日米開戦
遂に開戦です。
2002年8月8日、遂に大日本帝国とアメリカ合衆国は開戦した。大日本帝国海軍連合艦隊空母機動部隊は硫黄島沖合に、アメリカ合衆国海軍空母戦闘群はウェーク島沖合にそれぞれ展開していた。連合艦隊空母機動部隊は政府方針により、アメリカ合衆国海軍から攻撃を受ける事になったのだが、当の本人達は至って冷静であった。当初は若手兵士を中心にパニックになりかけたが、湾岸戦争を経験している中堅以上の兵士達が冷静に説明を行った。これにより若手達は冷静さを取り戻し、落ち着いて任務に就いていた。連合艦隊空母機動部隊は硫黄島南東の沖合に展開していた。約2700キロ離れたウェーク島にアメリカ合衆国海軍空母戦闘群が展開しているのは判明しており、そこからの攻撃をどう防ぐかに今後の作戦展開がかかっていた。
一方で対峙する事になったアメリカ合衆国海軍空母戦闘群は悩んでいた。本国からは既に48時間の猶予が切れたので、攻撃を開始するように命令が届いていた。しかし今回攻撃を行うのは、今までのような敵では無いのである。相手は大日本帝国海軍連合艦隊空母機動部隊なのだ。湾岸戦争で見せ付けられた空母機動部隊の打撃力に、アメリカ合衆国海軍は衝撃を受けていた。アメリカ合衆国海軍主催の環太平洋合同演習に於いて、空母戦闘群は遂に連合艦隊空母機動部隊に勝てる事は出来なかった。これまでは心強い味方であったが無用な政治により、恐るべき敵に変わってしまったのである。しかし命令は命令であり、軍人である以上はそれを拒む訳にはいかない。空母戦闘群自体はウェーク島北西沖から前進を続けており、既に艦載機の攻撃半径に連合艦隊空母機動部隊を捉えていた。これを受けて原子力空母ジョージ・ワシントンに座乗する最先任司令官は、全空母戦闘群に対して攻撃開始を命令した。
『私はそれまでの海軍に対する功績により、イージス原子力空母大和に乗艦する事が出来ていた。自分自身の興味から海軍に関する書籍を執筆し、それなりに売れた作家であるだけの私には畏れ多い招待なのは事実であった。しかし私はその要請を受けた時には、正直に言うと正気の沙汰とは思えなかった。日米戦争の初戦に於ける大海戦。大東亜戦争以後の歴史でも世界の海軍が忘れかけた、空母同士の戦いである。今までの敵国への空爆とは訳が違うのだ。湾岸戦争でもテレビクルーが乗艦しカタパルト発進の場面が生放送されたが、あの時は攻撃開始早々に巡航ミサイルにより空軍基地等が破壊され航空優勢は確保されていた。しかし今回は違っていた。アメリカ合衆国海軍空母戦闘群は準備万端整えて、連合艦隊空母機動部隊に攻撃を仕掛けてくるのだ。政府方針によりアメリカ合衆国海軍に先に攻撃させる事になっていた。そんな先制攻撃を受けるのが確定している艦隊に、テレビクルーのみならず私まで招待されたのだ。驚くべき方針だが、イージス原子力空母大和の乗組員は全員が冷静であった。連合艦隊の艦隊防空能力の高さは私もよく知っていたが、当の本人達はやはり自信を持っていたのが理解出来た。
攻撃が近いとの事で私は、食堂で気持ちを落ち着ける為にコーヒーを飲んでいた。イージス原子力空母大和は約5800名の乗組員がいる。その乗組員が食事をする食堂は巨大なものであった。3食の食事のみならず、軽食なら24時間いつでも食べる事が出来た。その為に私もコーヒーを飲みながら、一息つく事が出来たのである。すると1人の士官が慌てて私を呼びに来た。その士官は私を統合空母戦闘指揮所に案内すると言い出した。驚くべき招待であった。空母機動部隊の旗艦を務める空母に必ず設置されているのが、統合空母戦闘指揮所である。地上にある連合艦隊司令部と国防省地下にある国家軍事指揮センターに直結され、空母機動部隊の頭脳中枢といえる場所に招待されたのだ。戸惑う私を連れて、士官は統合空母戦闘指揮所へ案内した。統合空母戦闘指揮所に連れて行かれた私は、司令官と艦長直々に出迎えられた。更に驚く私に司令官は笑みを浮かべながら話しかけてきた。「硫黄島から飛び立ち警戒を続けていた空軍の早期警戒管制機が、大挙押し寄せてくる空母艦載機を捕捉しました。テレビクルーの皆さんは飛行甲板から生放送を開始しますので、広瀬さんはここで一連の戦闘をご覧下さい。今後の執筆活動の役に立てれば嬉しいです。あぁ、ご心配無く。アメリカ海軍の攻撃なんか、全て迎撃しますよ。今回の出撃では巡洋艦と駆逐艦は、VLSから87式対潜ミサイルを取り出して、85式対空ミサイルを装填しています。とにかく対空ミサイルを装填して迎撃に全力を上げた訳ですね。面白いものが見れますよ。」その言葉に私は期待してますよ、と答えると戦闘開始を待つことにした。』
広瀬由梨絵著
『新世紀日米戦争』より一部抜粋