくる人の姿が視界に入った。私と同じ、帰宅難民だろう。狭い屋根の下、見ず知らずの人と二人きりになってしまうが、仕方がない。
「あー、やばいやばい、本当、最悪だ・・・・・・」
屋根の下に入るなりそう呻いたのは、学生服に身を包んだ女の子だった。制服からして、私の通う高校の生徒ではないようだ。長い髪の毛が濡れて、黒髪がつやつやと強調されている。
「いやー、困っちゃいますよね、いきなり降られると」
彼女は鞄からタオルを取り出し、それで体を拭きながら、そう言った。社交的とは言い難い私は、何だか妙に乾いた笑いとともに「ええ」と返事するのが精一杯だった。
実のところ、私は人見知りが激しい。その上、この女生徒が積極的にお話しする人となれば、これはもうどうしようもない。大雨で逃げ場のない中、公園はいとも容易く地獄と化す。
どうすればこの場を最小限の精神的ダメージで切り抜けることができるか、私は考えに考え、雨が止まない分にはどうしようもない、流れに身を任せてみよう、という一種の思考停止的結論をはじき出した。
これも何かの縁。いっそ人見知りを克服するくらいの心づもりでいよう。昂る気持ちを雨音の情緒で落ち着かせると、私は難民仲間である女生徒へと振り向いた。彼女もまた、こちらを見ていた。目が合った。
「あれっ、もしかして、南さん・・・・・・?」
その瞬間、女生徒が驚きの入り混じった声音で、そう言った。ほとんど呟くようだった。
「香山さん・・・・・・」
応じるように、私もそう呟いた。
私と香山さんが知り合ったのは、あくまでも私からすればだが、中学三年生の頃だった。知り合ったと言っても、同じクラスになって少し話したことがある程度で、私にとっては印象の薄い人だった。
そんな香山さんが私の中学校生活において最も印象深い人物となったのは、卒業式の三日前のことだった。
当時、進学する高校も決まり、残すは卒業式のみと安堵していた私は、香山さんに校舎裏へと呼び出された。陽の光が当たらない、薄暗い校舎裏は絶好のアウトロースポットであり、私は無闇に恐怖した。しかし行かないという選択も、それはそれで後が怖いということで、私はおずおずとそこへ赴いた。
果たして、香山さんはそこで待っていた。
挨拶もそこそこに、呼び出したことを詫びた後、香山さんは不意に告白した。世間話でもするように、突如として思いの丈を私にぶつけた。予想だにしない一撃に、私は少しめまいがした。
少し茫然とした後、私は頭を下げて断った。二人きりの空間に、私の声が木霊した。
お互いが女の子であることもあるが、それよりも何よりも、私が香山さんのことを何も知らず、特に好きでもない。その状態で付き合うことが、彼女に対してひどく不誠実なように思われたからだ。我ながら子供な感性だが、私はそれを無視することがどうしてもできなかった。
香山さんの恋は、呆気なく潰えた。
「南さんは、髪の毛長い子と短い子、どっちが好き?」
去り際、香山さんはそう訊いた。その声には涙が混じっていた。
彼女の髪は短めだった。
「・・・・・・長い方が、好きかな」
そっか。
彼女はそう言って、去っていった。
それから卒業式に至るまで、そしてその後も、彼女とは一言も交わすことはなかった。
かくして、香山さんという人間は、私の中で霧のように、晴れない雲のように、もやもやと漂うことになった。
世の中に気まずい状況というものは数あれど、これほどのものが他にあるだろうか。
雨音を聞き、隣に立つ香山さんの存在を感じながら、ため息を吐きそうになる。
横目で香山さんを盗み見る。彼女もまた緊張しているのか、佇まいがどことなく不自然だ。
背筋に冷たいものが走り、くしゃみが出た。いよいよ、風邪の魔の手が迫って来ていた。
「あ、これ、使う?」
香山さんが手に持っていたタオルを差し出してきた。彼女が使った後なので、勿論そのタオルも濡れてはいるが、それでも使うか使わないかでは天と地ほどの差だろう。
いや、でも、なんというか・・・・・・。
「・・・・・・あ、ごめん。私が使った後、イヤだよね」
受け取りあぐねている私に、香山さんはそう言って、タオルを引っ込めようとした。
「っい、いや、全然、そんなことないよっ。本当、ありがとう。助かるよ」
そのタオルをほとんどひったくるようにして受け取ると、髪の毛の水気を拭った。ふんわりと、柔らかな良い匂いがした。つられて、鼓動が早くなる。
待て待て、これは一体どういうことだ。何故私はこんなにドキドキしているんだ。何で私は、こんなに意識しているんだ。こんなの、何でもない。知り合いのタオルを使っているだけ、ただそれだけだ。良い匂いだとか何だとか、そんなこと、全く意に介する必要なんてないんだ。
思いの外、香山さんの告白は、私に多大な影響を及ぼしていたようだ。
紛らわすように、手早く全身を拭いた。何となく、体が熱い。
「あ、ありがとう。洗って返すよ、これ。・・・・・・あ、でも、どうやって返そう・・・・・・」
「いや、いいよ、そのまま返してもらえば」
そういって、香山さんが私の手からタオルを取った。その際、香山さんが「ふふふ」と笑ったので、私は首を傾げた。
「いやっ、ごめん、ふふふ、でも、すごい慌てぶりだったから」
彼女は口に手を当て、尚も笑い続けた。そんなに滑稽だっただろうか。
香山さんの笑いが止んだのは、それから一分ほどしてからだった。
「南さんは、彼氏できた?」
笑い止んだ香山さんが、そう訊いてきた。かつての知り合いと再会した時に話す話題としては無難かもしれないが、香山さんが言うとは思いもしなかった。
「いや、できてないよ」
私は正直に答えた。
「じゃあ、彼女は?」
「えっ!?」
思いもよらない質問に、私はかなり素っ頓狂な声をあげた。答えるまでもなく、できていない。
「・・・・・・それも、できてないよ」
「へー、そっか・・・・・・そっか」
香山さんは何回かそう呟くと、にんまりと笑みを浮かべた。
「私も、いないんだ」
「そ、そうですか」
そんなカミングアウトをされても、反応に困ってしまう。
香山さんは笑顔のまま遠くを眺め、そして徐々に笑顔を消していった。その表情には、どこか硬い、決意のようなものが見て取れた。
「南さん、南さんが私を振った理由、訊いてもいい?」
香山さんは私に振り向くと、そう言った。空気が張り詰めた気がするのは、気のせいではないだろう。
もしかしたら、彼女はずっとそのことが気になっていたのだろうか。中学校を卒業して、高校に進学した後も、そのことがしこりのように、心に残っていたのだろうか。
思えば、彼女はあの後、すぐに去ってしまっていた。余韻を残すこともなく、一つだけ質問をして。
「・・・・・・不誠実だと思った」
「不誠実?」
「うん。私は香山さんのことを何も知らないし、それまで意識したこともなかった。そんな状態で付き合うのは、香山さんに対して不誠実だと思ったんだ。それに、香山さんのことを知ろうにも、残された時間はほんの僅かだったから・・・・・・だから、断ったんだ」
初めて明かす気持ちに、香山さんの反応はどのようなものか。私は黙して待った。
「・・・・・・今から知ってもらうことって、できる?」
「え?」
香山さんはしばらく黙ってから、そう口を開いた。
「私のこと、今から南さんに知ってもらうことって、できる?」
香山さんの視線が、目が、瞳が私を射抜いた。
そう言われると、確かにそうだ。今からだって、いつからだって、知ることはできる。
不意に、さっと陽の光が差し込んだ。いつの間にか、雨は止み、雲間から光が覗いていた。
「あ、雨、止んだね・・・・・・」
ぽつりと、香山さんがそう漏らした。
これで家に帰れる。お風呂に入って温まることもできる。本を読むこともできる。そして何より、香山さんと二人きりという状況から脱することができる。
でも。
私はベンチに腰掛けた。香山さんが呆けたように見ている。
「ちょっとお話ししていこう、香山さん・・・・・・お互い、知るために」
言ってる途中に気恥ずかしくなって、言葉尻が萎んだ。
「あっ、うん、そうしよう!」
香山さんの表情がぱっと花開いた。隣へと座った。
雨上がりの公園は、いつまでも二人きりの空間だった。




