第一部 Tフィル文芸団(3)
話は蛇行する――。夏。熱帯夜。
2014年夏、それはブラジルでサッカーのワールドカップが行われた年だった。開催国ブラジルの若くしてエースのネイマール選手が大々的にとりあげられていた。もちろんアルゼンチンのメッシ、ポルトガルのクリスティアーノ・ロナウド、前回王者のスペイン、ドイツ、そして日本代表、まさに世界各国で各地域の予選を勝ち上がった24チームが激しい試合を繰り広げる暑い夏がはじまった。ブラジルは日本とちょうど真反対に位置するので、日本時間で試合は深夜1時~3時、3時半~5時半、そして6時~8時といった風に行われていた。
半ばTフィルから脱退したことでやさぐれていた僕は仕事もやめていて、この期間は徹底的にワールドカップを楽しもうと思った。たぶん1試合も見逃さなかったと思う。さすがにリアルタイムで見続けることはしんどいところもあったが、基本的には実家の両親や妹が寝静まった後で僕は冷めやらないどころか点が決まるたびにますます上昇する興奮を隠しきれずに一人で小さく雄たけびをあげていた(毎朝親父から叱られた)。
ある一つのことを集中的に見たり考えたりすると、人はかけがえのない一つの経験を得ることができる。まず僕がサッカー観戦をずっとしていて、それまでできなかったことが二つできるようになった。一つは口ぶえだ。本当に幼少のころから上手く口ぶえを吹ける人を羨ましく思っていた僕だが、いまだに前回大会のブブゼラなどを使って熱い声援を送っている各国のサポーターたちの生気に感染されるようにして、僕は自然と口ぶえが上達した。まぁ、こんなことは大したことではない。
もう一つは、スポーツを「視る」力がその時だけかもしれないけど備わったことだ。サカーはとりあえず見る。視る。そのことによって、全体の状況が素人ながらに掴める瞬間がしばしばやってくるのだ。あ、ここで多分ピルロはパス出すな、そう、バロテッリが前に出て、ゴール! ほんの数秒だけど予見することも思ったより論理的にできるものだと思った。全ては「よく視る、感じる」ことなのだ。
とまぁ神秘的な話をしたついでに、僕はこのとき、スペインサッカーの大敗と、南アメリカ強豪のサッカーの真の強さを思い知った大会でもあったのである。
スペインは初戦強豪のオランダとあたった。スペインは前回大会で初優勝しており、さらに2008,2012年のEUROでも優勝連覇。破竹の勢いを支えていたのは、スペインの完璧に構築されたバルセロナのようなパスサッカー、組織的でかつ芸術的でもある攻撃と守備だった。
事前に優勝予想をスペインにあげていた人も少なくなかったはずだ。しかし、スペインにとって2014年の初戦、まさかのオランダ相手に1-5で大敗を喫してしまう。 きっかけは1-0で前半をリードしていたにもかかわらず、オランダの英雄ファンペルシーがスーパーマンのようなありえないヘディングシュートを決めてからだった。屈指の運び屋&点取り屋のロッベンも調子が最高潮で、後半はあのKPカシージャスからあれよあれよと4点もとってしまった。
スペインはさらに予選敗退という残念な結果に終わってしまった。なぜ盤石体制だったスペインがうまくいかなかったかはもちろんこの初戦のオランダ戦もあるのだろうけど、称賛されすぎたスペインパスサッカーの美―芸術性は、剥き出しのスポーツと相いれない部分がどこかに影を潜めていて、結局それを隠しきれずに噴出してしまったのではないか。夜の興奮した頭で僕はそんなことを考えていた。
2014年のワールドカップは、何といっても南アメリカ勢の台頭だったと思う。
大会の注目株になったのはコロンビアのエース、ハメス・ロドリゲスだ。予選で日本代表相手に2点取り、その天才性を世界中に知らしめた。この年はどのラテンアメリカ国も強かった。エクアドル、ウルグアイ、ブラジル、そしてアルゼンチン。
ネイマール負傷でむかえた準決勝、ブラジル対ドイツの無残な結末は悲しいものがある。何度も言うが開催国はブラジル。ラテンの血が流れているのだ。荒々しく、人は勝利を泥臭く求め、応援は過激になる。毎試合毎試合が信じられないくらいのテンションだったし、謙虚で冷静さも重視する日本人サッカー選手たちはこの大会の尋常じゃないまでの熱量にそもそも怯えてしまったのではないかと個人的には思っている。
ちなみに、ラテンアメリカの多くはスペイン語が話されている(ブラジルはポルトガル語だ)。 スペインはラテンアメリカの征服者(父)でもあり文化を広めた母でもあるのだ。僕はこのスペインという国――といってもそれは代表されたスペイン人選手たちやサポーターを見て、のことだが――とラテンアメリカ諸国の血の滾るような戦いぶりを見て、スポーツとはこういうものか、生きるか死ぬかなのだ、ここまで賭けてなおも欲する生きるに値する栄冠があるのだ、と感動した。
ちなみに僕は日本代表とフランス代表を応援していた(3番目には大好きなファンペルシーのいるオランダを応援していた)。 日本代表は無残なままの予選敗退、フランス代表は準々決勝でドイツに0-1で惜敗し、オランダは3位になった。
この年の優勝国はドイツ。クローゼは泣いていた。メッシ率いるアルゼンチンは準優勝に終わった。
談。
6月から決勝戦がある7月中旬にかけて、僕は毎晩毎晩サッカーを見て、昼は寝て、仕事もせず、自由に過ごした。しかし僕は、明らかに感動し続けるサッカーから力を貰っていた。あの時感じたこと、思索が辿り着いたことは思い出すことはなかなか難しいが、たとえば僕は、自分という人間をもう一度信じてみようという気になったものだ。
それでも、もう一つエピソードを披露しておくと、日本代表が負けた日の朝なんかはもう、めちゃくちゃだったような気がする。世の中が。普段よりも多く救急車やパトカーが駆動され、不穏な空気が漂う。国会では、ワールドカップの盛り上がりにかこつけて特定秘密保護法案を強行採決するという実に野蛮な事件が起こったりもしていた。
僕もなぜか、おそらく気持ちが完全に心あらずだったのだろう、自転車で移動しているときにサイフを落としてしまって、止まない不安と共に警察署まで駆けつけた。無事にサイフは届けられていたが、帰りもなんだか余計に車両の多さと乱雑さが気になり、僕は精神的にも身体的にもボロボロになり果てて、なんとか家にころがりこんだのだった……。
秋になると、僕はTフィル部長のIさん(としていたが、アルパカさんと呼ぶことにする)と個人的にコンタクトをとりはじめた。アルパカさんは反文学の連中ではない。僕がTフィル文芸団に積極的に関わっていた春と夏(反文学の連中との意気投合と離反)のあいだ、アルパカさんはどうも仕事が忙しすぎてなかなか創作活動にうちこめなかったらしい。それでも会議で何回か声は聴いていた。とても暖かくて優しさのある人だけが出せる声だった。
僕は、Tフィル文芸団にもう一度戻りたい、僕がこの先書き手として伸びてやっていくためにはあそこしかない! という気持ちを相談してもらおうと思ったのだ。素直に僕はアルパカさんにそのことを伝えた。
「……mistyさんは誠実で熱い方なんですね。きっと大丈夫ですよ。また、楽しくやりましょう」
そういって僕は徐々にTフィル文芸団に戻る道をこじあけたのだった。
といっても、季刊誌の秋号は既に組まれていた。秋号からいきなり執筆陣として戻ることはやめたほうがよさそうだった。一つ間をあけて、詫びを入れなければならない人には一人一人詫びを入れて、また先に認めてもらおうと思った。
僕と同学年の女性のヒルは、そんな僕の復帰を見て、あるときチャットでこう励ましてくれたことがある。「それだけミスティさんが誠意を見せるんだから、もう戻ってきても大丈夫だよ。戻ってきなよ」
これらの暖かい言葉に包まれて、僕はもう一度だけTフィル文芸団で自己研鑽を積んでいこうと決意したのだった。メンバーにこれ以上迷惑をかけないことを自戒としつつ。
これも余談だが、ちなみに秋号の特集の発案者はあのナイト(僕の犬猿の仲、ナチスや右翼思想につながりそうなドイツ愛好者の騎士だ)だった。ナイトも日頃から素行の点などで(詳しくは書かない)あまり信用を得られていなかったにもかかわらず主幹になれていたのはびっくりした。しかしそれとは対照的に、集まっている作品数は秋風のようにさみしくもあった。相変わらず全ての号に出し続けている素晴らしい人もいた。ようやく、メンバー一人一人との交流を通して、僕はTフィルでの自分がなすべきポジションを形成していこうとしていた。
冬がきた。この冬は楽しかった思い出がある。Tフィル文芸団の最後の幸福。みんなで好きな作品の朗読をしたり、幽霊部員となっていたメンバーが何人も帰ってきて、個人的にもテンションがあがった。またこの場で作品を発表できるという喜びは何物にもかえがたいものがあった。
そして、冬号の発案者は、それまで文芸団の中心にいなかったメンバーが主幹となった。僕たちは新年が開けてからそのワクワクの特集テーマを聞く準備をしていた。
テーマは「百合文学」。だった。
Tフィルハーモニーオーケストラ文芸団が年末にいつになく盛り上がりを見せ、その勢いは年始になっても続いていた。楽しくなった僕たちは、「百合文学」といういささか変わった趣旨のテーマを発案者に出されても、上回る好奇心でこれを出迎えた。
百合は女性と女性の恋愛関係をえがくもので、マンガも多いが、小説にも出てくる。百合だと書きにくい人がいるかもしれないということで、反対の薔薇(男性同士のこと)もテーマに含めようという事になった。百合/薔薇。これは3年以上の歴史を持つTフィル文芸団にとっても、実に新鮮なトピックだったに違いない。
僕はそれまで森茉莉の世界くらいしか(文学上では)知らなかったが、とりあえずこの作家を期間中に読んで何か作品に昇華できるものがあればそうしよう、と思った。
しかし、たとえば反文学の連中は、比較的Tフィルの中心でないメンバー同士のこの盛り上がった状況に比べて、随分冷淡というより、おそらく危機のようなものを抱いていたのであろう。あの頃僕が一人で反文学の連中とつるむことはもうなくなっていたが、それでも反文学の連中もいっときのように楽しく集まることはほとんど無くなっていたらしい。
あるとき、急にヒルがTフィルの脱退を宣言した。彼女はその前に、2015年春号の「百合/薔薇」企画には参加できません、と深刻そうにつぶやいていた。
ヒルがTフィルの脱退を宣言した後、咳を切ったようにして、やがてヤケドとバイソンも脱退を宣言した。これは驚くべきことだった。バイソンは普段は人柄も良く、文学に精髄していて、Tフィルの中でも重要な存在だった。こんなに脱退者が出るのはもちろん初めての事だった。
明らかに崩壊の音がweb上に響き渡っていた。
Tフィル季刊誌「2015年冬号」にまつわる悲劇は、ヒル、ヤケド、バイソンといったTフィル文芸団の中心メンバーが相次いで離脱を表明したことによって一層確実なものとなった。
しかしこの話を進行する前にせめてもう一人、登場人物を召喚しなければならない。エメラルド(女性)という、この冬号から入ってきた新参者だ。エメラルドは、実によく読書をし、音楽にも詳しい、ピアノかサックスを演奏できるという芸術家肌の人だった。
エメラルドは少し人を惑わすようなミステリさがあった。それが、当時になってもちゃらんぽらんとした僕の性格と合わなかったり、ますます過激な反応を引き起こすようになったから、集団というものはあらためて難しいし罪深いとさえ思う。
とにかく、エメラルドのような多彩な人が入っていよいよ季刊誌も新しい取り組みに……!というところでの、ヒルやバイソンの離脱の表明は混乱をもたらした。一番心を痛めていたのはほかでもない、Tフィルハーモニーオーケストラ文芸団の創設者であるIさんだった。Iはここで信じられない、というかそれしかやりようがなかった案を提出する。
「Tフィルの解散案について」
僕やエメラルド、他にもまだ残っている人がたくさん集まったスカイプチャットで、Iさんはおもむろにこんなびっくりするような議題を真剣に持ち出してきた。ここにも終わりの時がくるのか…… 僕は、残ったメンバーでまたやれることがあるはずだ、と思っていた。でも、その時は僕ももう集団の人間関係のがんじがらめさが最高度にほつれていて、そのことを口にするとエメラルドが激怒しだした! 「あなた、もうここ辞めるって言ったじゃない! そんな人が私たちの気持ちをどれだけ分かる?! ひっかきまわさないでよ!」 そして僕はスカイプのチャットから追い出された。やはりIさんの提案でも混乱が起きたようだった。そう、Tフィルはここにきて一気に瓦解したのだ。Iさんがはじめて3年以上経ったのだった。Tフィルハーモニーオーケストラ文芸団は、この「2015年冬号」の発表で終わっている。今もHPはその時のままだ。動いていない時間。表紙。あれだけ、文学のほとんどすべてのようなものをくれたTフィルは終わった。
つづく