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壱話

壱話 春の月


翠色にうまれかわったばかりのひと筋の風がゆるやかに流れ、佇んでいる春の匂いを誘い私のからだに触れてきた。

私はあの頃とあまりかわらない風景を眺め、土手の斜面に生える芝生の上から当時の淡い思いを深く回想していた…。


8年前の春、小学1年になった一七は夕方になると決まって家の前にある乾いた土手の中腹斜面に座り、両膝の上に顎をのせる。

マジックアワーがみせるオレンジ色の陽だまりが少しずつ染み込んでいく校庭を羨ましいそうな表情で一七は見ていた。

度々、強い風が吹き、細かな砂埃がまいあがったが、目を細め両膝の間に顔を突っ込み砂埃が過ぎるのをじっと待った。

この辺はコンクリートブロック造りの町営住宅が16棟ほど建ち並んでいる。

日中は、開けっ放しの玄関ドアの前に座り足の爪を切っている老人や軒下に置かれた観葉植物の手入れをしている老人がこの鳥崎団地の歴史を無言で語ってくれている。

柄の短いほうきを握り、乾いた砂利道で雑談している主婦の間から赤い屋根が目立つ小さな小学校が見える。

遠くから聞こえるリコーダーの音色や元気な声が教室の窓の隙間からこぼれ落ち、風にのってやってくる。

チャイムの音が波紋のように耳に届き、放送連絡の声がこだまする。

一七は誰もいない校庭に降り、石灰で敷かれた白線の上を歩き出した。強く踏み込むたび青い靴のつま先には白い石灰が渇いた砂埃と混じり重なり合う。

白線の上をしばらく歩くと100m走のスタートラインに辿り着く。一七はゆっくりと振り返り、100m先のゴールを見つめていた。

11時前、短い勉強を終えた元気な新1年生の下校時間になる。そんな子供たちが正面玄関から下校していく校庭には、子供たちの後を追うように人数分の小さな砂埃が散らばり、風と共に舞っている。

高さが階段状に変わっている鉄棒のわきには赤と黒のランドセルが白いおなかを見せ転がっている。遊具前では、一七と同じくらいの歳の子供たちが鬼ごっこをしたり、縄跳びをして飛んだ回数を競い合ったり楽しそうに遊んでいる。

一七は両膝の上に顎をのせ笑みを浮かべてその遊んでいる様子を見ている。

でも、その小さな顔には大人用の白いマスクが顔いっぱいに覆いかぶさっている。

時々、目の前を無邪気な笑顔で駆け抜けていく元気な子供たちや、ランドセルに付けてある給食袋を揺らしながら帰る子供たちの中には一七の友達と言える子供は一人もいない。

なぜなら隣町で仕事をしている両親の関係上、一七も隣町にある小学校に通っていたからだった。

小児ぜんそくと蓄膿症を患っていた一七は、みんなと一緒に外で遊ぶことを医者と親から制限されていた。

そういう環境であったため家の近所に住んでいる子供たちとの接点が薄く一緒に遊べるトモダチが一人もいなかったのだ。というより友達を作るというプロセスすら一七には分からなかったのだ。

でも、そんな一七にも偶に話しかけてくれる同い年の正太がいる。

もし、この時点で一七に「家の近所にいる友達を一人連れてきてください」という質問をしたとしよう。その問いに対し一七の答えは「正太くん」と即答するだろう。同時に誰もが知っている有名な童謡「一年生になったら」の歌の内容は一七には全く意味の分からない歌であり、一七が今まで覚えた日本語のなかでは同感せず最も自身に当てはまらない日本歌詞でもあった。

 下校している低学年の子供たちを見ていた一七は急に立ち上がった。両手でズボンを掃い、鼻水を1回吸って家に向かって走った。

家に着いた一七は、ソファーの上に脱ぎ捨てられてある水色のパジャマを横目に、今まで着ていた服を脱ぎ、さっきまで寝ていた布団の枕元へ置いた。

ソファーから着慣れたパジャマを取り、速やかに着替えた。プリント部分が薄くなっている上着の胸の部分には塗り薬で変色してしまった跡がよだれ染みのように見える。

ここ最近の一七は喘息の発作と蓄膿が原因で鼻が詰まり夜中は全然眠れない。

寝る前には必ず喘息の薬を飲んで寝るようにしているが効いているようには思えない。胸には鼻詰まり防止用のスースーする塗り薬を塗り寝ているがその薬もあまり効果はない。結局、家族が起きてくる朝方くらいにようやく落ち着き眠れるようになる。

 そのため一七は朝方に寝て、昼過ぎに起きる。当然、大好きな学校も休む羽目になる。

両親が共働きで昼間は誰もいない団地の家に一七は慣れた様子で過ごしている。体調の優れない日は朝から茶の間に敷かれた布団で一日中寝ているが、体調がいい日は家を抜け出し、あの校庭が見渡せる土手の斜面に座る。 

職人気質で頑固な祖父の経営する建設会社で働いている寡黙な父が家で寝ている僕の世話などをしてくれる。

正午を知らせる役場のサイレンが町全体に鳴り響き、その音と共に近所の犬たちも遠吠えを開始した。

窓に掛かけてあるカーテンの隙間からは、鋭く射す陽の白い帯が、色あせた畳の上に直角に置かれている。

一七は右足で掛け布団を蹴り、ずれたタオルケットから露出した右足が色あせた畳の上の感触を親指の爪で確かめ楽しんでいる。

車のエンジン音と砂利道を走るタイヤの摩擦音がゆっくり近づいてきた。

 車のエンジン音に紛れて聞こえてくるラジオ番組のテーマ曲がコンクリートブロック壁に反響し聞こえてくる。エンジン音が消えると同時にラジオ番組のテーマ曲も消え、辺りはしばらくのあいだ静まり返る。

 玄関ドアが音を立てて開き外の空気と共に父が昼ごはんを食べるために帰ってきた。首に巻いてあるタオルを椅子の背に掛けた。

「一七、調子はどうだ?具合悪くないか?」と、言いながら台所で手を洗っている。

僕は「うん。」と短い返事をかえし、窓が見える左側に寝返りをうった。

 食卓テーブルの上には朝、母が作ってくれたおかずが2人分置かれている。父はガスコンロで味噌汁を温めはじめた。

「おっとう、ご飯いらないよ。」と、食器棚で茶碗を出している父の背中に投げかけた。

父は2つの茶碗を持ったまま近づいてきた。

「ん…調子がわるいのか?朝もちゃんと食べてなかったから昼くらいはちゃんと食べないとダメだぞ。」と、語尾に溜息を残し父が言った。

「あとで食べる…。」そう言い、僕は反対側のタンスの方へ寝返りをうった。

父は手際よく昼食の準備をし、そそくさと食べ誰かに電話を掛けている。

僕は目の前に置かれている丸いタンスの取手部分を目で追いながら、父が掛けた電話の内容を静かに聞いていた。

話している会話の内容は解らなかったが、なぜか仕事の話だと直ぐにわかった。

父は山葵色の受話器を置き、椅子の背に掛けて置いたタオルを手に取った。

「それじゃ一七、仕事に行ってくるからね。

なんか困った事とかがあったらばぁちゃん家に電話するんだよ。」と言い、父は持ってたタオルを首に巻いた。

僕は布団から右手を突き出して「わかった」というサインを父に送った。

玄関ドアが小さく鳴き閉まり、エンジンの音と共にラジオから流れてくるわけのわからない音楽が聞こえてきた。その2つの雑音が少しずつ耳から遠ざかって行き、一七は夢のなかへ進んでいった。

 


午後3時頃に父が帰ってきて世話をしてくれてからは、午後6時半頃までは誰も家には帰って来ない。

僕は父が出て行ったのを確認すると、枕元に置かれた洋服に着替え、茶の間の窓から外を眺める。外では下校途中の子供たちが大きな声で話しながら歩いている。僕は茶の間の反対側の寝室へ走って行った。

寝室の窓からは校庭で遊ぶ子供の姿が小さく見える。つま先立ちのまま、窓にしがみつく姿の隣には、去年一七が書いた赤一色の絵が飾られていた。

僕は茶の間に急いで戻り、枕元にあるガーゼマスクをつけ、こっそり家を出た。

敏感な気管から新鮮な空気が小さな肺へと送り込まれる。

火事を知らせるために鳴らした半鐘のような激しい咳が、つぎつぎと気管から出て行く。

マスク越しに口を押え、物置の陰に隠れた。

激しい咳が少しずつおさまり涙ぐんだ目を服の袖で拭い、広い校庭が見える土手に向う。

学校から帰る下校途中の子供たちに逆らうように僕は校庭へと続く砂利道を歩いた。

砂利道の道路からアスファルト舗装された黒色の道路に、砂埃で出来た小さな足跡が点々と横断していく。

白のガードレールの内側にある歩道には交通安全と書かれた黄色の旗が音を立てながら同じ方向になびいている。

瑞々しい芝生を踏み、広い校庭を一望できる土手にようやく着いた。

首を右から左へ何度も動かし、子供たちが遊んでいる内容を言葉に出しながら、ひとつひとつ覚えていった。

校門から駐車場まで続く緑色のフェンスの上に小太りの男の子が座っている。

「正太くんだ。」と、家の向かいに住んでいる同い年の男の子の名前を口にした。

ジャングルジムより高い緑色のフェンスにどうして座っているんだろうと考えた。正太の黒くて真新しいランドセルはフェンスの下に転がっている。

その様子をしばらく見ていた。

すると、ぎこちない様子で座っていた正太がフェンスの網目に手足を掛けゆっくり降りてきた。まわりを気にしながら地面に転がっているランドセルを背負い、こっちに歩いて来る。だんだん近づいてくる正太の顔は、今にも泣きそうな表情だった。

普段から人に声を掛けない僕だったが、この時ばかりは違った。

「どうしたの?」と、ぎこちなく歩く正太に向かって声を掛けた。

「なんでもない。こっち見んな。」と、いつも元気な声で話す正太が小声で答えた。

「だって…なんか変な感じだったから…。」

「うるせぇ、お前のほうが変だべや。」と、僕と目を合わすこともなく、また小さな声で答え、僕の横を通り過ぎていく。

正太の後姿に違和感を覚えた僕は、正太を追いかけ違和感があった箇所をじっと見た。

「ねぇ、なんかおしりに付いてるよ。」と、真顔で正太に教えてあげた。

「なんでもないってばっ!。」と、いつものような大声で正太が答えた。

その違和感のある正太のおしりは、ポコッと何かが入っているみたいに盛り上がり、その部分だけ濡れたように色が変わっていた。

「ねぇ、正太くん…うんち垂れたの?」と、今にも泣きそうな正太に向かって言った。

「うる…せぇ…。」とうとう正太が泣いてしまった。

僕はなぜ正太が泣いているのか、まったく意味がわからなかった。

正太はぎこちない姿で泣いたまま歩き、家に帰って行った。

そんな正太を見送り、再び土手の斜面に座った。いつも僕が座る土手の斜面には丸い小石や、瓶の王冠が目印として置いてある。

僕は、ここから見る景色をいつも黙って見ているのが好きだ。

晴れた日も、曇りの日も、黙って見ている。そのなかでも僕が一番好きな日は、誰一人遊んでいない雨の日の校庭だ。

紺色の長靴を履き黄色い傘を差し、いつもの土手の斜面に黙って立つ。

そこから見る校庭には数多くの水たまりができている。スローモーションのように見える雨粒が、涼しげな雨声の音色を奏でると、数多くあった小さな水たまりが徐々に一つの大きな水たまりに変化する。

その時の風景が一番好きだ。

僕は雨上がりの校庭に誰が最初に遊びに来るのだろうと思い紺色の長靴を履いて校庭へ向かった。

もう誰か遊んでいたらどうしよう…。と不安な思いで砂利道を走った。

校庭の見えるいつもの土手の上に着いた。

そこから数多くの水たまりが出来た広い校庭を確認した。

「よかったぁ、まだ誰も来ていないや。」と、安堵の胸を撫で下ろした。

すると長靴を履いた正太くんが校庭にやってきて、狂った様に水たまりを蹴っ飛ばしたり跳ねたりして行った。

灰色の水面は味噌汁を作る時、味噌が溶けて広がるように、次々と茶色く濁っていく。

それでも僕は黙って茶色く濁った水たまりを見ていた。

僕は、雨上がりの校庭に一番乗りにやって来た子供が正太くんで安心したのだった。

校庭で遊ぶ子供たちの数が、一人二人と減ってくる時間になると同時に、僕はワクワクと

した気持ちが高まり黙って座っていられなくなる

校舎の正面に掛かっている大きな時計の時刻が5時を指し鐘が鳴った。

この5時の鐘が鳴ると、校庭で遊んでいる子供たちは、お互いに別れを告げ家に帰っていくのだ。そのタイミングで僕は家に戻り、戦地へ出撃する準備をはじめるのだ。

錆びてボロボロになった物置の扉を押したまま開ける。さまざまな物が詰め込まれている物置の傍らに、比較的新しいダンボールの箱がひとつある。

そのダンボールの箱は、当時の僕にとってすべてであり掛け替えのない宝物だった。

僕はその箱を丁寧に開け、中からダンボールで作った銃とマシンガンを手に取り、スーパーの特売チラシで母と作ったヘルメットを深々とかぶり、僕はその錆びついた物置の中に閉じこもる。

そう、この錆びついてボロボロになった物置は、僕にとっては立派な基地なのだ。

閉じこもって、しばらく外を監視していると、裏の家に住む仲の良い兄弟が歩いてくる姿を、壁面の隙間からこっそり見ていた。

この時すでに、僕は戦場にいるのだ。

その時の僕の頭中のシナリオはこういう内容だ。

(たった一人で敵地に乗り込んだ勇ましい兵士となり敵地に近い民家に隠れ敵兵を監視している)といった場面だった。

このボロボロの物置の目の前を横切ろうとする者すべてが敵となり、当然その兄弟たちは、自動的に敵兵という設定になる。

ときどき監視している僕の姿が敵兵に発見されるのではないかドキドキしながらじっと監視を続けていた。

物置の内部はわずか畳1帖ほどで主に父親の使う道具やタイヤなどが所狭しと置かれていた。その狭いスペースの秘密基地は、父の道具箱を武器庫にしたり、積まれているタイヤを机にしたりと周辺にあるものすべてが軍事用具なのだ。

その中に、僕がダンボールで作った自慢のものがある。サンダーバードの司令室を真似た機材類や外の様子が見えるモニターなどが壁一面に張り付けてある。

たまに、風の強い日に物置の扉を開けると飛んで行ってしまうのが悩みの種だが、それも含めて僕の自慢のものだ。

僕は武器庫の中からダンボール製のトランシーバーを取出しポケットにしまった。

そして基地を横切る兄弟たちに気づかれないように目的の場所へ向かった。

身を低くしながら駆け足で進む自分の姿を、戦争映画の主人公に似せながら走っている。

そういう風に映画のワンシーンを想像しながら進んでいく。

所々にたっている電柱に身を潜めながら、着実に目的地へ近づいている。

だけどやっぱり子供のやることだ、途中何度も帰宅途中の子供に目撃されたり声をかけられたりして戸惑ったが、戦争映画の主人公という設定は崩さなかった。

アスファルト道路を駆け足で校舎の側壁まで行き、もう一度まわりの状況を確認した。

ここから校舎の裏にある杉の切株にたどり着くには、この先にある細い道を通らなくてはならない。

この細い道を敵に気づかれないように通れるかが今回の作戦で一番難しい場面なのだ。

僕は深呼吸を2回して、チラシで作ったヘルメットをかぶり直しダンボール製の銃を構える。

「GO!」と、手を振りかざし勢いよく前へ飛び出した。

細い道の途中に、見通しの悪い右カーブがあり、その手前には生徒たち手によってきれいに植えられたチューリップの花壇がある。

いつもこの大きく曲がった見通しの悪い右カーブで敵である子供と接触し、作戦が終わってしまう。

この先のカーブをうまく抜け少し進むと目的である切株が右側に見えてくるのだが、いつも失敗していた。

今日は6回目のトライだ。

ズボンの後ろポケットからダンボール製のトランシーバーを出し、基地へ今の状況と自分の位置を知らせた。

その時の会話も基地にいる仲間への最後の決め台詞も一人二役で演じ、持っているダンボール製のトランシーバーを再びズボンのポケットにしまった。

さっきよりも体勢を低く構え駆け足で進む。

花壇の真横まで来たあたりで、前方から自転車が走って来る音がした。

僕はすぐに花壇の裏にまわり身を伏せた。

ゆっくり頭をあげ、通り過ぎる自転車を目で追い息を殺した。

息を殺していると言っても、普通に鼻から呼吸をしていたので、花壇の土の匂いや植えられているチューリップの甘い匂いが鼻を通り体に入ってきた。

自転車が花壇の前を通り過ぎたので、ゆっくり身を起こそうと両手を地面についた時。

「かずな、なにやってんだ?また戦争ごっこしてんのか。」と言う声が聞こえてきた。

慌てて見上げると、そこには3つ年上の淳君がニコニコした表情で立っていた。

僕は、ズボンについた土埃を払い、照れながら起き上った。

「うん。また今日も作戦失敗だよ。」と、少しずれたヘルメットを上げながら答えた。

「なぁ、かずな。この前見せたやつ、もう一回見せろよ。今度はみんなの前で」と銃を構える素振りをしながら言った。

「うん。いいよ。」

そう言って僕は、切株作戦を打ち切り、淳くんと一緒に校庭へ向かった。

細い道を戻り、校舎の横から広い校庭が見えてきたが、もう数人の子供しか校庭で遊んでいなかった。

土手の中央にコンクリート製の階段があり、そこに何人かの子供が座っている。

「かずな、みんな階段で待ってるから走って行けよ。」と、淳くんに強く言われたので駆け足で階段に向かった。

僕が徐々にみんなのいる階段に近づくと、階段に座っていた子供たちが一斉に小石を投げつけてきた。

「バン!バーン!バンバン!」と、皆口ぐちに銃声の真似をしながら、地面に落ちている小石を加減無く投げ付けてくる。

「かずな、前方から敵の襲撃だ!」と、僕から離れた淳くんが叫んでいる。

僕は淳くんからの言葉を理解して、向かってくる小石を避けながら走ったり、ほふく前進をしながら進んだり一生懸命やって見せた。

時々飛んでくる小石が頭に当たったり、顔や体に当たって痛かったが、階段に座っているみんなが楽しそうにしているので痛みをこらえ必死で演じて見せた。

途中、ほふく前進をしながら側転をしたり、前転したりを繰り返していたので、チラシで出来たヘルメットはボロボロになり校庭に散らばっている。

また、ズボンのポケットから飛び落ちたダンボール製のトランシーバーがぽつんと校庭に落ちている。

階段に座っているみんなが僕のボロボロになったヘルメットの具合を見ると、さすがに投げてくる小石の数が減り次第に終了する。

僕は昨日、自宅の物置の前で「一人アクション」と名付けた一人芝居で、ちょうど戦争映画の主人公の真似をしていた。

淳くんは、その「一人アクション」を遠くから見ていたらしく、芝居が終わるころを見計らって淳くんが近づいてきた。

「今のアクション凄くかっこよかったよ、もう一回見せてよ。」と、うれしそうな表情で頼んできた。

僕は少し恥ずかしかったが、自分の好きな映画のアクションシーンを共感してくれる相手が出来たことがとても嬉しく、再び同じアクションを淳くんに見せてあげた。

「本当にすごいね、今度みんなの前でみせたらみんな凄く喜ぶと思うよ。」と、楽しそうに言った。下校途中だった淳くんは、それだけを僕に伝え、手を振り家に帰って行った。

淳くんが帰ってからも「一人アクション」に磨きをかけていた。

淳くんには僕と同じ歳の昇という弟がいて何度か校庭で見かけたことがあった。

そのため名前と顔は知っていた。

僕は生まれて初めて、僕の好きなものに共感してくれた人が出来た喜びと、僕が考えて演出したアクションを褒めてくれた喜びとで、その日の僕は一日中、戦争映画の主人公になり続けていた。

そういう淳くんに誘われたのが嬉しかった。僕は、飛んでくる小石を銃弾にたとえ必死で銃弾の中をかいくぐる様を懸命に演じきったのだ。

まるで砂漠を彷徨い懸命に抜け出してきた旅人のような僕は、服に付いている砂埃を掃い、淳くんに感想を聞こうと近寄った。

「すごかったでしょ」と僕は言い昨日淳くんが褒めてくれたような言葉を待っていた。

真っ黒くなった僕の手には、グニャグニャに折れ曲がったダンボール製のマシンガンが握られていた。

「やっぱ、すげーよ!昨日見たやつよりかっこいいよ。」と、満面の笑みを浮かばせた淳くんが答えた。

そう答えた淳くんの一言で階段に座っていた子供たちが次々と僕を褒めてくれた。

その中には僕より小さな子供も混じっていた。

ボロボロになって状態で校庭の隅に散らばっているヘルメットの残骸を必死に拾い集め、階段下に落ちていたダンボール製のトランシーバーをズボンのポケットにしまい込んだ。

さっきの階段にはまだ、淳くんたちが座っていて通れなかったので。僕は遠回りして違う道から家に向かった。

普段、校庭から団地へ行くには、その階段を使うとすぐ家に着くのだが、階段に座っている淳くんたちの間を通って帰るのが少し怖かったので、ぐるっと遠回りして帰ったのだ。

遠回りをして、さっきまでいた階段上に近づいた。階段の上から見下ろしたが階段には誰も座っていなかった。

僕は暮れなずむ春の空を見上げていた。

家の玄関に着くと首からぶら下げていた鍵を襟元から手繰り寄せ取り出した。

背の低い僕は精一杯背伸びした状態で開錠しドアを開けた。

薄暗い家の中に入り玄関横にある照明用のスイッチを押し玄関の灯りを点けた。

居間の照明器具は紐式だったため、背の低い僕には手が届かず暗い部屋のまま家族が帰って来るのを待っていた。

たくさん外で遊び、喉が渇いて水が飲みたかったが台所の蛇口まで手が届かず飲むのを我慢した。

さっきまで寝ていた布団の横に投げ捨てられていた3台のミニカーを両手で拾い、家の小さな庭に出られる大きな窓の前に座った。

床には大きな窓から入ってくる夕日の光で、座っている僕の姿が大きな影となって映し出されている。

小さな手に握られている3台のミニカーを床に並べ、自分の目線がミニカーと同じ高さになるように、顔を床につけた姿勢で遊んでいた。右手には黄色のミニカーを持ち、左手にはお気に入りの赤いミニカーが握られて、その中央に後ろタイヤが外れたミニカーが置かれている。

赤いミニカーは僕のお気に入りだったので自分が運転しているスーパーカーという内容の設定で、黄色のミニカーは敵のボス役が乗っている完全武装した車で、中央に置かれたタイヤが外れたミニカーはボス役の車を守っている敵役の車という設定だ。

役を設定した3台のミニカーが戦い、やがて赤いお気に入りのミニカーと黄色のボス役のミニカーの2台になる。僕はその場面になると、大きな木製の窓を開け、その窓に2本敷かれている銅製のレールの間に2台のミニカーを置き、一言セリフを言った。

「なかなかやるじゃないか、でもこの場所が貴様の墓場だ!」と言い、赤いミニカーを勢いよく走らせ、黄色のミニカーにぶつけた。

黄色いミニカーはレールの間から飛び出て茶の間の床に転がった。

「思い知ったか悪党め、この世に僕がいる限りお前らの好きにはさせない!」そう最後のセリフを吐き、ささやかなヒーロードラマは終わった。

大きな窓から入ってくる夕日の穏やかな光が先ほどより低くなり、僕を映し出していたおおきな影は消えてなくなっていた。

僕は床に散らばっている3台のミニカーを拾い、布団の枕元に置きその場に座った。

外から車のドアが閉まる音が聞こえ、急いで玄関先に向かった。

廊下ぎりぎりに立ち、しばらく待っていたが誰も家には来なかった。

そのまま照明が点いている明るい玄関先に座り、廊下の床板の板目模様を人差し指でなぞり時間をつぶす。

若い小さな指が古ぼけた床に触れた。

微妙にわかる模様の凹凸と繊細な光沢が細い指の先に伝わり、そっと目を閉じた。

目には見えない今昔の住人たちの足跡が薄らと滲み出てきそうな感じがした。

また、外から車のドアが閉まる音が聞こえたので素早く立ち、玄関ドアが開くのを待っていた。

ガチャっと玄関ドアが開き、水色のトレーナーを着た一つ年上の姉が、片手にスーパーの買い物袋を持って家に入って来た。

「ただいまぁ~一七。」

僕は姉の亜沙子が持っていた買い物袋を取り上げ台所まで運んだ。

買い物袋をいきなり取り上げられ、少し怒った亜沙子の後ろから母親が家に入って来た。

僕は、買い物袋を台所まで運んだことを母親に褒めてもらうため、その小さい手から買い物袋を離さなかった。

亜沙子が靴を脱ぎながら、荷物を奪った僕に対して大声で文句を言っている。

僕は亜沙子が言っている言葉を無視し台所で母が来るのを待った。

文句を言っている亜沙子を宥めている母の声がだんだん近づいてきた。

台所と茶の間の間に掛けられたレースのカーテンをめくり待っていた母親が台所へ入って来た。

「あら、荷物を運んでくれたの?お手伝いありがとね。」と母はゆっくりとしゃがみ、僕と同じ目線で答え、頭を優しく撫でてくれた。

「うん。亜沙子が重たそうに運んでいたから手伝ったの。」と嬉しさを滲ませた表情で答えた。

「そう。お姉ちゃんの手伝いもしてくれて一七は優しいね。もう大丈夫だから、ご飯が出来るまでお姉ちゃんと遊んでなさい。」と母が茶の間の方を指さして言った。

「うん。」と元気よく答え、亜沙子が遊んでいる茶の間に行った。

亜沙子はいつも大事に持ち歩く人形を使って、ままごとを楽しんでいた。

僕は亜沙子を横目で見ながら押し入れの戸に印刷された幾何学模様をいつものように指でなぞっていた。

「一七も一緒に遊ぼうよ。」と、さっきまで怒っていた亜沙子が優しく誘ってくれた。

押し入れの戸に印刷された幾何学模様をなぞっていた僕は戸から指を離し、亜沙子の隣にちょこんと座った。

「はい、一七はゴンちゃんね。」と茶色い犬の縫いぐるみを手渡された。

いつも亜沙子と遊ぶときの僕のおもちゃは決まってこのゴンちゃんだった。

そのゴンちゃんの口のまわりには、渇いて固くなった米粒が幾つか付いており、僕はその固くなった米粒をカリカリと爪で掻くのが好きだった。

「ゴンちゃん」は亜沙子にとっては可愛い「犬のゴンちゃん」だが、僕にとってのゴンちゃんはただの汚い犬の縫いぐるみにしか見えず、本当はゴンちゃんを触るのも嫌だった。

だから亜沙子と一緒に遊んでも、お互い「ゴンちゃん」に対する思いが違うため、遊びがかみ合わず、途中で亜沙子のほうが匙を投げる。

僕はゴンちゃんを亜沙子の隣に置き、再び押し入れの戸に印刷された幾何学模様を指で触りはじめた。

台所から夕飯を作っている音と美味しそうな匂いが部屋中に漂ってきた。部屋でままごとを楽しんでいた亜沙子は、漂ってきた匂いに誘われるように台所に走っていった。

亜沙子がいなくなった部屋にぽつんと残されたゴンちゃんと僕は台所から聞こえてくる2人の会話を羨ましそうな表情で聞いていた。

台所から聞こえてくる作業音が段々小さくなってきた。

「一七ぁ、夕飯の準備ができたからお姉ちゃんと手、洗ってきなさい。」と、台所にいる母が言った。

「一七行くよ。」と、部屋の入口からひょこり顔を出した亜沙子が言っている。

ゴンちゃんと僕がいた部屋は、ゴンちゃんだけになった。

亜沙子と並んで洗面台で手を洗った。

亜沙子より背の低い僕はうまく手を洗うことが出来ないためいつも石鹸を使わなかった。

石鹸にも手が届かないし、水が出てくる蛇口が手の届くぎりぎりの距離だった。

水で簡単に手を洗った僕はタオルで手を拭き茶の間に行こうとしたのだが、亜沙子が僕の服の袖をひっぱり、指先に付いている汚れをしっかり洗うように指摘されたが、うまく洗えない僕は走って母のところへ行った。

美味しそうにできた料理をテーブルに並べている母の服をひっぱり亜沙子に指摘された汚れた手を見せた。

「うまく洗えなかったの?」と、少し汚れている指先を見て言った。

「うん。石鹸に手が届かなくてうまく洗えなかった。」と、僕が言うと。

「それじゃ、一緒にもう一度洗おうね。」と2人で洗面所に行き汚れた手を母が優しく洗ってくれた。

タオルで手を拭いた後、仄かに石鹸の香りが残る自分の手をじっと見つめた。

母が取りやすい位置に置いてくれた石鹸を掴み、僕はゴンちゃんのところに行った。

床にうつ伏せの状態で床に置かれていたゴンちゃんを拾った僕は、固いご飯粒の付いた顔やカビ臭い体を持っていた石鹸でゴシゴシ擦った。

一切の水気がない縫いぐるみの表面が段々白く濁り糊を付けたようにベタベタしてくる。僕は指に絡まる感触が気持ち悪かったが擦る手はやめなかった。乾燥した白い石鹸の表面には抜け出た茶色や黒色のビニール繊維がびっしりと付着ていた。

ゴンちゃんの汚れを取ってあげようと夢中になっていた僕には母が台所で呼んでいる声すら聞こえていなかった。

擦っていた一部の表面が少しずつ白くなってきた。

でもそれは、きれいになった訳ではなく茶色や黒色の部分の繊維が抜けて短くなり根本の白い部分が露出していたのだった。

そんなことには気づいていない僕は、自分の手できれいになっていくゴンちゃんを愛おしく思えてきた。

床に押し付けた状態でゴンちゃんを擦っていた僕の手元に勢いよく赤い座布団が飛んできた。

びっくりした僕はゴンちゃんから手を離しゆっくりと顔を上げた。部屋の入口に凭れかかって泣いている亜沙子がいた。

「ゴン…ゴンちゃん…死んじゃう…。」と、亜沙子のか細い声が震えた唇から聞こえた。

僕はどうしてゴンちゃんが死んじゃうのか、どうして亜沙子が泣きながら座布団を投げてきたのかが理解できなかった。

亜沙子はわんわんと泣きながら部屋に入ってきて石鹸まみれのゴンちゃんを抱き上げ連れ去って行った。

台所に行った亜沙子は僕がゴンちゃんにしていたことを母に訴えていた。その2人の会話を僕は誰もいない部屋の隅で聞いていた。

僕はただ、汚れてしまったゴンちゃんをきれいに洗ってあげたかっただけだった。

小さな手と細い指の先には抜けた縫いぐるみの繊維と白い石鹸滓がびっしり付いていた。

その手を見つめていたら自然と涙が落ちてきた…。

「おい。一七、どうしたんだ。」と、仕事から帰ってきた父が部屋に入ってきた。

「ゴンちゃん洗ってたの…。」と言い、走って洗面所に向かった。

洗濯機と洗面台の間から体重計を引っぱり出し、その上でつま先立ちになり蛇口をひねった。

勢いよく出てくる水に手を伸ばし、指の先にたくさん付いている僕の頑張った証が少しずつ排水溝へ流れ落ちていく。

母が丹精込めて作ってくれた夕飯を仲良く4人で食べて、歯磨きを終えた僕は1人寝室に向かい、収納棚に置かれた動物図鑑を取り敷かれた布団に入った。

母が戸棚から喘息の飲み薬を取出し枕元に水と一緒に置いてくれた。母が寝室から出て行くと亜沙子がやってきた。

横になり図鑑を読んでいる僕の足を蹴飛ばし亜沙子が睨み付けている。

洗面所から父が亜沙子を呼んでいる。

亜沙子はもう一度僕の足を蹴り洗面所から呼んでいる父のもとに行った。洗面所では父と亜沙子が風呂に入るための準備をしている。

僕は風呂から微かに聞こえる会話を聞きながらいつしか寝てしまっていた。

早朝母が寝室から出て行く引き戸が閉まる音で目を覚ました。昨晩、喘息の発作が出なかったため久しぶりに朝までぐっすり眠ることが出来た僕は寝室を出て茶の間に行った。

茶の間に置かれた2人掛けのソファーに横になり柾目模様の天井をしばらく見ていた。

ソファーの上には天井から30センチくらい離れて吊るされた太い紐が通っている、その太い紐には大きさがまちまちな色とりどりの洗濯ものが干されている。

その洗濯物の先には両手を上げてバンザイした縫いぐるみのゴンちゃんが洗濯バサミでとめられ干されていた。

驚いた僕はソファーから飛び起きて干されているゴンちゃんの真下に行った。昨日まで石鹸まみれでベタベタになっていた汚いゴンちゃんが、きれいに見ちがえた姿になって干されている。口のまわりにこびり付いていたご飯粒は1つも付いていなかった。

僕が物心ついた時から一緒に暮らしている縫いぐるみのゴンちゃんが2槽式洗濯機で丁寧に洗濯され僕らの洋服と一緒に干された過程を思い浮かべて1人で笑っていた。

僕は台所で朝食の用意をしている母のところに行き、きれいになったゴンちゃんに代わってありがとうとお礼の言葉を言った。

エプロンで濡れた手を拭き、しゃがんだ母は

僕に笑顔で洗濯されたゴンちゃんのことを話しだした。

「昨日、一七が石鹸を使って一生懸命ゴンちゃんの汚れを取ってくれたでしょう、でも石鹸まみれでべたべたして嫌がっていたゴンちゃんをみて亜沙子が一緒にお風呂に連れて行って石鹸を濯いでくれたのよ、一七が汚れていたゴンちゃんに気づいて石鹸で洗ってくれたからきれいになったのよ。でもね、ちゃんと最後に水で濯ぎ落とさないといけないから覚えておいてね。」と説明してくれた。

僕は亜沙子が投げた座布団が飛んでこなかったら、ゴンちゃんを洗面所に連れて行ってちゃんと洗い流そうとしていたことを母には言わず小さな心にしまい込んだ。

母は干されているゴンちゃんを洗濯バサミから外し、そっと僕に手渡した。仄かに石鹸の香りがするゴンちゃんを優しく抱きしめ亜沙子が寝ている寝室に行った。

僕は寝てる亜沙子に静かに近寄った。

少しの間サンタクロースになった気分の僕は亜沙子の隣にきれいになったゴンちゃんを優しく寝かせた。


           第1話 春の月 完


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