第二部 書物への旅(ラテンアメリカ文学入門、大江健三郎との出会い)
ラテンアメリカ、すなわち南米諸国に、メキシコやプエルトリコといった中南米も含めた大域の国家の起源は、スペインにある。コロンブスが発見したアメリカ東海岸の諸国は、あっという間に西洋諸国の南米地域への侵攻、侵略、制圧、植民地化をもたらした。評論『埋められた鏡』の中でメキシコの代表的作家のカルロス・フエンテスは、スペインがラテンアメリカ諸国にとって偉大なる父でもあり、スペイン語(とブラジルのポルトガル語)の文化を広めたという点でも偉大なる母でもあったという複雑な事情を大胆な世界史図から語ってみせる。
僕がフエテンスに出会って、大著『テラ・ノストラ』に酔いしれ、そしてこの評論『埋められた鏡』に出会ったのが2017年であった。僕はここで文学上、スペイン=ラテンアメリカの複雑な出自と血縁を知ることになる。しかしそれは、2014年にあれだけ栄光と悲劇に塗れたリオでのワールドカップのラテンアメリカとスペイン諸国の躍動に、すでに予見されていたのである。
第二部 書物への旅
Tフィルハーモニーオーケストラ文芸団は2015年の3月に解散した。僕が入ってちょうど1年1か月。その間も、離脱していた夏、秋を外すと半年間しか活動していないが、ここで僕は初めて「文学と共に生きる」同志に出会い、喧嘩をし、笑い合い、ほとんどの人とは疎遠になったまま、途方に暮れていた。
それでも部長のIさんだけは僕と交友関係を続けてくれていた。Iさんは冬あたりから、バカ長い大著の小説の読書計画なるものを組んでいた。
それはだいたい次の通りであった。
ジェームズ・ジョイス『若き芸術家の肖像』
エミール・ゾラ『ナナ』
マリオ=バルガス・リョサ『世界終末戦争』
大西巨人『新聖喜劇』
武田泰淳『富士』
トマス・ピンチョン『V.』
僕はこれらのピックアップにとても心躍るものを覚えた。小説は長編に限る(読書の場合において)。これらをなるたけ1年間で読むのだ。僕も勝手に読書に参加していいかとIさんに打診し、しばらく孤独な読書と執筆の日々が始まった。
結論から言えば、このリストアップの中で幾つか読了のものもあるし、まだ読んでいないものもある。しかし、能力が色々限定された僕にとって、名著とはしばしば限られない時間の経過を要するものだ。それは単にその大著を読むのに掛かる時間というより、それから得られる感動とインスピレーションを己の血肉とするための実質的・創造的な時間である。そしてそれらは実に長い間潜伏している。
▲ラテンアメリカ文学入門
僕が最初に読んだのはバルガス・リョサの『世界終末戦争』だった。
まずはじめに僕は、マリオ=バルガス・リョサの『世界終末戦争』を手に取った。具体的には図書館で借りた。
前提としては、僕はこの本を知っていた。しかし、ノーベル文学賞を毎年気にするほどでは当時は無かったので、その本を書店で見かけたことがあってちょっと気になっていた程度の事である。
あるいは別の角度から言えば、僕はこのラテンアメリカ文学の巨匠を、この作品から入ることによって完全にハマることになったのである。
『世界終末戦争』は、実際にブラジルあたりの地で19世紀頃に起こった人民による政府への反乱運動をモチーフとして、オリジナルでリョサが小説にしたものだ。この本はとにかくすごかった。最初の一文から最後の一文まで見事だ。こうして述懐している間もまた読みたくなってくるほど、それほど素晴らしい、そして凄まじい小説だった。
内容は先ほども言った通り、人民の中にイエス・キリストの再来的な人が現れて、あっという間に彼らの信仰団体が広がっていき、それは現世の終末を賭けて、政府軍に立ち向かっていくという話なのである。しかし、描かれる登場人物は実に様々だ。イエス・キリスト的人物(名前を忘れた)の片腕的な人は半生がすごい。教団の最初の方の信者で、後に「人類の母・クアドラード」と呼ばれる人物もいる。もちろん政府軍の、隊長もいる。というか軍隊の話としてもとても面白く緻密に人間関係が描かれている。金縁眼鏡をかけたちびっこい新聞記者もいる(大活躍する)。大地主のカナヴラーヴァ男爵もいる。革命家の男もいる。視点は次々変わり、そして大切なのは、話が19世紀の事であるというのが明示的に描かれていないという事だ。まるで別の世界での話のように、一切が年代への意識を巧妙に隠されたまま、緊密な人物関係と政府軍と反乱軍の戦争が続いていく。
年代が明示されていない、というのは、Iさんに教えてもらった。そのときはじめてぼくはIさんの口から「マジック・リアリズム」という言葉を教えてもらった。マジック・リアリズムを一言で説明するのは難しいが、およそリアリズムを追求する小説態度の中で、いわゆる西洋や日本の小説の手法とは全く違う、時系列を複雑にしたり、視点や会話や場所があちこち移動したりしながらそれでもなお一種の幻惑的なリアル感覚を目指す、みたいな感じだろうか? 僕はとにかくその「マジックリアリズムを使った」とされるこの『世界終末戦争』を2か月みっちりかけてゆっくり読んでいった。それはとても至福の時間だった。
ラテンアメリカ文学との出会いはとても決定的だったが、その導入になったのが『世界終末戦争』という重厚な文学作品で僕にはかえってちょうどよかったのだと思っている。だからこそラテンアメリカ文学にこれだけハマっているのだ。
バルガス・リョサはペルー生まれで、60年代70年代ごろから世界的なベストセラー作家としても活躍し、90年代にはあのフジモリ大統領と大統領の椅子をかけた決戦投票で負けたというエピソードを持つ。長らくの間を経て、2010年にノーベル文学賞を受賞している。まだ存命の、貴重な作家である。
『世界終末戦争』を読んだあと、先ほども述べたように僕はマリオ・バルガス=リョサについて調べだした。すると、1970年代から世界的に文学ムーヴメントを引き起こしたうちの一人で、他にも代表的な作家としてコロンビアのガルシア=マルケス、アルゼンチンのフリオ・コルタサル、(国を失念)ホセ・ドノソ、メキシコのカルロス・フエンテスや、カルペンティエル、そして何と言ってもボルヘスといった、西洋文学にも東洋文学にも収まらない「第三の、第四としての」世界文学があることを僕は知ったのである。ラテンアメリカ文学の土地は豊饒であった。大作家がたくさんいることもそうだし、これから知っていくように作品がいちいち面白かった。なぜラテンアメリカ文学はこんなにも面白いのか。それについて考えることは、世界文学の情勢を知ることでもあり、日本文学が更なる隆盛を魅せるためにはどうすればいいかをぼんやりとでも考えることであった。
バルガス・リョサの他作品としては、『フリアとシナリオライター』や自伝的大作『水を得た魚』、『密林の語り部』、『緑の家』など次々へと読んでいった。邦訳も多いのだ。ペルーのこの国民的作家は、しかしペルーという弱小国の政治の腐敗や激しい貧富の差といった社会的状況を折々に触れて書き伝えていた。戦後70年以上に及ぶ、およそまったりとした経済的安定を得た日本ではなかなか考えられないような状況である。
ガルシア=マルケスは『百年の孤独』が何といっても有名だが、僕は『迷宮の将軍』と『予告された殺人の記録』などを読んでいった。『迷宮の将軍』はラテンアメリカの自由の祖であるシモン・ボリバルが軍人として非常に魅力的に描かれ、その晩年の暮らしといったものを密林地域での船上の暮らしといった風景の元に鮮やかに描いた傑作である。マルケスの人物描写は異様にカッコいいところがある。バルガス・リョサは多筆で多くの観点から人物や風景の描写を行う感じだが、マルケスは必要最小限の感情を抑制した書きぶりがかえって読者に熱い想像力を滾らせるといった書き手であった。
他にも、カルペンティエルやコルタサルの短編を読んで僕はすっかりラテンアメリカ文学に染まってしまった。そして、フエンテスの『テラ・ノストラ』に出会うことになる。 しかし、『テラ・ノストラ』はこのエッセイの締めくくりとしてその著者フエンテスに登場願おう。世の中に傑作は埋もれるほどあるのだから。
▲大江健三郎との出会い
バルガス・リョサの『世界終末戦争』を契機として、僕はラテンアメリカ文学を並行して読むようになった。その時、かつての(事実上はTフィルは活動休止だったが、誰の目にとってもそれは終わったにも等しい事実があった)部長であるIさんとの個人的な親交がどんどん深まっていった。Iさんは本当に博識で、面白い本を情熱的に語ることに長けていて、Iさんとの電話でのやり取りが毎回楽しかった。
そのIさんは特に戦後の(第二次世界大戦後の、ということである)日本文学をとりわけ愛好していた。そこで僕は、椎名麟三や三木卓、小川国夫や武田泰淳といった名前を知ることになる。
しかし、戦後の日本文学、戦後文学は何と儚く、そしてなんと豊饒なことであろう。人々はたいてい、戦後文学の存在すらを忘れている。いつものようにTwitterをやっていたときに、ある文学愛好者のアンケートが回ってきたことがある。次の4択のうち、あなたが好きなのはどれ? というものだった。
1、近代以前の文学(平安文学や万葉集など)
2、明治文学、大正文学
3、戦後文学
4、現代文学
僕は残念ながらその頃は戦後文学に名を連ねている開高健だとか中上健次を名前でしか知らなかったので、残念ながら敬愛している作家の多い、村上春樹や川上未映子や江国香織や平野啓一郎の属する「4」に回答した。結果も、「4」の現代文学が50%を超えていたと思う。それから順に、明治・大正文学が2番目にきて、3番目は近代以前の万葉集とか源氏物語とかの古典、そしてこともあろうに戦後日本文学は最下位で、投票率が6%だった。 6%!! 回答は1000人以上の人が参加していたような気がするが、そのうち半分の500人が東野圭吾や伊坂幸太郎、あるいは恩田陸などを読んでいても、三木卓や辻邦生を読んでいる人は60人しかいないのだ。
Iさんの嘆きはもっと僕の中で哀愁のようなものに変わった。おそらく戦後文学は読み継がれていくのに現在失敗しているのである。これだけ豊饒な文学作品があり、盛り上がりもあったのに、平成も続けて読まれた作家はごく僅かしかいない。
たとえその時大ヒットしたり、傑作だ!と言われるような作品を書いても、50年後にはほとんどの人に読まれず中古古本屋でさまよっている、それが悲しくも素晴らしき日本戦後文学の実態なのである。
少し話が長くなるが、僕は戦後文学をIさんの助けを借りながら少しずつ読んでいく内に、次第に「僕の中での戦後日本文学の四天王像」が形成された。それは、
大江健三郎―三島由紀夫―安部公房―中上健次
の4人のスターである。三島由紀夫について現牛はいらないだろう。僕は高校生のときに安部公房の『壁』を読んであまりの衝撃に翌日熱を出したのだが(笑)、安部公房がいかに天才的で多彩的な人であったかを改めて知るきっかけにもなった。中上健次も次第に言及するかもしれない。
この4人の星雲に、僕個人としては川端康成と太宰治を加えた6人星団を造ってもいいと妄想している。もっとも川端は戦前から活躍して一躍有名になっているが。
さて、大江健三郎の登場である。