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シンクロナイズド  作者: 響野旬悟
7/38

 次の日、通太はいつもより三十分早い、朝六時半に起床した。パジャマを脱ぎ棄て、左胸に校章が縫いつけられた夏服の白いシャツに袖を通し、制服の黒ズボンに足を素早く通した。最後の仕上げとして、彼がお守りとして肌身離さず持ち歩いている青い石を校章が縫い付けられている胸ポケットに入れると、自分の部屋を出て、大きい足音を立てながら一階へと下りてきた。通太の家の階段は、一番下まで下りるとすぐに玄関で、その玄関では今、通太の父親が出勤するため靴を履こうとしているところであった。傍らには、夫を見送る通太の母親の姿もあった。

「どうしたの、通太?」

 通太の母親は、夫に靴べらを渡しながら息子に尋ねた。

「朝ごはんを食べに来たんだよ。お父さん行ってらっしゃい」

 そういうと、通太は、駆け足でダイニングに向かっていった。

「どうしたんだあいつ? いつもより早くないか?」

「そうね、どうしたのかしら? 昨日からちょっと変なのよ」

「変? ……おっと、急がないと、電車に遅れる」

 通太の父親は、妻に靴べらをほり投げるように渡すと、勢いよく玄関から出て行った。

 夫を見送りダイニングに戻った通太の母親は驚いた。通太が自分で茶碗にごはんをつぎそれにふりかけをかけて食べている。こんなことをしている息子を見るのは初めてだった。

「どうしたの通太? 今日学校で何かあるの?」

 通太は、ゆっくり口を動かしながら

「何もないよ。今日一時間目体育だから早めに学校に行くんだよ」

 と言った。

「一時間目に体育があるにしても早すぎない?」

「いいんだよ」

 通太は、茶碗に残った白ごはんを一気に口へとかき込んだ。

「ハムエッグ、チンするわよ」

「いいよ、ごちそうさま」

 通太は洗面所にむかった。

 洗面所の鏡の前で口の中のごはんを全部飲み込んだ通太は、間髪入れず歯磨きをし始めた。

 口をゆすぎ、排水口付近に吐くと、無数のつぶれた白ごはんとふりかけの細かい粒が出てきた。

 通太は物凄い速さで学校に行く準備に取り掛かっていた。

 母親は、その様子を音だけで判断できた。

 廊下を小走りに走る音、階段を駆け上がる音、部屋のドアを閉める音、どれもが慌ただしく、通太の急いた気持ちを表しているようだった。

「いってきます!」

 母親は声に反応して玄関に向かった。

 しかしそこに通太の姿はなく、半開きになったドアの隙間からただ朝の光が鋭く入り込んでいるだけであった。

 自宅を出た通太は、走った。

 もちろん学校へ向かったのだが、彼が高校に入学してから一番早い登校時間であっただろう。

 通太としては、学校にいるつくえに一刻も早く、笹山露子のクラスが判明したことを伝えたかったのだ。

 この時間だと教室には誰もいないだろうし、今日の一時間目は体育で、ホームルームの時間もなくいきなり授業が始まる。いつも通太が登校する時間だと朝一つくえと喋れそうにないので早めに家を出たのだ。

 昨日の学校帰りといっしょで通太は走った。

 そのため、歩いて学校まで二十分かかるところを、今日は七、八分で到着した。

 通太が一年五組の教室に辿り着くと予想通り誰もおらず彼は悠々と椅子に座り、早速机に突っ伏した。

「きょうははやいな」

 つくえが、開口した。

「はぁはぁはぁ、はい」

 通太は息を切らしながら答えた。

「どうした?」

「走ってきたものですから」

 そう言うと通太は唾を飲み込んだ。

「はしってきた? なぜ?」

「つくえさんに急いで伝えたいことがあって」

「なんだ?」

「ささやまろこさんが何組かわかったんです」

「わかったのか?」

 つくえは声が上ずった。

「でも、なぜ?」

「昨日一波さんが電話で教えてくれたんです」

「いちなみが? きのうはあれだけおしえることをきょひしていたのにか」

「は、はい。どういう心変わりがあったかはわかりませんが、とにかく教えてくれたのです」

「そうか、それはよかった」

 つくえは喜びの声を上げたが、

「しかし、ただしいじょうほうなのか?」

 と一波綾乃の教えてくれた情報を怪しんだ。

「そ、それは……」

 と自信なさげな通太であったが、一瞬、間を置き、

「でも信じるしかありません」

 と凛とした声で答えた。

「そうだな」

 つくえも同意した。

「それでつくえさんに教えてもらいたいのです、ささやまろこさんの外見の特徴を」

「わかった」

 そう言うとつくえは笹山露子についての特徴を言い始めた。

「かみのけのいろは、まっくろ。しっこくといってもいいだろう。ながさは、かたにつくぐらい。しんちょうはよくわからないが、ひくくもなくたかくもなくといったところだ。ほそみで、はだのいろは、しろかった。あといんしょうてきだったのは、まつげがながかったということ」

「それだけですか?」

「うん」

 通太は心細くなった。つくえの教えてくれた情報では、漠然としか笹山露子のことがわからない。

 それに今つくえが言ったことは、全て変化している可能性がある要素ばかりで決定打に欠ける。頼りになる情報は、まつ毛が長いというものぐらいか。

「顔のどこかに特徴的なほくろがあったとか、そういう手掛かりはありませんか?」

「ほくろはない」

 言いきるつくえ。

「そうですか」

 通太は、虚ろな声を出した。

「まれかわつうた。おまえはどう、かのじょとせっしょくをはかるつもりなんだ?」

「はい。僕の思い描いている作戦は、昼休憩の時、六組に行って彼女と思われるべき人の目星をつけ、放課後に声をかけようと思っています」

「そんなことをしなくても、ろっくみにいって、ささやまろこは、どのひとですか、とだれかにしつもんすればいいではないか」

「はぁ、それはそうなんですが、そんなことをすれば教室にいる人たちに注目されます。

つくえさんはわからないと思いますが、三年生がいるエリアに行くこと自体すごく勇気がいることなんです。このことは、僕以外の人もそうだと思います」

「そんなものなのか?」

「はい。とにかくなるべく早く行動しようと思います」

「うまくいけばいいが……」

 つくえになるべく早く行動しますと言った通太だったが、三年生のエリアに行き、自分の立てた作戦を実行できるか、この時点ではまったくといっていいほど自信はなかった。

 ただ、通太自身も笹山露子に逢いたいという感情が強く、その想いが自分をその時が来れば押し上げ、動かしてくれる、行動させてくれるという、余裕ある心情にしてくれていた。

「だれかきた」

 つくえが、教室に入室してきた者を感じ取ったのか、通太に知らせた。

 それを聞いても通太は顔を上げるわけでもなく、

(そうですか、それじゃ僕、体育の準備があるので行きます)

 と、つくえとの会話も心で喋る方法に切り替え、席を立つと教室から出て行った。

 教室に入ってきたのは、菊池という女子で、大抵一番始めに、彼女がこの一年五組の教室に登校してくるのだが、今日は既に教室内に人がいて、しかもそれが、稀川通太だということで、彼女は二重で驚いていた。昨日から様子がおかしい稀川通太が朝一番に登校。

 菊池は、この出来事を自分の友達に報告しなければ、と使命感にも似た感情で自分の席で友達の登校を待った。

 それから、一時限目の体育の授業も終わり、二時限、三時限、四時限、と授業をこなした通太は、いよいよきた昼休み時間を緊張の面持ちで迎えた。

 彼はこの休み時間に、三年六組に行き、笹山露子を確認しようと思っている。

 一時限目の授業の体育が水泳だったということもあってか、通太は体にだるさを感じていたが、昼食をできるだけ素早く済まし、弁当箱をカバンにしまうと、

 ガタンっ

 と音をたて椅子から立ち上がった。

 しかしすぐに椅子に座りなおした。

 机に一言声をかけ忘れたことを思い出し、そうしたのだ。

(机さん、行ってきます)

「ささやまろこのところにか?」

(はい)

「たのんだ」

(はい)

 そうつくえに心の中で告げると、通太は静かに席を立ち、教室を出た。

 目指す三年生の教室があるフロアは、校舎の二階にあり、通太が属する一年生の四階からすると二階下となる。

 意気揚々と教室を出た彼の足取りは非常に軽く、通太自身も驚くほどであったが、三年生の教室がある階に近づくにつれ、歩行速度は遅くなり、そして、いよいよあと一段足を下ろせば三年生の階に到着というところで、彼の歩みは完全に止まった。

 一分ぐらいその場で立ちっぱなしであったろうか、おもむろに通太は、一歩足を出し階段を下りて、自分が今まで突っ立っていた段差に腰を下ろした。勢いよく腰を下ろしたためか、尾てい骨に振動が響き、彼は顔をしかめた。

 そのあと、彼の尻には、コンクリート独特の冷たさが沁み広がった。

 その尻の冷たさを幾分か感じ取った後、通太は様々なことを頭の中で考えた。

(ささやまろこは、今、食堂に行っているのかもしれない)

(じゃあ今、三年六組に行っても仕方ない)

(あとでまた来るか)

 歩行を止めたのと同じように、彼の頭の中でも、三年六組に行こうとする、勢いある志向が停止していた。

 それは、彼の動きに表れた。

 通太は立ち上がると、自分の教室に戻ろうと、階段を上がり始めていた。

 しかし三段上ったところで立ち止った。

(いいや、駄目だ。とにかく行こう、三年六組の教室に)

 笹山露子に近づきたいという一心が彼をすぐに立ち直らせた。

 彼は振り返り、階段を下りきると、一旦立ち止った。

 そこで左右を確認すると、右手の方に続く廊下を歩いた。

 一年生の教室があるフロアでも、この位置では、左から右へクラスの順番が増えていく。

 数歩歩いて、まず彼が目にしたのは、教室の出入り口上部から突き出ている三年五組のクラスボードだった。

(次の教室が三年六組……)

 もう彼の視界には、三年六組の教室が入っている。

(あそこに、ささやまろこさんが……)

 いるかどうかは、わからない。

 通太が先程思案していた通り、食堂に昼ごはんを食べに行っているかもしれないし、その他の理由で教室に今いるとは、限らないのである。

 しかし通太は、歩を進めた。

 とにかく三年六組に行く、それが今の通太の達成目標なのだ。

 そしてそれが今、達せられた。

 通太は、三年六組の教室の出入口にいるのだ。

 ただ、堂々と開いている出入口の前にいるのではなく、戸口から顔だけを出しているといった滑稽な格好ではあるのだが……。

 その姿勢のまま、彼は教室内を見渡した。

 教室には予想外にも、結構な人数がいて、少しうろたえた通太は、無意識に戸口から顔を引っ込めた。

(だめだ)

 戸口を背にした通太の頭の中は、再び弱気な考えに支配された。

 その時である。

 通太の目の前を一人の少女が、横切ろうとしていた。

 彼女は、見かけない顔の通太をまじまじと見ながら、三年六組の教室に入ろうとしていた。

 その少女を見て通太は思わず、

「ささやまろこ」

 と呟いた。

 思わず通太が呟いてしまうほど、彼の眼前にいる少女は、つくえの情報に一致する人だった。

 細身で色白、睫毛が長い、まさにその人が、自分の目の前を通り過ぎようとしている。

 しかしよく見ると、髪の長さは、肩を越えていた。その外見の様子だけは、つくえの情報と異なるものであった。

 だが、その異なる情報を振り払うぐらいの強いインパクトが彼女から発せられていた。

 特に長い睫毛だ。

 通太は、彼女が自分の前を横切ろうとした瞬時に、その情報を強く汲み取っていた。

で、思わず声に出た。

「ささやまろこ」と。

 突然通太に声をかけられた少女は、驚いたのか、その長い睫毛をぱちくりさせ、

「あなたは、誰?」

 と、その場に立ち止まり、通太に声を返してきた。

「ぼ、僕ですか?」

「ええ」

「あの僕は、稀川通太といいます」

「はい」

「ええと、あの、それで、僕は一年五組の稀川通太といいます」

「はい、稀川さんですね」

「はい、そうです」

「それで、私に何か用ですか?」

「えっ?」

「私の名前を呼びませんでした?」

「僕があなたを?」

「ええ、たった今」

「僕、何て言いました?」

「えっ?」

 睫毛の長い少女は、通太の意味不明な言動に困惑の表情を浮かべた。

 通太は通太で、突然のやり取りに、さっき自分が言ったことも忘れるぐらい動転している。

「何もないなら私……」

 と言いながら、睫毛の長い少女は教室へ入ろうとした。

「ささやまろこ、さん?」

 と通太は、自分の前を通り過ぎようとする少女の横顔に声をかけた。

 声をかけられた少女は、また立ち止り、何も言わずに通太を見返した。

 少女に見つめられ、一瞬息を呑んだ通太だったが、勇気を振り絞り、もう一度、

「ささやまろこさんですか?」

 と尋ねなおした。

「ええ、笹山ですが」

 と、彼女は頷いた。

「ああぁ。え? ささやまさん?」

「はい」

「あなたが、ささやまさん?」

「そうです」

「ははは……逢えた……逢えた……」

 通太は少し顔を下に向け、自然、笑顔になっていた。

 その様子を見て、笹山露子は、

「大丈夫ですか?」

 と、いぶかしげな表情で、通太を覗き込んだ。

「え、はい、大丈夫です」

「あの、それで私に何か?」

「はい、ええと、あの、今、お時間はよろしいですか?」

「これから、ちょっと勉強をしようと思っているんですが……」

「勉強? 昼休みにですか?」

「ええ、今年、受験なので。学校の期末テストもあるし」

「あ、そうか。三年生ですものね」

「そう。だから、できたら早く――」

 本題を言って――という懇願の視線を彼女は通太に送った。

「あっ、すみません、実は、つくえさんのことで伺いました」

「机さん?」

 突飛な通太の発言に笹山露子は、目を丸くした。

「机がどうかしたの?」

「お忘れでしょうか? 喋るつくえのこと。ええと何て呼ばれていたんだっけ? つくお、そう、つくおのことです」

「つくお? えっ、まさか机のつくお?」

 笹山露子は、さっき丸くした目を更に丸くして驚いた。

「そうです。机のつくおのことです。思い出しました?」

「思い出すも何も、ずっと気にはかけていたわ。学年が上がって、教室が変わっても、放課後につくおの所に行って、誰も教室内にいなかったから喋ろうとしたけど、机に俯いても、話が出来なかったの。違う机と間違えたのかなっと思ったんだけど、間違いなくその机。その日は諦めて、次の日も教室に行って喋りかえても駄目だった。また別の日にも行ったんだけど、教室には、生徒の誰かがいて、入るのに躊躇したの。それ以降も何回か教室に足を運んだけど、大抵生徒が残っていてね。日が経つにつれ、私自身も色々と忙しくなっていったし、どうせつくおの所に行っても誰かいるに違いないと思って、自然と彼の所には足を運ばなくなったの」

「そうだったんですか」

「それにしてもあなた、ええと稀川くんだっけ、なぜ、つくおのことを?」

「はい、実は――」

「露子ぉ」

 通太が、つくおと出会ったいきさつを語ろうとした時、彼と笹山露子に割って入る者が、三年六組の教室から現れた。

「露子、どうしたの?」

「あ、うん、ちょっとね」

 彼ら二人に前に現れたのは、笹山露子のクラスメイトの多納宏美であった。

 その子は、笹山露子とは対照的で、褐色の肌を持ち、髪型はショートカットで、いかにも活発そうな女の子に見えた。

「知り合い?」

「うん、まぁ」

 笹山露子は、多納宏美に通太のことをどう紹介していいかわからず、曖昧な返事をした。

「なんか怪しいなぁ、まさか、彼氏?」

「ち、ちがうぅ。もう!」

 そう言うと、笹山露子は、強引に多納宏美の腕をとると、教室の中に引っ張って行った。

 笹山露子は、無理矢理に多納宏美を彼女の席に着かせると、早足に通太の所まで戻ってきた。

「ごめんね」

「い、いえ」

「稀川くん、もう休み時間も少なくなってきたし、話の続きは、後でってことにしない?それにね、あれ」

 と言うと、笹山露子が教室内に目線を送る。

 通太も教室内に視線を伸ばした。

 視線の先には、さきほど、ここにいた多納宏美と、彼女以外の二人の女子学生が、意味深な笑みを浮かべこちらを見ていた。

「ね。時間があったとしても、気になってゆっくり喋られそうにないし」

「すみません、いきなり押しかけて、なんだかご迷惑をおかけして……」

「なんで? 私とってもうれしかったよ。とりあえず今日の放課後……、あっ駄目だ。今日は用事があって無理だ。てゆうか今週は、金曜日しか無理だ。金曜日の放課後って何か用事ある?」

「僕は大丈夫ですが」

「そう! それじゃ、今週の金曜日にあなたの教室に行くわ。ええと、一年五組よね? それでもいい?」

「はい! いいです。つくおさんもささやまさんに逢いたいって言ってたので喜びます。今日、そのことを言いに来たんです」

「そうなんだ。私も早く逢って喋りたい」

「じゃあ、金曜日の放課後、僕教室で待っています」

「うん!」

 笹山露子は、通太に向けて手を振りながら教室へと帰っていった。

 通太は、笹山露子が、友達の輪に戻っていくのを見届けると、三年六組の教室を後にした。

 今、彼の心は嬉しさのあまり躍っていた。偵察してくるという軽い感覚で、三年六組に赴いたが、まさか笹山露子本人と接触会話できるなんて思いもしなかったので、その喜びはひとしおだった。はやく笹山露子に対面したことをつくえに伝えたい彼は、廊下を走り始めていた。階段を駆け上がり駆け上がり、一年生の教室があるフロアに着くと息が切れた。が、再び走り出し、超特急で一年五組の教室に駆け入った。

 足早につくえに寄って行くと、椅子に座り、息を整え、俯く通太。

 だが簡単に息は落ち着かず、顔面に熱を帯びた彼はつくえから顔を上げ、汗を拭い、呼吸を整えようと深呼吸を試みる。

 その一連の慌ただしい通太の動きを、一年五組の生徒たちは、奇異の目で観察している。

 その時間は、もうすぐ午後の授業開始のチャイムが鳴るということもあって、ほとんどの生徒が教室にいた。

 教室の廊下側の端の席に座る一波綾乃も、四列先にいる通太の横顔に体を向け、じっと見ていた。

(何してるんだろ、あいつ)

 昨日の放課後は、机に突っ伏して独り言をごちゃごちゃ言っていた。

 しかもその中で、自分の名前も呼ばれていたような気がする。そしてその後、驚いたことに、大声で自分に喋りかけてきたと思ったら、笹山露子という人のクラスをお姉さんに聞いてくれないかと頼んできた。

 無口で無気力の稀川通太が必死の形相で、自分に依頼してきた。

 あの一瞬、一波綾乃は、不覚にも彼に対して動揺した。通太の大きな声に動揺したのではない。彼の表情にであった。

(よく見れば、いい顔してる)

 今もその想いが、心によぎった。

(えっ!)

 一波綾乃は、自分で自分のことに驚いた。

(なに? なに?)

 確かに昨日から彼女自身も変であった。

 家に帰っても、考えることは、稀川のことばかり。頭から離れないでいる。彼のことを考えると同時に心拍数も早くなっていた。

 そのことは今日も同じであった。

(なんなのよこれ?)

 彼女自身も戸惑っていた。今の自分の心持に。

「――だよね、綾乃?」

 不意に彼女に喋りかける声がした。

 だが彼女は、心ここにあらずといった面持ちで、視線を通太に送り続けている。

「綾乃?」

 一波綾乃に声をかけている女子学生は、無反応の彼女を見てキョトンとし、手のひらを彼女の目の前にかざした。

「うえ! へっ? 何? 加奈?」

 手に驚いた一波綾乃は、それをかざす近藤加奈という子に顔を向けた。

「へ、じゃないわよ。大丈夫、綾乃?」

「何が?」

「何がじゃないわよ。さっきから喋りかけてるのに、一点を見つめたまま反応ないし。どうしたのかなって」

「えっ、そう? 昼ごはん食べすぎて、眠くなって、ぼお、としてたのかな?」

「綾乃、今日変だよ。なんかいつもの元気がないってゆうか、静かってゆうか。何をするのも上の空で」

 近藤加奈の指摘通り、今日の一波綾乃には溌溂さがなかった。いつものきびきびした話し方、行動は共に影を潜め、どちらかとゆうと穏やかな口調であり動きであった。

「ほんと、どうしたの?」

 一波綾乃の後ろの席にいる近藤加奈は、本当に心配しているようだった。

「何でもないわよ。それよりどうしたの?」

「いやね、昨日の放課後、綾乃が教室に忘れ物を取りに戻った時、稀川が教室にいた話を、麻紀にしていたのよ」

 近藤加奈が体を半見にすると、彼女の後ろには平良麻紀という子がいて、うんうん頷きながら、話の続きを待っているのであった。

「ああ、あれね。そうよ、稀川が机で寝ていたのよ。変でしょう?」

「ただ寝ていただけなの?」

 平良麻紀は真顔で綾乃に聞いてきた。

「うん」

 一波綾乃は、通太の独り言の件は、なぜか誰にも言わなかった。

 ただ彼が、教室で一人寝ていたという事実を友達に伝えただけであった。

「気持ち悪いィ」

 平良麻紀は舌を出し、顔をしかめるのであった。

「うん。気持ち悪い」

 と、力なく彼女に同意した一波綾乃は、再び目線を通太に戻したのだった。

 通太を見ると、彼は、机に突っ伏している状態であった。通太は、一波綾乃が友達とあれこれ言い合っている間、出来るだけ息を整えたのち、机に突っ伏して交信を開始していた。もちろん、自分が笹山露子に出逢ったということを真っ先に伝えた。

 つくえは非常に喜んだ。

「そうか、それはよかった」

(はい! よかったです)

 通太は腕の中で口元を緩めていた。

「で、かのじょは、げんきだったか?」

(はい、そう見えました。ただ、大学受験でとても忙しそうでした。今は、昼休みも返上で勉強しているようでした)

「だいがくじゅけん? だいがくじゅけんとはなんだ?」

(はい、高校を卒業したら、様々な進路の一つに大学に進むというのがあるのです)

「うむ」

(より高度な学問をするため大学という教育機関に進むんです。ろこさんは、その大学に受かるため猛勉強をしているんだと思います)

「そうか、いそがしそうなのだな」

(はい。でも、今週の金曜日にここに来てくれます)

「おお、ここにきてくれるのか」

(はい!)

「まちどおしな」

(ええ。でもほんと綺麗な人でした。つくえさんの言ってた通りの人でした。細身で色白、睫毛がとても長く、目を引きました。ただ髪の毛は肩までの長さでなく、背なかの中ぐらいまで伸びていました)

「そうかそうか」

 つくえも高揚しているのか、彼の語句には力強さが感じ取れた。

「はやくあいたい。きんようびはいつだ? きょうはなんようびだ?」

(今日は水曜日なので、明後日には彼女に逢えます)

「むむ、まだだいぶあるな」

(でもすぐにきますよ)

 通太は緊張が解けたのか、尿意をもよおした。

(すみません、トイレに行ってきます)

「ああ」

 通太はつくえから顔を上げると、時計を見た。午後の授業が始まるまであと五分余りしかない。

 彼はトイレへ急いだ。


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