スチール・イーター 1
小さな例えで言ってしまえば、買い物目的でスーパーに来てレジに並んでいたら、財布を忘れてしまったことに気づき、仕方がなく一度家に戻ろうと思ったときに偶然にも友人が同じスーパーを訪れていて、お金を借りることができ二度手間になることはなかったといったところか? もう少し大きな話で例えると学費の納期が迫っていて、あと少しがどうしても間に合わないというときに、私人に前から貸してたお金をタイミングよく返してくれたとでも言えばいいのか?……つまり何が言いたいかというと物事にはピンチになったとき何かしらの打開策があるか、それにつながるきっかけが何処かで起こっているということだ。この発展し続けた技術上に生きる人類も、その発展と引き換えに資源を消費し続けて全てを失いかけた。
しかしそこにも起こりえたのだ。人類だって最初は信じなかった未知の生命体が現れて、あろうことかそれらは人類へ恐ろしいほどの敵意を向けていたが、人類は枯れかけた資源を使い絶滅を免れようとその生命体と交戦――結果として残ったのが未知の生命体が消滅する際に発生した謎のエネルギー源だった。そう、この未知の生命体は敵意を持っていながら人類を絶望の淵から救い出す打開策でもあったのだ。
その記念すべき未知エネルギーとでも言う希望を知ったことにより人類は完全にその生命体と敵対することになる。人類はそれらを食われるモノと呼んだ。そう、肉だ。弱肉強食とでもいいたげなそのネーミングで希望にさらされた人々は面白おかしく食われるモノと闘った。食われるモノは強力なほど強いエネルギーを生む法則にあり人類はそのエネルギーを使いさらに新しい技術を生んだ。それは人の体に作用する能力付加。化学兵器の乱用がいつか人類の首を絞めるのは何度も証明されてきたことで、それと比較するとこの発明はもはや革命といってよかった。人々が手から、指から、宙から火を、水を、氷を、雷を、風を出現させるのだ。その力を持つことができる人間は限られたが、それらは食す者と呼ばれ食われるモノを次々に食らった。
食す者が生まれた頃と同時期に人々はまた一つ発見をした。それはもしかすると食われるモノへ対抗するための"本当の打開策"だったのかもしれない。街にいたとある少年が、指から火でも水でも氷でも雷でも風でも、何かを出現させることもなく、ボールを追いかけて道路に飛び出してきた子どもをふわりと触れることなく持ち上げ歩道へと押し戻したのが発見のきっかけとなった。
この少年がいなければ今頃子どもは道路の潰れたボールと同じ道を歩んでいただろう。そして子どもの命を救った少年は――命を落とすことになった。
それは何故か。
認めなかったのだ、人類が。この食す者を開発した人類の技術を体に施してもいない者が力を手にしていることに。食す者開発者は少年を奪う者と呼び食す者を使い尋問の末に殺した。そして世間にこう言いふらした。食す者に似た食われるモノを奪うものが現れた、奪う者が現れたと。食す者開発者一同は怖かったのかもしれない。ただでさえ食す者も一歩間違えれば恐ろしい存在だ。しかし自分の手の下でその能力を開花させ、いわば自分の管理下にあるような感覚であった為に優越感とともに安心感があった。だが食す者に似た奪う者は違う、あの少年は過酷な尋問で少しの情報を吐き出した。そう捉えたのは食す者開発者一同であって実際少年は何も答えることができなかった。知らなかったのだ、自分の力は生まれ持ってあったものであり、誰かにもらったものではないとしか。だからこの能力に関してはなにも答えられないと、どんな痛みを振りかざされてもそう答えるしかできずに少年は死んだ。そしてその結論になにより食す者開発者は恐れたのだ。第三勢力が人類を滅ぼすと。彼らは世間に向かってそう高らかにうたい奪う者の認識を徹底させた。人類の希望である食す者を生み出した彼らには国も絶大な支持をしていたし、彼らのその言葉に逆らう者は当然いなかった。食す者開発者は言った、何度も言った。触れぬ人型を殺せと。そう、奪う者と人は触れ合うことができなかった。原因はわからないが少年を尋問した者たちは例外なく彼に触れることができなかった。それは限定的で体の一部とされる、つまり肌や毛、目などに直接触れることはできないということで、それは手袋をするだけで簡単に解消される。物を通してなら何の問題もなく触れることができるということだ。肌に触れることはできなくても鈍器で殴れば少年は血を流し、食す者の雷を浴びせれば泡を吹いて死んだ。
触れぬ人型を殺せ。そんな言葉が差別として廃止されるのには10年もかかった。奪う者は食われるモノからの本当の打開策だと、そう言う人間が表に出てくるまでには多大な時間がかかってしまった。どこの人も食す者を信じ切ってしまい奪う者を見かけては片っ端から始末していった。そんな時代が幕を閉じようとし、一部の地域では奪う者と食す者は共存を始めている。食す者も奪う者の存在を認め始めていたということだ。だが全ての食す者ではない。自分の能力、存在に絶対的な自信と責任を持った食す者は決して奪う者を認めなかった。そしてそれは奪う者も同じであり自分たちの同胞が過去食す者にどんな仕打ちを受けていたのか知らないわけではない。そんな別種族の分離現象も共存の裏にありながらしっかりと目に見ることができた。差別思考の別種族は地域ごとで東西や南北で二分され、この東京では東に人と食す者西に奪う者、その中央に共存意識を持った者たちが住むという現状に落ち着いている。争いも随分と減った、目に見えていないだけかもしれないが少なくとも目に見える争いは食われるモノとの交戦だけになっている。触れられなくとも布きれ一枚でお互いを確かめ合える。本来打開策と言われた手に入れる物と、それを先取りして生まれた食す者、少なからずこの東京の中心では手を取りあっていけるはずなのだ。