サンフランシスコ陥落
サンフランシスコ陥落。アメリカ合衆国の都市が占領されるのは、200年以上前の独立戦争以来の出来事であった。サンフランシスコには続々と大日本帝国とその同盟国の陸軍が上陸を続けた。そして3日後の2002年9月14日には135個師団、280万人がアメリカ合衆国に上陸した。その光景は想像を絶するものであった。歴史上これだけの規模の他国軍がアメリカ合衆国に犇めいた事は無かった。
『私は硫黄島沖海戦でのイージス原子力空母大和への乗艦以後、国防省に正式に取材の許可を頂いた。こんなただの作家にマスコミと同等の取材許可が出たのだ。しかも驚く事に機密に抵触する事以外は、何でも自由に執筆活動に活かせる事まで許可頂いた。その為に私はアメリカ合衆国本土上陸作戦が行われるとの情報を聞くと、断られるのを覚悟で同行取材を申し出た。無理だろうと思っていた私に国防省は、同行取材を許可すると連絡して来た。驚くべき連絡であった。しかも同行取材は上陸部隊の総司令官を務める、大日本帝国陸軍東部方面軍司令官の同行取材であった。東部方面軍司令官はアメリカ合衆国に上陸する大日本帝国陸軍15個師団の総司令官だけでなく、亜細亜条約機構加盟国で陸軍を派遣したその各部隊も指揮下に置く総指揮官でもあった。国防省で顔合わせした総指揮官は、意外にも気さくな人物であった。次期総軍総司令官とも言われる人物である為に、堅物かと思われたがそうでも無かった。出合い頭から冗談を言い、私が執筆した本についても内容に質問してくれる等優しく接してくれた。そのおかげで私の緊張は緩んだ。イージス原子力空母大和の艦長とその空母機動部隊司令官も気さくな人物だった為に、大日本帝国軍の将官や士官は良い人ばかりであった。
そして迎えた歴史的なアメリカ合衆国上陸作戦当日。圧倒的な攻撃に守備隊を圧倒し、浜辺を制圧するとまずは海兵隊の上陸作戦が始まった。空には無数の艦載機と空軍機が飛び回り航空優勢を確固たるものにしていた。海兵隊が浜辺一帯を制圧すると、車輌貨物輸送艦や車輌運搬船・カーフェリーはランプウェイを延ばして直接揚陸を開始した。驚く私に総指揮官は説明してくれた。「本来直接ランプウェイを延ばして揚陸するのは、作戦上危険が大き過ぎるのでご法度です。第二次世界大戦時に連合軍が戦車揚陸艦を浜辺に直接乗り上げて揚陸させていましたが、船自体を破壊されては元も子もないとしてその後は取り止められました。その為に強襲揚陸艦大隅級やドック型揚陸艦根室級は、エアクッション型揚陸艇や機動揚陸艇を使って揚陸させます。車輌貨物輸送艦や車輌運搬船・カーフェリーのランプウェイは本来は港に対して使用する物です。ですが今回の作戦は異常ともいえる陸軍の投入に、悠長な事は出来ません。それにサンフランシスコ湾の各港は空挺師団が確保すると、他国の陸軍の揚陸に使用しますのでどちらにせよ使用出来ません。そこで我々が危険を承知で直接揚陸を行う事になったのです。まぁ大丈夫でしょう。その為に上空は海軍の艦載機と空軍機が大量にいますので。それに今や世界最強と呼んで良い、連合艦隊が展開しています。なに、成功しますよ。」
自信あふれる総指揮官の言葉に、私は心強く感じた。そして目の前では続々と陸軍が揚陸を果たしていた。私も総指揮官と一緒にアメリカ合衆国の大地を踏み締めたが、その感想は簡単なものであった。「パスポートを持たずに外国に来たな。」自分でも呆れるくらい単純な感想であった。これまで外国に行った事の無い私は、まさかの形で外国の地を歩く事になった。
上陸し前線司令部として簡易テントを設営し、そこで次の計画を話し合っていた所へ、ロシア連邦陸軍の総司令官がやって来た。ロシア連邦陸軍総司令官は上陸した港からMi-28で、総指揮官に会いに来たのである。驚く総指揮官にロシア連邦陸軍総司令官は涙を流しながら話し出した。「冷戦時旧ソ連時代からの悲願が達成された。大日本帝国という偉大な同盟国のお蔭で。今この瞬間私とロシア連邦陸軍はアメリカ合衆国に上陸作戦を行う事が出来た。大日本帝国にしても嘗てのリベンジマッチという訳だが、我がロシア連邦は全力を挙げて支援する事を約束する。総指揮官は遠慮なく我がロシア連邦陸軍に命令して頂きたい。」
非常に有り難い言葉であった。総指揮官も感謝の言葉を述べると、ロシア連邦陸軍総司令官に握手を求め、それに快く応じた為に2人は固い握手を交わした。一部始終を見ていた私は心強い同盟国の存在に感謝した。だがそんな中でも私は一抹の不安を抱えていた。長い戦いが、まだ始まったばかりだと。』
広瀬由梨絵著
『新世紀日米戦争』より一部抜粋