夜食賛歌
そろそろ眠らないと明日に響く、と至極真っ当なことを考えて時計を見上げると途端に物足りない気持ちになる。夕食は既に済ませているのに、それももう三時間は前だ。腹が減っているような、そうではないような気持ちだった。
夜中の空腹とは何故か非常に寂しい気持ちになってこのまま寝てしまっていいのだろうかと思わせる。太るぞ、なんて声がどこかから飛んできそうだが、羽鳥は気楽な一人暮らし。幻聴など無視して長らく座っていた自室のパソコン前から台所へのろのろと移動した。
電気もつけずにこそこそと冷蔵庫を開ける己の姿は泥棒めいていて、無意味に罪悪感が腹に積もる。決して悪いことをしようとしているわけではないが、冷蔵庫内の電気が妙に明るく羽鳥の手元を照らすものだから、脈がはやくなる。雑多としているが、それほど多くもない冷蔵庫内。納豆、たまご、チーズ、一つ一つ見て考える。
「・・・白米はある」
炊飯器には、余ったら冷凍しようと考えたまま放置された白米が残っている。ラップに包むのが面倒で結局明日の朝食となる予定だったものだが、夜食で食べてしまっても構わないだろう。白米があるとなれば先ほど微妙な気持ちになった納豆やたまごといった食材も悪くない。夕食ではなく夜食なのだから、それぐらい軽いもので済ませておくべきなのだと分かっているが、頭のどこかでそれでは足りない、と思う。
何か食べたい。もちろんこの時間は何を食べたって美味く感じる背徳の時間だが、それでもできるだけ美味しくて満足感のあるものがいい。卵かけごはんは魅力的だが、今はもう少しパンチのあるものを欲していた。
「・・・あっ」
羽鳥は閃いてすぐに冷凍庫を開けた。詰まっている冷凍食品の中にはチャーハンなどもあり、それはそれで誘惑されるが思い出したのはそれらではない。
「これこれ、角煮」
本来冷凍するものではない薄っぺらいパウチを引っ張り出して羽鳥は目を輝かせる。今日のおかずにもう一品!という煽り文句とともに売られる電子レンジで温めるだけで食べられるものだ。もちろんそのお手軽さの代わりに内容量は大したものではないが、夜食になら丁度良い。広告の品で少し安い時にまとめて購入し、冷凍していた。今こそ出番だ、と思ってそのまま電子レンジへ突っ込む。
「ふむ、冷蔵商品を冷凍しているし長めに・・・」
温めタイマーを適当に設定して、その間に白米を丼によそっておく。炊飯器の保温を切って暫く経っているが、まだ温かいので白米をレンジにかける必要はないだろう。しゃもじを片手に白米の量はこれでいいのかと葛藤していると、電子レンジから角煮の甘い醤油の香りが鼻をくすぐった。
「・・・せっかくだからな、大盛ではないから」
羽鳥はしゃもじで女々しい量の米をさらに追加した。
「あちっ、温めすぎた」
タレが一部焦げてしまっているのを見て、勿体ないと思った。だが思っている以上にたっぷりタレが入っていたらしく、パウチを逆さにして中身を一気に出せば、白米はタレに浸ってつやつやと光り輝く。
キッチンの小さな電気をようやくつけて、充満するタレの香りを深呼吸で取り込んだ。ますます腹が減る。ぷるぷるした茶色の脂身が肉らしさを助長して、何度も食べた味を思い出しては既に美味いという感想が頭を巡る。これが目で食べるっていうやつだな、と羽鳥はキッチンに立ったまま箸をもって手を合わせた。
「いただきます」
第二回の夕食開始である。
白米と角煮だけ。野菜も汁物もない上に豪華さだってないが、これぐらいシンプルかつダイレクトなものが夜食には相応しい。
「企業努力・・・!うんまい」
箸でほろほろと崩れる角煮は柔らかくて、舌一杯に広がる脂身とタレの甘味、コクはこれが正解だと言っている。角煮だけで食べればくどさを感じるかもしれないが白米もかきこめば上手く中和してくれる。
レンジでチン、なんてお手軽商品だが味は一級品だ。もちろん手作りするほうが食べ応えや量という点ではいいだろうが、もう眠るだけにしてしまいたい面倒な夜に、この気軽さで食べられるとなればさもしい一人暮らしには必需品。
「はぁ~満足」
ご馳走様、と箸をおいた。丼といってもこんなもの、あっという間だ。腹が満たされて心が豊かになったかのように勘違いはするが、何もかも面倒な気持ちは消えていない。食器は水につけて、洗うのは明日にしてしまう。満腹感とともに睡魔がやってきて、歯を磨いて眠ろうと、羽鳥はぐぐっと身体を伸ばしつつ洗面所へ向かった。
◆
夜食に角煮丼はやはりしんどかっただろうか、と起床後になんだか胸やけのような胃の重たさを抱えて後悔をしたが、朝食を食べたらそんな葛藤はケロッと忘れた。僅かに残っていた白米をさらえてしまい、味噌汁と納豆と海苔、これだけで十分すぎる朝食だった。
「昼はパスタかラーメンがいいなぁ」
「もう昼食の心配か、羽鳥~」
「おはようございます天木さん、フレックスですか」
始業時間も過ぎた遅めの時間に声をかけてきた天木に反応して振り返ると、羽鳥はぎょっとした顔を晒した。それもそのはず、昨日までなんともなかった天木の尻には妙に大きな毛玉があった。女子高生のような大きなキーホルダーでもつけているのかと思ったが、その毛玉はゆらりと勝手に動き、天木の動きの邪魔にならない程度になっている。
「尻尾?」
「おお、そうそう。狐の尻尾だって言われたわ」
「狐の・・・これが」
確かにボリューミーで色味も狐らしいものだ。天木は毛づくろいをするように自前の尻尾を撫でつけている。困ったなぁという口ぶりだが満更でもなさそうな表情だ。
「そんな急に生えるもんなんですか」
「俺も驚いたよ、猫の尻尾生えた派遣社員いたじゃん。あの子から移ったっぽいんだよなぁ」
「尻尾病って感染性でした?流行ってるんですっけ」
「いやぁ知らん。どうなんだろな。最初は飛沫感染かなんか言われてたけど尻尾生えるだけだからって若い子なんて全然マスクせんし」
天木はなんてこともなさそうに羽鳥の隣へ座ろうとして、すぐ尻尾が邪魔だと気づいて、手も使わずにひょいと持ち上げる。どうやら尻尾はちゃんと天木の意志で動かせて、痛覚などもあるらしい。玩具みたいなものかと思っていたが、しっかり生えているらしい。不思議な病気だ、と羽鳥はすっかり珍しくもなくなったトンチキな病気に改めてそう思った。
「ワクチン開発されないんですかねぇ」
「最近の病気って変なのばっかりだしなぁ、無理だろ。この間なんて妹が、くしゃみしたら花びらまき散らす新種の花粉症になったって言ってた」
「それ手品師だったりしません?」
そのうち本当に人間が動物になる可能性もあるな、と羽鳥はアイスコーヒーを啜った。仕事は繁忙期を過ぎて、急ぎの仕事はほとんどない。多少のデータ整理は必要だが抑えるべき会議日程などはなかった。そのためにのんびりと天木と話し込んでいた。天木自身も突然の尻尾病に誰かへ話を聞いてほしいようだった。いつもより困惑と興奮があった。
「ウイルスの変異ってここまで進化すると思いませんでしたよ」
ぽつりとこぼした羽鳥の言葉に天木は、ほら見ろと言って尻尾を揺らす。毛の一本を摘まみつつ羽鳥へ触ってみろと尻尾の先を差し出した。恐る恐る手を伸ばせばごわごわとした硬めの毛に、しっかりと芯があり、やたらと熱がこもっていた。やはり作り物ではなかった。血の通った尻尾だ。
「握ればわかるが骨もちゃんとある。もうこれ風邪とかじゃなくて遺伝子に直接影響してるもんな。進化論が変わる時代だなぁ」
「面倒な病気には罹りたくないですねぇ」
しみじみと羽鳥はため息をついて、今更ながらマスクをした。本当に飛沫感染だとすればかなり危うい気がする。
尻尾が生えたり、花を吐いたり、目の色が感情で変化したり、爪色が派手になったり、ここ最近は一般的な病気といえないような珍妙な現象が続いている。医療業界も研究を急いでいるがさっぱりわからず、陰謀論があちこちで湧きだしているところだ。だがネットの海にも政治の沼にも大して浸かっていない一般人たる羽鳥は、健康を害さない病気ならなんてことない。痛くて苦しい一般的な病気よりも、気づいたら尻尾が生えているぐらいのほうがまだマシだと楽観的に構えていた。
「いやぁ最近の居酒屋ってのは飯が美味いなぁ」
「お通しから洒落てましたもんね」
トラブルもなく残業もなく、定時であがって天木と一杯飲んでいくかと入った店はよく行く汚い居酒屋ではなく、小奇麗で飯も上手く、酒も豊富だった。ただ少々量が少なく値が張った。ノンアルコールカクテルも多かったのでおそらく女子会などで使われている店なのだろう。手の込んだ美味い料理だったので満足感は十分だった。
「あれ美味かったなぁ、明太子のってた天ぷら」
「あの一口サイズの、美味かったですね。俺はサーモンが甘辛味になってたアレ・・・」
素面であっても料理の名前も材料もよくわかっていないのに、酩酊していればなおさらである。なんか美味しかったなぁ、という意見以外に具体的なものは出てこず、男二人は、あれ、あれ、といいつつご機嫌だった。
「締めにラーメンでも行きますか」
「あー、いいなぁラーメン。でも俺前に健康診断ひっかかったしなぁ」
赤ら顔で嬉しそうにしたが、天木はすぐに大きくため息をついて羽鳥の誘いを断った。本当に渋々、といった具合で羽鳥が少し強引に引っ張っていけば流されそう、というかそうして欲しいと言わんばかりの様子だったが、羽鳥は面倒な気持ちになって素直な後輩の皮を被ることにした。
「明日も仕事ありますし、仕方がないですね」
「おぉ~そうだよ今日金曜日じゃないんだったわぁ」
分かっていた事実を大げさに嘆いて、天木は憂鬱そうな表情を隠さずに駅の改札へ消えていく。羽鳥はこのまま帰ってもいいが、一人でラーメンを食べに行ってもいいなぁと思った。腹具合は正直言えば別に空腹ではない。むしろ腹八分、丁度いい状態だろう。
「・・・結局こうなるんだよなぁ」
ぐっとこらえて帰宅した後、小鍋を片手に袋麺を茹でている。
いつ買ったか覚えていないストックの袋麺塩味。お湯を注ぐだけのタイプもあるが、今夜の気分は袋麺。そして帰りのスーパーでうっかり買ってしまったチャーシューと煮卵。これなら色々考えたとしてもラーメン屋でしっかり一杯食べたほうが良かったのではないだろうか。
「おうちラーメンの良さを堪能するしかない」
残していたって仕方がない。羽鳥はそう言い訳をしてチャーシューも煮卵もパックの蓋を全てめくりとった。器ギリギリまで入ったスープをこぼさぬように慎重に、しかし見栄えを気にする必要はないので豪快にトッピングしていく。
野菜は冷凍していたネギだけ、なんて不健康なという感想と同時に、ラーメンに健康志向など馬鹿垂れめ、と罵る自分もいた。袋ラーメンのスープはなんとなく胡椒の香りが強い気がしている。くすぐられた鼻がひくひく動いて腹八分目だったはずなのに空腹の音が響いた。
「自炊の悪いところは作る工程が空腹に響くところだな」
さっそく、と麺を優しくほぐしてから啜る。
ハリガネとは言わないが少し硬めが好きなのでレシピ記載の時間より少し短めに湯がいた。しっかりとした歯ごたえになっていて、袋麺特有のちぢれ麵がスープとよく絡んでいる。
「はぁ~、美味い」
額にうっすら汗をかきながら、ずずっとスープを飲む。塩ラーメンだが、しっかりとした濃い味。トッピングしたチャーシューのタレが混じって味わい深い。お店のラーメンよりもチープだが、このチープさがいまの舌に合う。
「これはやっぱ飲むかぁ」
仕方ない、仕方ない。冷蔵庫には缶ビールがあるのだ。
羽鳥は酒豪というわけでもないし、毎日一本缶ビールというタイプでもないが、下戸ではなく、むしろ焼酎だビールだワインだとちゃんぽんしても悪酔いしないようなタイプだった。二日酔いに悩んだこともない。
冷蔵庫から出された冷えた缶はすぐに結露でうっすら羽鳥の手を濡らす。プルタブを持ち上げればカシュッと音を響かせ開栓する、この瞬間が一番好きかもしれない。のど越しだとか泡の比率がどうとかよりも、冷えた缶がいいと思う。
「はぁ~やっぱエビス」
別に特別好き、というような味にこだわりがあるほうではないが、はじめて飲んだビールのメーカーに結局返ってきてしまう感覚だ。ほろ苦さとなめらかな泡と炭酸が喉を通って落ちていく。濃い味のラーメンと相性がいい。
すっかり麺の消えたスープの水面が揺れる様は米を放り込むかどうかの戦いだ。どう考えたってカロリーオーバー、ついでに塩分的にもアウトだ。缶ビールも空になって、もう一本という誘惑と入り交じってぐるぐると考える。
「いやいや、ダメダメ」
何時だと思っているのやら、と時計を見上げると想定していたよりも遅くなっており、急激に正気に戻った。ラーメンも缶ビールもすぐに片付けて風呂へ向かった。これ以上は明日に響くと焦っていると、なんだか耳鳴りがした。急に立ち上がったからか?と首をぐるりと回して、ゆっくり湯船に使った。
いつのまにか耳鳴りは収まっていた。
◆
最近よく耳鳴りがする。変な病気じゃないだろうな、と耳鼻科へ行ったがよくわからないと言われて経過観察となった。
「尻尾じゃなくて、耳が変化しちまう病気もあるらしいぜ」
「まじですか・・・猫耳のおっさんとかがリアルになる時代」
天木は尻尾を振りながら笑った。最近の天木はもふもふの尻尾で女性社員にやたらと人気で、羽鳥は羨ましいような妬ましいような気分だ。単純に隣の席に群がられるのが鬱陶しいというのもある。尻尾の何がいいんだ、椅子から飛び出しばっさばっさと揺れる狐に尻尾を見ながら歯噛みした。
「なんでも聴力が良くなりすぎて慣れるのに時間かかるんだと」
「そりゃ大変だ、でも難聴になったりするよりマシかな」
「他にも耳から糸がでるとかタンポポの綿がつまるとか」
「それ都市伝説じゃないです?」
羽鳥は話し半分に聞き流して、もう一度どこか違う耳鼻科へいこうと思った。不調がでるとこうして病院巡りを繰り返さないといけなくなるのが嫌いだ。特に最近は妙な病気が流行っているから、どこが専門かもわからないし症状がでるまでが長かったり検査も煩雑で疲労感の方が大きい。
「俺も尻尾が生えるだけならいいんですがね」
負担はせいぜいズボンに穴を空けないといけないぐらいだろう。
その日は残業を少しして帰路へついた。スーパーに寄って帰るか、何か店へ入った晩飯を済ませるか、駅の改札を通る前に考える。本当のところ今週末に耳鼻科の予約をしようと考えていたのだが、空腹が邪魔をして色とりどりの看板が思考を乗っ取っていった。
オレンジ、赤と青、緑と水色、各社のトレードマークたちを眺めながらゆっくりと歩いて通りすぎる。牛丼でもいいか、いや無しだろ。コンビニ飯、ダメ。おにぎり屋、なんかちがう。ハンバーガー、悪くない。揚げたポテトの味を思い出すとそれしかない気もしてきたが、晩飯にパンの類いというのもなんとなく納得いかない。羽鳥は立ち止まってまで悩みだした。
「ピザ・・・」
それだ!と言われた気がしたが結局パンの類いじゃないか、と頭を振った。冷静になれ、晩飯にピザなど選べば、眠る前にまた米が食べたいなどと言い出しかねない。ましてやパーティーでもないのに一人でピザを食べる気か、と宅配ピザの看板を睨む。足はいつのまにかメニュー看板の前にまできてしまった。ずらっと並んだバイクを眺めて、そして壁の広告にある店舗受け取りなら一枚無料の文字に唸る。
ピザ二枚、Mサイズなら余裕なのである。羽鳥は健啖家であることを自覚している。別に友人と食べますという顔をして購入し、余ったら冷凍すればいいのだ。食べきらなくたっていい。明日に回して問題ない。ピザのチーズが伸びる写真に頭がくらくらしながらそんないくつかの言い訳を用意する。
「あっ」
メニュー看板を見て本格的になんのピザを頼むかを考えていると、サイドメニューにドリアの文字があった。米だ。
最早迷いはない。キリッと顔を引き締めてピザ屋へ堂々と入店した。
一人暮らしのローテーブルにピザの箱が二つ広げられ、その共にはコーラを選んだ。ピザにはコーラだろうという固定概念はポップコーンと映画ぐらいにある。もうその組み合わせだけで何かが始まりそうでワクワクする光景だ。実際には別にサッカーもボクシングも始まらないが、それはいいのだ。何にもない日の贅沢な夕食だ。
「広げられたピザを独り占めしていいってだけで最高だわな」
口元が緩むのを抑えられずニヤニヤとピザを高く掲げてチーズをわざとらしく伸ばす。魅惑の三角形の先に噛みつけば、濃厚なチーズの香りと塩気が胃袋を刺激する。きぃんと耳鳴りがしている気がしたが、咀嚼の音のほうが大きくて敢えて無視をした。食欲を優先し、大量のチーズと戦った。ピザは三種類のチーズの物と、王道のマルガリータにした。胸やけが怖くてピザが食えるか、今が一番若い胃袋だという精神でいる。羽鳥はまだギリギリ二十台だが天木を筆頭に人生の先輩たちに散々疲労胃もたれ体重の泣き言を聞いているのでそこそこ怯えている。
「やっぱクリスピー生地が一番だな」
薄手でパリパリ食感のクリスピー生地を羽鳥はふわふわなタイプよりも好んでいた。二枚それぞれの味を堪能したあたりで、残りは二切れずつほどになったあたりで少しの飽きがきた。
「さぁてドリア!」
ピザを味変するより米を食べようと付属の小さなスプーンを構えてプラスチックの蓋をとる。サイドメニューなので手のひらサイズの丸い容器で、蓋の内側についた湯気の結露が手のひらを濡らしたのでいつもなら温め直していたと思うが、その時は妙に勢いづいてかきこんでいた。
「ソーセージのってるの大正解だな」
コンビニや冷凍食品のドリアしか食べたことなかったため彩りを考えられたソーセージにピーマンなどが載せられた目の前のドリアに感心した。焦げ目がより一層見た目を引き立てる。冷めたドリアのチーズはあまり伸びなかったが、米と絡んで美味しいのは変わらない。
「はぁ~ごちそうさま」
小さなドリアは気づいたら空になっていて、満腹感とともに手を合わせていた。まだピザは残ってはいるがこれは明日でいいだろう。ラップをして冷蔵庫へ、と手早く片付けているタイミングで、また耳が痛む。いつもの耳鳴りではなく、閉塞感と圧迫感があった。
「・・・病院なぁ」
一晩様子見などすると朝には聴こえなくなっているなんて最悪の状態にはなりたくない。普段はそう考えているが、いざこうしてその時がくると問題ないんじゃないか?と思ってしまう。病院を探すのも実際に行くのも面倒だからだ。羽鳥は己が自覚しているよりも怠惰だと知るべきだろう。
「・・・・ん?治ったか」
大した時間ではなかった、だがそうして迷っている間に痛みも圧迫感も消えた。安堵とともに首をぐるっと回して三半規管などに不安がないか考えた。声を出して聴力に問題がないことなど、素人らしい知識で確認して緊急ではないと勝手に判断する。
「まぁ、明日耳鼻科予約しておくか」
ため息とともにスマホを取り出して、駅前の耳鼻科を予約した。
平日の夜までやっているクリニックは予約がいっぱいだったが、なんとかねじ込んだ。今度は原因がわかるといいんだが、とぼやいてその日は眠った。
結局、終業後に飛び込んだその耳鼻科ででも経過観察、と言われて終わった。しかも医者は最近の珍妙な病気にうんざりしているのか、やけくそ気味の診察でそのうち角でも生えてくるんじゃないですか、と言い捨てる始末だった。
これなら最初にいった耳鼻科にもう一度行ったほうがよかっただろうか、と羽鳥は眉間にシワを寄せた。頭痛がする。妙にイライラとして、羽鳥は受診後に駅前の喧騒から逃れるようにしてさっさと帰宅した。本当は駅前の店で晩飯を食べて帰るつもりだったが、今は静かな場所で一人安全に空腹を慰めたかった。
「イライラするのは空腹のせいかもしれん」
腹が満ちれば眠気もくるし、気持ちも落ち着く。明日は休みであるし、手の凝った料理をしてもいい気分になった。スーパーに入って食材を眺めるも、これだ!という料理の名前は出てこない。普段作らない人間が急に何を作るというのか、逃げかえるようにしてその場を去って、レトルトや冷凍食品コーナーへ移動した。
豆腐だけ、キャベツだけ、なすびだけ、食材一種類を追加して炒めたり温めたりするだけの簡単便利な食品たちを順番に視線をやり、己の舌が求めている食べ物を考える。考えなくとも大概は肉や塩分を求めているのだが、昨日のピザ二枚を思い出すと少々最近食事がやんちゃすぎると反省したいところだ。ここらで不摂生を帳消しにできる健康的な食事がしたいという安易な発想である。健康とは食材の足し引きで相殺できるものではないということが分かっていないのはまだ羽鳥が二十台だからかもしれない。
「お弁当のおかずってこんな種類あんのか」
昼は百パーセント外食、普段弁当など作っていない羽鳥には冷凍食品コーナーのお弁当のおかず系は学生時代の懐かしいおかずに該当する。そんな思い出のおかずたち以外に目新しい商品、例えば小さなカップに入ったナポリタンやらグラタンやらといった、羽鳥が学生の頃には見たことのない冷凍食品に時の流れを感じるとともに新鮮な好奇心が疼いた。
「ちっさいオムレツ?カレーコロッケ?いいもんだなぁ今の弁当組。おお、この春巻き懐かしいな」
そんな駄菓子コーナーでついつい立ち止まってしまうようなノリで羽鳥は持っていた買い物かごをお弁当のおかずでいっぱいにした。自炊をしようという気がまるでないのが見て取れるが、羽鳥の持論として作った飯をタッパーで一食ずつ小分けにする豆さを持っていなければ一人暮らしの自炊は割高になる、というものがあるため、これからも反省することはないし、気の向くままにレトルトを楽しむだろう。
さて、そんなお弁当のおかずを食べるにふさわしいのは、白米。帰宅した羽鳥は予約した通りに米が炊飯されているのを確認して、すぐに買って来た冷凍食品をレンジで温めていく。もちろん食べない分は冷凍庫へ、と綺麗に収まるようにしていると面倒だから全てチンしてしまえ、と囁かれた気がした。
「・・・?」
かつかつ、と爪で叩くような音が広がった気がする。その音はどこかくぐもっていて、窓や部屋の中ではない気がした。野鳥が窓の外に止まっているのかもしれない、と視線をやったがそこにあるのは夜の暗闇だけで、確信は得られない。今日受診した医者のやさぐれた顔が思い出されたが、耳鳴りではなかったこともあり羽鳥はレンジがチンッと音を立てたことにすぐ気を取られた。
「クオリティ高いな・・・」
皿に盛りつけることさえしない、茶色まみれの見栄えの悪さだが味が美味いのには変わりない。一個一個味見をするようにして食べていき、その冷凍食品の完成度に感心する。お弁当用だからか味が濃い目で米がよく進む。
「サラダぐらい買えばよかったか・・・」
肉類や揚げ物の系統ばかりが並んでいる中、野菜不足の気休めに買った小さなかき揚げへ箸を伸ばした。なけなしの野菜だが、衣の分厚さが噛んだ瞬間に油の甘さがじゅわっと広がり、サクサクとした食感が心地よい。だが、あくまで冷凍食品なので揚げたてには遠い。きちんと店舗で天ぷらを食べたい気持ちになった。
「明日は、土曜日か」
スマホでカレンダーを確認しながら、誰か友人でも誘って天ぷらが有名な店へ行こうか、と算段をつける。気が付くと茶碗の白米は一粒もなく、弁当のおかずたちもなくなっていた。一口サイズなので正直酒のつまみとしても優秀すぎるな、と残ったプラスチック容器を捨てた。洗い物は茶碗と箸だけ、楽なものだ。
「ご馳走様・・・どこか物足りなさを覚えるのはなんなんだろうな」
腹はしっかり満たされているのに、と未練たらしく冷蔵庫を睨みつける。明確にメインのおかずというものがなかったからだろうか、一口サイズばかりでどっしり量のあるおかずがなかったからだろうか、と思い返しながら生ハムとチーズでおつまみ、追加で冷蔵のハンバーグなどを余計に食べようとする自分を抑えつける。
「さっさと歯を磨いて寝よう」
歯磨きをするともう食べないというスイッチが入るようで、物足りない程度の食欲は抑えられる。これで眠れないなら逆に食欲が立ち上がるのだが、その日はそんなこともなく、むしろ深すぎるほどによく眠った。意識が落ちる瞬間に頭の重心が変わるようなごろりとした重さを感じたが、それも気にならないほどだった。
鳥の囀りが聞こえる。
ぱきぱき。
卵が割れるような音。
ハッと目を覚ます。いつもは重たい瞼がその時は瞬時に開き、身体も跳ね起きた。ちらっと窓を見て、しっかりと戸締りがされていることを確認すると、耳を澄ませておく。何の音も聞こえなかった。
まずい、やっぱり耳がイカレちまった!
嫌な考えが当たってしまった、という危機感で全身に鳥肌が立つ感覚がした。布団を蹴とばしてすぐに耳鼻科へいかなければと慌ててクローゼットをガラッと開いたところで、違和感を覚えた。
まず、音は聞こえている。次に足で何か踏んだ。
足をどけて踏んだものを確認すると、何か白い欠片だった。心当たりはない。そして聴力の確認のために片耳へ手をやると、状態は分からないが白い欠片が散っているようで、手のひらに細かな欠片がくっついて来た。
何か異常が己の身体に起きているというのにまるで状態が把握できない。思考も纏まらなくて、指先が冷えていく感覚がした。
ちゅんちゅん、燕のような鳴き声がはっきりと聞こえて、幻聴だと思った。ぱきぱき。再び聞こえた割れるような音と、妙な圧迫感。ばささ。と翼を羽ばたかせる音。
「・・・鳥」
視界を横切っていく、文字通り透明感のある美しい鳥。うっすらと青くて、優雅なスピードで飛んでいき、羽鳥の頭上を一回転したあとに窓へと突っ込んでいった。激突することもなく、窓がないかのようにすり抜けて、大空の中へ消えていった。
視界もおかしくなったのかと、瞬きをしたが卵の殻らしきものは耳の中にきっちり入り込んでいた。
◆
「耳から鳥が生まれる病気ですかぁ、不思議なもんですな。もう耳に殻も残ってませんし、平気だと思いますよ。といっても新種の病気っぽいですし、断言はできませんな。ところでこの殻、論文にしたいから貰っていい?」
「・・・はぁ」
最初に受診した耳鼻科へと行けば、老いた医者が好奇心でわくわくしているのを隠さぬ様子で耳の写真やら殻の写真やらを撮ったり、かなり時間をかけて診察してくれた。カルテには医者のメモ書きとして幻鳥(げんちょう、透明な鳥、耳から生まれる)、と書かれていた。上手い事いったつもりかこの爺と思ったが顔には出さなかった。
それから暫く経ったが、再び耳に卵ができるということもなかったし、耳鳴りや不調はない。医者は頭を悩ませながら殻の成分結果を教えてくれたりしたが、治ったなら正直論文については関係がないし、学会の愚痴などどうでもよかった。
「罹患の原因もわからんから完治したとも言い難いが、鳥の孵化の前後で何か変化はあったかの」
「そういえば・・・夜、腹が減らなくなりました。
医者は、鳥のために栄養を取っていたのかもしれんなと笑ったが、羽鳥は納得いかなかった。羽鳥の体重は当たり前のように増えていたからだ。




