スチール・イーター 3
「え……どうして」
買い物袋を右手に、学生鞄を左肩にかけている巡を宮前がただ驚いて見ていた。商店街の入り口を背にして右に歩いて行った宮前は確かに商店街の途中で左折する巡と同じ方角に歩いていたが、商店街以外からこの路地に入るには遠回りになる。現に買い物をしてからの巡と鉢合わせているし、どうしてそんな遠回りを……と巡は考えたがすぐにやめた、というより考える必要がなかった。下校の段階から彼女の行動が一連のものであったからだ。どうやら宮前は徹底して人混みを避けている。
「もしかして、ご近所さん?」
「そう、みたいですね……」
あははと驚きが混じった笑顔を見せる宮前、また同じ道を歩いたが巡はもう目に入っていたマンションの前にたどり着くと「俺ここだから」と言って今度こそ宮前に別れを告げた。しかしどうにもご近所さんはそれでとどまらないらしく、
「……私も、ここなんですが」と一言。
二度目の別れ保留はどこでなくなるのかとお互いが考えてエレベータに乗ると、果たして点滅したボタンは1つだけ。もはや反応に困った二人がエレベーターを降りると同じ方向へ歩き出し、ここまで来ると驚かないよといった様子で隣のドアノブに手をかけたが、やはり驚かないわけにはいかなかった。
「居留守してたのお前か……あ、いや」
共犯者でご近所さんな二人はお隣さんで、片方は加えて居留守さんとは。
「あ、あわわわわ…」
目を点にして錯乱する宮前。しかしなるほど、ここまでが一連なんだ。
「わわ悪意とかはなかったんです、あの、ほんとに……ごめんなさい……!」
「いやいいよ、逆に宮前さんでよかった、下手に怖い人だったりしたらやりにくいなって思ってたし」
「うぅ……」
謝り足りないといった様子でうなだれる宮前、何も嫌味であいさつを無視していたわけではなかっただけに収拾のつけ方がわからなくなっていた。でも隣部屋が巡であったことが少し気を楽にさせた。その相手がついさっき名前を教えあった仲だとしても、それは大きな"きっかけ"なのではないか。
「隣の、宮前綾です。よろしくお願いいたします」
気を取り直すようにして宮前がお辞儀をした。今日はよく頭を下げる日だ。
「うん、よろしくね宮前さん。せっかくお隣さんなんだし、明日は一緒に登校しようか」
「えっ……」
「嫌かな?」
「わわっ。私でよければぜひ」
誰かと登下校、随分と久しぶりな気がした。今度こそ巡と別れた宮前は自室に上がると鞄を床に置いた。巡の家も同じ形をしているだろうシンプルなワンルームマンションだ。宮前の部屋には必要最低限であるキッチン回りの家電や机、日用品くらいしか見当たらない。ここに越してくる際に家具はすべて整っていると教えられた、だから彼女が持ってきたものは衣類や少しの私物と、教材がほとんどを埋める本棚にあるアルバムくらいか。宮前はそれを手に取ると最後のページを開く。このアルバムは中学の卒業時に作られたもので、1ページから順に一年からの成長が記録されている。しかし最後のページだけはほかのページと紙の材質が異なり、中央に書かれた大きな文字を中心にいくつかの文章がそれぞれの書体で書かれていた。しきしというやつだ、中央には「浅日丘高校から応援を形に込めて」との言葉。これは宮前の転入が決まった高校一年生の時、中学からの友達が高校の卒業アルバムに一緒に乗れないとは嫌だと言って発案したしきしだった。アルバム自体は中学時代のものだが宮前やその友達にとってそれは重要なことではなく、宮前綾という人を大事に思う友人の連ねられた言葉だった。そしてちゃっかり余白には父の文字が書かれていた。「頑張れ、わが娘よ」たったそれだけの、父らしい応援。あぁ、私はいったい何をしているのだろう。宮前はゆっくりと床に座り込む。自分がなぜここに転入してきたのか、このアルバムをもらった時は涙までたほどのしきしと共に過ごしながら、いったい何をしているのだろう。弱気になっていた。私がこんな体たらくでは、皆に、父に合わせる顔がない。
【共存地域拡大計画】。人と手に入れる者がともに過ごせる区域である中央の共存区域を徐々に拡大していこうという動きが現在の東京には見られている。共存委員会が主となってここ数年間で何度かの拡大を成功させてきたが、その方法は手に入れる物の多く住む西に何人かの人が代表となって移住し、人と手に入れる者とのわだかまりを少しずつ解消していくというもので、東への拡大も同様に行われる、今回その代表者に手に入れる物である宮前が選ばれたわけだ。宮前の父である宮前浩仁は前年に共存委員会の幹部に任命され、間もなくして高校に入学したばかりの娘を東部に送らなくてはいけなくなった。宮前浩二は新学期のうちにそれを娘に告げた。
【未来のある信頼関係を築くため代表者は高校生以下の少年少女に限定する】
【代表者は一家につき一人のみとする。代表はいくつか選抜されるため、その一つ一つに同伴者がついてしまうと東部移住者の人数が多くなってしまい、人への過剰刺激になりかねない】
宮前自身父のことは好きだったし、共存委員会である彼を大いに応援していた。さらに言えば人や食す者への嫌悪も持ち合わせもいない。だからこそ代表者の一人として選ばれたのだ。けれど父のその言葉を聞いたとき、その時だけは父と父の所属を恨んだかもしれない。
「頑張らないと……いけないのに」
本当に恨んだのはあの時の一瞬だけで、家を出るときはむしろ前向きだった。たくさん友達を作って、絶対にこの計画を成功させて見せるねと言って笑顔で見送られた。本当にそのつもりだったしできると思っていた。そもそも自分の通っていた中学にも高校にも人は多くいたし、友達だっていた。むしろ東部で人と接触できない自分の姿が想像できなかった。
けど、こんなものだ。実際。
転校生の紹介では定番の、教室の外で担任に呼ばれるまで待機させられるというところまでは家を出た時と同じ気持ちだった。しかし、自分の名前が呼ばれたとき誰一人として自分を見るものはいなかった。私の自己紹介に耳を傾けてる人なんて誰もいなかった。隣の席と関係のない会話を交わしている人もいた。
何かが崩れるような気がした、父との約束も、友達のおかげで生まれた決意も、全て自分の中から消滅した。ここは東部、ここが東部。ここは自分のいるべき場所ではない、日をまたぐたびにその思いが呪いのように自分の中で刻まれていった。何日かおきに父から電話があり、楽しみな声音で「どうだ、友達はできたか?」と聞いてくる。もはや彼女はなぜ父がそんな無神経なことを聞いてくるのかが理解できなくなっていた。その電話が来るたびに彼女はつらくなり、やがて外出もしなくなった。学校にだけは通い、買い出しも商店街のような人の触れ合う場所ではなく、ただ機械的にレジで会計をするスーパーを探した。
忘れていた。あの時の決意を。だから父の言葉にもあんなことを思うようになった。このままじゃ、皆と会えない。
今日、初めてクラスの人に話をかけてもらった。
宮前はアルバムをそっと閉じもとの場所にもどした。
「よし」
両手で握りこぶしをつくってみせ、胸元でぎゅっと構えた。
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