Deep Down
太陽が頭上に届くか届かないかの高さまで昇って、少し温かくなってきた頃。
いつもより早めの昼食を終えたサラは、執事のアルバートに散歩に付き合って、と言い広い屋敷の広い庭を歩いていた。動くにはあまり適していないワインレッドのワンピースの裾を踏まないように、慣れた足取りで庭の奥へ奥へと進んでいく。
散歩にしてはいつもとコースが違いすぎることに、執事が不信感を抱きながら尋ねる。
「お嬢様? どちらまで行かれるのですか。今日は随分と長く歩かれますね」
「……今日は、森に行きたいの」
「はあ」
珍しいことを言う主人に少し目を丸くする。
主が言う森とは、屋敷を正面から見て真左にある森のことだ。
「それなら、私がお嬢様をお抱えした方が色々と都合が良いと思いますが……」
彼女の顔がうっすらと汗ばんでいるのは、恐らく気のせいではない。
あまり無理をされると、こちらが叱られてしまう。
しかしそこそこ気が強い主人は首を振って否定し、キリッと眉を上げたままずんずん歩いていく。何がそこまで、彼女の顔を勇ましくしているのか。やれやれと思いつつ、執事は素直に彼女に従うことにした。
そうして、それから十五分も経った頃。
ガサ、ガサ、ガサ。
草木を踏み分けて、小道らしき所をただひたすら歩いていく主人と執事。
森の中はたくさんの樹木のおかげであまり陽が当たらず、比較的涼しい。
お嬢様や誰かがこうやってこの森に入ることがあるならば、この獣道と化している小道の整備もしなくては。屋敷に戻ったら早速、植木職人に相談でもしてみるか。呑気にそんなことを執事が考えていると、前を行く主はピタリと止まった。ずっと早足で歩いていたため、心なしか少し肩で息をしている。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「……ええ……」
そう言う返事の割に、彼女は俯いたままだ。
「お嬢様?」
もう一度尋ねると、主人はやっとこちらを向いた。が、綺麗な濃い緑の瞳に涙をたくさん溜めて、薄いピンク色の口元は、何かを必死に耐えているかのように堅く閉じている。
「どうしたのですか」
今にも頬を伝おうとしている涙を拭こうとすると、阻まれた。そして、意志の強い瞳に睨まれる。
「私が、前に言ったこと覚えている? サラ、って名前で呼んで、って。昔みたいに、砕けた口調で話して、って」
いつからか私の幼馴染は、私のことを『お嬢様』と呼ぶようになり私の執事になった。いつからか私の執事は自分のことを『俺』ではなく『私』と呼ぶようになった。仲良しだった私達の間に、何かができてしまった気がした。
それがとても悲しくて、ある日、私は言った。『前みたいに、友達みたいに話して』って。そう言ってからはそのお願いを聞いてくれていたのに、最近また、執事口調に戻ってしまった。
あなたの声で、私の名前が呼ばれることはなくなってしまった。
理由は、うすうす勘付いている。
私が、婚約したからだ。
「アル、私がお願いしたら笑って言ったのよ。『かしこまりました』って。忘れちゃったの?」
「……しかしお嬢様、今はもう、私のようなものが気軽に呼べるようなお名前ではありません」
「っ……、あなたは、それでいいの?」
そうやって聞いてくる彼女に、すぐに返事が出来なかった。
それでいいなんて、思うわけがない。だけど、彼女はもう、嫁入りしてしまうんだ。
大人になりきれない俺の葛藤をよそに、彼女は口を開く。
「……私、分かっているの。お父様のお仕事のために、今まで大切に育ててくれたお父様やお母様のために、嫁がなくちゃいけないって。向こうの方だって、ちゃんとしていて、申し分ないわ。私のために、たくさん気を配ってくれる優しいご子息だった。でも……、でも、私、アルが好きなの。あなたが、好きなの……!」
いけない、いけない。我侭を言ってはいけない。
昔、私が小さい頃、お父様に言った。
『わたしね、おおきくなったら、アルとけっこんするの! いいでしょ? おとうさま!』
あの時お父様は、決して頷かなかった。ただ曖昧に笑った。その時の笑顔の意味が、今やっと分かった気がした。
涙が、ついにこぼれた。
いけない、いけない。抱きしめてはいけない。
のに、自分を抑えられなくて、サラを自分の胸に抱いてしまう。幼い子をあやすかのように頭を撫でる。久々に触った彼女の金髪は、柔らかかった。
「サラ。これが、最後だよ。これが、最後だから」
サラが泣き止むまでは、俺はこうして、ずっといるから。
叶わない夢を見る、二人きり、森の奥。




