迷子の気持ちを
血の臭いがする。
今日も、血の臭いがする。
「なんだ、まだ起きてたのか」
玄関まで僕が出迎えると、まるで生気の無い表情を一変させ隼人さんはそういった。ついでに家に漂う香ばしい匂いに気づくと「もう1時を回っているのに、俺に合わせて夕食を作っていたらお前の体にさわるだろう」と仕方なそうに続けた。仕方なそうに、というのはコレが一回目ではないからだ。
「たまには、一緒に食べたいじゃん」
こう言うのも一回目ではない。
家の中に入って行くと台所には足台が置いてある。まだ体の小さい僕にはこれが無いと料理ができなかった。もっとも料理自体も簡単なものであったが。
「用意しておくから、シャワー浴びてきなよ」
「あ、あぁ……そうしよう」
僕の言葉に安堵のような表情を浮かべたのは、きっと自分の体に血が付着していないかを確認することができるからだ。隼人さんは帰ってくる前に一度シャワーを浴びている、いつも帰宅した時の服装が綺麗すぎるのと、ほんのり家にあるのと同じシャンプーの香りがするから間違いない。テーブルに簡単な夕食を並べているあいだに隼人さんが部屋着の格好で現れた。やはりもう一度体を洗ったらしい。
それでもする、血の臭いがするんだ。
「美味しそうな夕食だ。しかし巡、無理して作ることはないんだぞ、家事をする歳でもないんだ」
「好きでやってるからいいの、ほら食べようよ」
大人用の椅子に腰を沈める僕はおかずを取るたびに立ち上がらないといけなくて、それに気づいた隼人さんが僕のお皿によそってくれるのが好きだった。家で一緒になるのはほとんど夕食時だけで、しかも僕が夜更かししていないとそれは叶わない。だからたまにしかできない、僕は重いまぶたをこすろうとして我慢した。隼人さんは美味しそうに僕の作った夕飯を食べてくれている。
僕は隼人さんの仕事について尋ねることは一度もしなかった。
何時に帰ってくるのかという質問も一度も投げかけたことはない。
気にならないのではなくて、僕はすでに知っていたんだ。というより、わからないという方がおかしいのかもしれない。だって僕は、その仕事をこの目で見たのだから。
血の臭いがする。
今日は何人殺したのだろう。
僕の住んでいたところは、100人はいなかったと思うけど。
今日の血の臭いは一段と濃いから、きっとそれ以上なんだろうな。
最初はそこまでわからなかったけど、毎日血の臭いを嗅いでいたらなんとなくわかるようになった、隼人さんの体に一体何人分の返り血が付いているのかが。
「ふぅ、ごちそうさま。今日も美味しかったよ」
優しい顔で言ってくれる隼人さん。
「うん、ありがと」
この顔が、本当の隼人さんの顔だと気づくのには時間はかからなかった。いや、目の前で妹を殺され、両親を殺され、周りの人を全て殺され、僕だけが生かされたあの日。あの時の優しい表情も本物だった。"僕を助けたつもり"の隼人さんは、僕を殺す理由が、誰か一人の命を奪う理由が消失したことに酷く幸せを感じていた。その心情を僕は直感的に汲み取っていた。この人はもう、ほとんど自分を生かしていない。きっと僕が玄関で顔を出さなければ、あるいは隠れていればその様子をもっと見ることができるのだろう。どうしてこのような事をしているのか僕には検討もつかないし、とても恐ろしいことだって思っている。けれど僕だけが隼人さんの本当の顔を知っていて、僕が顔を見せなきゃきっと隼人さんは消滅してしまう。僕はそれを阻止しなきゃいけない。
……僕は当然この人のことを恨んでいるはずなのにその気持はとっくに僕の中で迷子になっていた。ふくざつで、もやもやしてて、でも何をしたいかははっきりしてるこの気持ちの正体にはまだ迫れてないけれど、隼人さんを消滅させたくない気持ちは本物で本当だから、今はこれでいいんだと思う。もっと僕が大きくなったら、きっとわかってくることがあるはずだから。
「おやすみ、巡」
「うん、おやすみなさい」
いつかちゃんと、この人を救えればいいなって。