第4章 はじめてのブヒブヒ管理局
レグレッド公国の首都は、見た目だけなら繁栄していた。
石畳はよく整備され、中央大通りには立派な街路樹が並び、
広場では大道芸が客寄せをし、屋台では肉の焼ける匂いがただよっている。
だが、その賑わいを構成する一人ひとりの顔をよく見ると──そこにあるのは、のんきな幸福ではなく、「諦めの入った慣れ」のようなものだった。
ゲンは、その大通りの端っこを、ぼんやりと歩いていた。
(……オセロから、まだ一日しか経ってないんだよな、これ)
人間オセロでの地獄の一日。
そしてそのあと、レグレッド公直々のスカウト(という名の半強制)により、「人間用ブヒブヒ管理部」という謎部署に仮配属された。
肩書だけを聞けば、よく分からない。
だが、要は「この国の下界で動いている“豚システム”を人間目線で見て報告する役目」らしい。
ブヒブヒの現場見学ツアー、というやつだ。
「はあ……」
ため息は、誰にも聞かれないように、小さく吐く。
(仕事増えたなあ、オレ)
死にかけたあとに言うセリフではない気もするが、ゲンの感覚は意外とそんなものだ。
生きているという実感と、
自分がどこに向かっているのか分からない違和感と。
両方が、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざっていた。
*
「おい、そこのアンタ。最近見ない顔だな」
背後から、ガラの悪い声が飛んできた。
振り返ると、そこには筋肉質の男が腰に手を当てて立っていた。
着ている服は、貴族階級のものではない。だが、ただの平民にしてはやけに態度がでかい。
ゲンは、警戒半分で会釈した。
「ええっと……最近、こっちの部署に回されまして」
「ああん?」
男がゲンの胸元を指さす。
「そこの紙、見せてみろ」
胸ポケットに差し込まれているのは、粛清タウンホールで発行された仮身分証だ。
【レグレッド公国/特例観察平民】ゲン
男はそれをちらりと一瞥してから、ニヤリと笑った。
「へえ……“観察対象”ってやつか。珍しいもん見たな」
「……ご存じで?」
「そりゃ知ってるさ。街の底の方で暮らしてりゃ、嫌でも耳に入ってくる」
男は腕を組み、少しだけ声を潜めて言った。
「ワイ様に“おもしろい”って思われたやつは、すぐ豚にされるか、すぐ殺されるか、もしくは少しだけ延命されて“観察”される。……アンタは、その三つ目ってわけだ」
ゲンは、苦笑いを浮かべた。
「光栄なんですかね」
「さあな」
男は肩をすくめた。
「豚になって全部終わるのが“ラク”だって言うやつもいれば、観察対象にしてもらえるだけマシだって言うやつもいる。……どっちが幸せかなんて、誰にも分からんだろ」
(ですよね)
しみじみと思う。
「……あんたは?」
ゲンは逆に尋ねてみた。
「豚と観察対象、どっちがマシだと思います?」
男は、少しだけ考えるような素振りをしてから、ニヤリと笑った。
「オレは、“豚にさせられる前にブチ壊す派”だな」
「……は?」
「冗談だよ、冗談」
冗談のようには見えなかった。
男はゲンの背中をぽんと叩いた。
「名前は?」
「ゲンです」
「オレはタロウ。適当に下層で生きてる平民さ。……まあ、縁があったら、またどっかで会うかもな」
タロウはそれだけ言うと、ひらひらと手を振って市場の人混みに紛れてしまった。
ゲンは、彼の背中をしばらく見送ってから、ふと我に返る。
(……オレ、何しに来てるんだっけ)
そうだ。今日はただの散歩ではない。
レグレッド公曰く、「うちの国の“使い方”を見てこい」とのことで、豚さん関連施設の見学日程が組まれているのだ。
そしてその一発目が──
「……ブヒブヒ、食肉センター、ねえ」
手元の紙に書かれている施設名を見て、ゲンは胃のあたりが重くなるのを感じた。
*
ブヒブヒ食肉センターは、街の外れにあった。
高い塀と鉄柵に囲まれた建物。
外からは内部の様子は見えないが、時折「ブヒイイイイイィィ!!」という悲鳴じみた鳴き声が響き、そのたびに近所の犬が吠える。
ゲンが門の前に立つと、中から制服姿の職員が出てきた。
「レグレッド公から伺っております。……特例観察平民のゲンさんですね」
「なんか、その肩書き、聞けば聞くほど嫌なんですけど」
「贅沢言わないでください。普通の無能ならもうとっくに豚ですよ」
職員はさらりと言って、門を開けた。
「さ、どうぞ。今日は“日常業務”の様子を見学いただきます」
中に入ると、すぐに鼻をつく匂いがした。
血と脂と、何かが焼ける匂い。
それに混ざって、豚の体温と汗の匂いが、むわっと押し寄せる。
「うっ……」
「すぐ慣れますよ」
(慣れたくねえ……)
心の中でそう叫びながらも、ゲンは職員の後について歩く。
広いホールには、ずらりとレーンが並んでいた。
生きた豚が運ばれてくるレーン。
解体されるレーン。
切り分けられた肉が運ばれていくレーン。
「ここで働いている豚たちは、主に“オセロ落ち”と“スロット外れ”ですね」
「言い方ァ」
「最近は豚さんダービーで賞味期限切れになった子も増えてきまして。走りのキレが落ちたら、今度は肉として活躍してもらうわけです」
職員は淡々と説明を続ける。
「人間のままだと、文句を言ったり、待遇改善とか言い出したり、面倒が多いでしょう? 豚ならば、そのあたりの配慮は一切不要です」
「……そりゃ、そうなんでしょうけど」
ゲンは、レーンの上を流れていく豚たちを見つめた。
中には、明らかに“まだ慣れていない顔”をしている豚もいる。
目の奥に、人間としてのパニックと戸惑いがそのまま残っていて、足取りがぎこちないものもいる。
「この子たちは、昨日あたりに粛清されたばかりですね。……あのオセロに出てたのも、何頭かこっちに回されてますよ」
「……そうですか」
(そりゃそうだろうな)
オセロで豚にされた人間は、ハッチの先でどこかに“割り振られる”と聞いていた。
発電所か、工場か、こういった食肉センターか。
どこに行っても、労働か消費か、その両方か。
「ゲンさんは、豚を見るのが辛いですか?」
職員の問いに、ゲンは少し考えてから答えた。
「……人間の頃を知ってたら、たぶん、もっと辛かったかもしれません」
「ふふ、なら幸いです」
職員は笑った。
「ここで働く人間は、豚の“前世”をあまり知らない方がいい。知り合いだったとか、家族だったとか、そういうのが多いと、いちいち感傷的になって仕事になりません」
「そんな人、ここに配属します?」
「しませんね」
即答だった。
「でも、たまにいるんです。自分から志願してくるやつが」
「……どういう物好きですか」
「“家族がどこでどうなったか見届けたい”とか、“自分もそのうち豚になるから、その予行演習をしたい”とか」
(予行演習って言葉、そんなとこで使うなよ……)
ゲンは、頭がクラクラしてきた。
自分はまだ、“ギリギリ他人事”でいられる位置にいる。
自分と豚との間に、かろうじて線が引ける。
だが、その線がどれだけ細いかも、同時に理解していた。
「……で、ここでのオレの仕事は?」
「特にありませんよ」
職員はあっさり言った。
「今日はただ、“見ておく”だけです」
「え?」
「レグレッド公の意向です。“あいつに何をやらせれば一番面白くなるか、まだ分からん”と」
それを聞いて、ゲンは脱力した。
(あの人、全部“面白いかどうか”で決めてんなマジで……)
だが、ワイ様から見れば、そのレグレッド公もまた「おもちゃ」の一つに過ぎないのだ。
そう思うと、なんとも言えない気分になった。
*
その日の夕方。
ブヒブヒ食肉センターからの帰り道。
ゲンは、市場の裏路地にある小さな酒場に入った。
「いらっしゃい──って、お前」
カウンターの中から顔を出したのは、昼間出会ったタロウだった。
「ゲンじゃねえか。……もう連れ回されてんのか。お疲れさん」
「お疲れ様です……」
思わず敬語になってしまうあたり、ゲンの性格がよく出ている。
「何飲む?」
「……水で」
「酒飲めよ、せっかく生きてんだから」
「いやなんか、今日、いろいろ見ちゃってですね……」
ゲンが苦笑すると、タロウは肩をすくめた。
「まあ、初日からアレはキツかったろうな」
「知ってたんですか」
「ここらの豚の出荷ルートは、大体把握してるさ」
タロウは、手慣れた動きで安酒を注ぎ、自分のグラスとゲンの前に置いた。
「一杯だけ付き合え。どうせこの国じゃ、明日どうなるか分かんねえんだ。……生きてるうちは、飲んどけ」
断り切れず、ゲンはグラスを持ち上げた。
喉を焼くような安い酒が、逆に今の気持ちには丁度いい気がした。
「なあ、ゲン」
しばらく他愛のない世間話をしたあと、タロウがふいに真面目な顔になる。
「──“革命ゲーム”って、聞いたことあるか?」
ゲンは、そこで初めて、その言葉をはっきりと耳にした。
「……噂では、少し」
「そうか」
タロウは、カウンターに両肘をつき、声を潜めた。
「平民が、貴族にゲーム勝負を仕掛けられるシステムだ。ルールは平民側が決めていい。貴族側は、よっぽど理不尽な内容じゃなきゃ、基本的に承認しなきゃならねえ」
「……ワイ様の“監査”が入るんですよね」
「そうそう。ワイ様が“おもろい”と思えば開催。つまらんと思えば却下。……そして、無効になったところで、仕掛けようとした平民は大体マークされる」
ゲンは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「勝てば、平民から貴族昇格」
「負ければ?」
「即粛清。……おまけに末代まで芋虫の刑だとさ」
(末代まで……)
つまり、自分が子どもを作っていたら、その子も、その孫も、そのまた先も、
ワイ様の気分一つで芋虫にされる可能性がある、という話だ。
「そんなもんに、挑戦する奴いるんですか」
「……いるんだよ、たまに」
タロウは、グラスを回しながら言った。
「とんでもなく追い詰められた奴とか。
とんでもなく頭の切れる奴とか。
とんでもなくバカな奴とか」
「バカな奴?」
「“自分は絶対勝てる”って、根拠もなく信じてるタイプな」
自虐なのか、他人のことなのか、タロウの口元には皮肉げな笑みが浮かんでいた。
「成功した例は?」
「……一応、ある」
タロウは指を一本立てた。
「この国に、革命ゲームでのし上がった貴族が一人だけいる」
「……誰です?」
「言うと思うか?」
「ですよね」
そりゃそうだ、とゲンは肩を落とす。
「で、その人は?」
「今もまあ、うまくやってる。ワイ様にとって“まだおもろい”らしい」
「……そうですか」
ひどく遠い世界の話のように感じた。
一方で──
自分も、ついさっき、似たような“賭け”の盤面に立っていたのだ、という現実がちらつく。
人間オセロ。
一歩踏み出すたびに、誰かが豚になるゲーム。
「ゲン」
タロウが、真面目な目でこちらを見る。
「お前、さっきのオセロで、ちょっとだけ“顔が変わってた”ぞ」
「……え?」
「この国の連中はな、自分の番が来たとき、大体三種類の顔になるんだよ」
タロウは指を一本一本、折っていく。
「一つ。何も考えずに、ただ逃げる場所だけ探す顔」
「一つ。誰かを巻き込んで、自分だけ助かろうとする顔」
「一つ。全部諦めた顔」
そこで、指を止めた。
「お前は、そのどれでもなかった」
「……」
「だから、観察対象にされたんじゃねえの?」
ゲンは返す言葉を見つけられず、ただグラスの中身を飲み干した。
安酒が喉を焼く。
それでも、自分がまだ「人間の喉」でそれを味わえていることに、ほんの少しだけ安堵してしまう自分がいる。
(……でも)
その安堵が、どれだけ薄っぺらいものかも、理解していた。
(ワイ様の“おもちゃ”として、生かされてるだけなんだよな、オレ)
タロウは、そんなゲンの心の中を読むように、ふっと笑った。
「安心しろよ。革命ゲームは、誰にでも仕掛けられるわけじゃない」
「……どういうことです?」
「“ワイ様が見ているやつ”じゃなきゃ、話にならねえんだよ」
その言葉に、ゲンの背筋がぞわりとした。
ワイ様に見られている。
それは、もしかすると、革命ゲームの“予備軍”としてチェックされている、という意味でもあるのかもしれない。
「ま、それはさておき」
タロウが、わざと軽い口調に戻す。
「オレはな、別に“今すぐ革命やろうぜ”とか言うつもりはない」
「……いや、言われても困りますし」
「だろ?」
タロウは笑う。
「ただ、“こういうルールがある”ってことだけは、忘れないでおけ。……いつか、自分の足でどっかに立たなきゃいけない時が来るかもしれねえからな」
その言葉は、妙に重く胸に残った。
人間オセロの盤面。
自分の足で、自分のマスを選んだ感触。
あの感覚は、たぶん、一生忘れない。
それが、今後自分をどこへ連れて行くのかは、まだ分からない。
だが──
(……ワイ様が笑ってるだけの世界で、全部終わってたまるかよ)
そう、ほんの少しだけ。
ゲンの中で、何かがこっそり火種になり始めていた。
もちろん、その熱を、空の上で一番よく嗅ぎ取っているのは。
他でもない、ブヒブヒ笑う神様だったのだが。




