開戦前夜
連合艦隊各艦の武装を編集しました。更に重武装になってます。
大泉総理の記者会見で、世界各国は大日本帝国の覚悟を受け止めた。大日本帝国はアメリカ合衆国と戦争をする。この覚悟は並々ならぬものであった。
第二次世界大戦で敗戦した大日本帝国の意思は常に、『二度と敗戦しない為に』であった。その為に国防費は最優先で確保された。敗戦後の再軍備ではまだ国土も荒廃していた為にアメリカ合衆国から援助を受けていたが、復興が進み経済が発展して『高度経済成長』と呼ばれる大躍進を遂げると、それに比例して軍事費も増額されていた。1956年には早くも経済白書で『もはや戦後では無い』と記載され、1965年には西ドイツを抜きGDPが世界第2位となった。その後の1972年に『今太閤』と呼ばれた人物が、大日本帝国総理大臣となった事により、大日本帝国は飛躍的な発展を遂げる事になった。『日本列島改造論』を発表し大日本帝国の経済力を高める事を、公約として総理大臣に就任した。今太閤はある種の強権的な総理大臣であったが、『コンピューター付ブルドーザー』と呼ばれるだけの事はあり機転を利かして素早く強引に政策を進めた。列島改造論で開発の候補地に挙げられた地域はI3を始めとする、大日本帝国の情報機関が徹底的に情報を秘匿。投機家によって土地の買い占めが行われ、不動産ブームが起き地価が急激に上昇するのを防ぐ為に、全ては極秘に行われた。開発候補地の買収は土地地権者と極秘に直接やり取りが行われ、『金に糸目をつけるな』と今太閤の方針に高額で買収していった。この方針により物価が上昇してインフレーションが発生し、物価高が社会問題化するのを防いだ。日本列島改造論は無事に成し遂げられ、高速道路や新幹線は多数整備され、工業地帯も新しく造設された。都市部の過密と地方の過疎は解消され、日本列島改造論は第二次所得倍増計画とも言われた。長期政権を担った今太閤の後を総理大臣に就任したのが、元海軍軍人であり『青年将校』とあだ名された保守派の人物であった。1982年に就任してからは前内閣で制定された『第4次国防力整備計画』を力強く推進し、国防費の大幅な増額を行った。経済政策では内需主導型の経済成長を更に促すため公共投資拡大などの積極財政をとり、また一方で日銀は段階的に公定歩合を引き下げ(最終的には2.5%)、長期的に金融緩和を続けた。この結果、長期景気拡大をもたらした一方で、株式・土地などへの投機を許し経済のバブル的発展を引き起こした。そして遂に1988年に国防費がソビエト連邦を上回り、世界2位を記録。圧倒的な経済成長を背景に、大日本帝国は膨大な国防費を投じて、世界第2位の軍事力を保有するに至った。アフガニスタンで泥沼に陥っていたソビエト連邦の凋落は著しく、大日本帝国の勢いは留まる事が無かった。
しかしボタンの掛け違いからか、日米は対立を強め開戦前夜の状態に陥っていた。大泉総理が記者会見で核兵器は使用しないと明言した為に、アメリカ合衆国強硬派大統領も核兵器を使用しないと記者会見を開き明言した。
これにより核戦争は避けられたが、『核戦争』が避けられただけであった。日米戦争はもはや既定路線となり、後はどう始まるかとなっていた。大日本帝国への武力行使に賛成した、イギリス・オーストラリア・ポーランドも艦隊を派遣しており、アメリカ合衆国海軍空母戦闘群は西進を続けていた。西進を続ける艦隊は、冷静さを保つのに必死な状態であった。相手は大日本帝国海軍連合艦隊空母機動部隊である。湾岸戦争で見た空母航空団の命中率の高さと破壊力は、アメリカ合衆国海軍空母戦闘群を遥かに上回っていた。艦隊自体の打撃力の強さも、ずば抜けていた。アメリカ合衆国海軍でさえその体たらくなのだ、イギリス・オーストラリア・ポーランドの各国海軍は足元にも及ばない状態であった。
武力行使を決めたアメリカ合衆国だが、攻撃は空母同士の戦いから始まる事になった。世界各国は西太平洋で行われようとしている世紀の大海戦に、報道は異常ともいえる盛り上がりをみせていた。それは日米両国も変わりなく、全てのチャンネルは報道特別番組を生放送で行っていた。日米各空母にはそれぞれ自国のテレビクルーが乗り込んでおり、空母から臨場感ある生放送が行われていた。空母の対峙にばかり世界の耳目は集まっていたが、大日本帝国海軍がグアム島へ派遣した『水陸両用部隊』は気付かれる事無く目的地に近付いていた。
アメリカ合衆国強硬派大統領が提示した48時間の猶予は既に24時間を切っており、日米開戦はカウントダウンに入っていた。