第3章 とある悪徳貴族と、ワイ様お気に入りの国
その国は、ワイ様いわく「なかなかにおもろい」と評されていた。
理由は簡単だ。豚さんダービーが強い。
それだけだ。
統治の形が美しいからでも、文化が豊かだからでもない。
ましてや民が幸せに暮らしているから、などという理由は、ワイ様の評価軸には一ミリも存在しない。
──豚が速いかどうか。
──レースがドラマチックかどうか。
この国、レグレッド公国は、その一点において、頭一つ抜けていた。
*
「レグレッド公にご注目ください。本日も素晴らしい豚脚をご用意なさったようですわ」
「ふん、あれは速いだけではありませんぞ。あの“持久力”がえげつないのだ。前々回など、最後の直線で五頭抜きでしたからな!」
天空ダービー場の貴族席には、今日もよその国の貴族たちがああだこうだと語り合っている。
その中心で、鼻で笑っている男がいた。
鮮やかな真紅のマントを肩にかけ、宝石を無駄に散りばめた指輪を両手にじゃらつかせた、中年の貴族だ。
名はレグレッド・フォン・ヴァルシオン。
この国の筆頭貴族にして、実質的な統治者である。
「お褒めにあずかり光栄ですな、諸君」
レグレッド公は、恍惚とでも言いたげな笑みを浮かべる。
「豚はいい。文句も言わん。走れと言えば走る。転べば笑いになる。……人間より、よほど素直で、よほど“使える”」
その言葉に、周囲の貴族たちは「さすが」とか「やはり」とか、白々しい賛辞を重ねた。
本音は別のところにあったとしても、
今この場で最もワイ様に近い評価を受けているのが、レグレッド公であることは誰の目にも明らかだった。
事実、豚さんダービーの過去十回の成績表には、レグレッドの名がびっしりと刻まれている。
優勝三回。準優勝四回。三位が二回。
残り一回は途中でレース中止、理由はワイ様が「飽きた」から、という理不尽なものだった。
それでも、だ。
レグレッド公の国が「ワイ様お気に入り」となったのは、自明の結果である。
「……さて、本日のレースの前に」
レグレッド公は、隣の席に視線を向けた。
「お楽しみは、こちらもですな」
そこには、ぽつんと一人の男が座っていた。
ゲンだった。
*
ゲンは、何がどうなってこうなったのか、まるで理解できていなかった。
(いや、まあ……とりあえず“観察対象”になったらしいってのは、分かるけど)
人間オセロのあと。
地獄のような盤面から解放され、控室だか牢屋だか分からない部屋に放り込まれた彼に、淡々と事務処理をしていた職員が告げたのだ。
「おめでとうございます、ゲンさん。あなたは“観察対象”に認定されました」
「……それは、喜んでいいんですか?」
「少なくとも、本日中の豚化はございません」
喜ぶべきポイントがそこしかない時点で、おかしい世界なのは言うまでもない。
その後、よく分からないまま、やれ着替えだのやれ身分証だのを用意され、「特例扱いの仮平民」として登録されてしまった。
気づけば、天空ダービー場に連れてこられ、レグレッド公の隣の席に座らされていたのである。
レグレッド公が、あからさまに品定めするような目つきでゲンを見る。
「君が、あの“黒の三枚返し”の」
「……あ、はい」
「ふむ。見た目は、本当に“どこにでもいる無能”だな」
ゲンは、何と返せばいいのか分からず、乾いた笑いを漏らした。
「ワイ様が、わざわざ“キープ”なさったと聞いてね」
レグレッド公の声色が、少しだけ興味を帯びる。
「どれほど面白い駒かと思えば……見た目は退屈極まりない。そこがまた、いい」
(なんなんだよ、“いい”って)
ゲンは内心ツッコんだが、口には出さない。
出した瞬間、隣の男に粛清されたとしても文句は言えない気がした。
「聞けば、君はこの国の出身だそうじゃないか」
「え? ああ、はい。一応……」
そう。
ゲンは偶然にも、ワイ様お気に入り国・レグレッド公国の住民だった。
偶然なのか、必然なのか、それを考えるには頭が追いつかない。
「君のような“まあまあ君”が、この国でどう転がるか。……ワイ様が興味を持たれるのも、分からんではない」
レグレッド公は、観客席の上段──誰の目にも見えない高さにいるはずのワイ様の場所を、チラリと見上げるような仕草をした。
「君、豚は好きかね?」
「……は?」
あまりに唐突な質問に、ゲンは目を瞬かせた。
「い、いや、その……食べるのは、まあ、普通に好きというか……」
「違う違う」
レグレッド公は手を振る。
「“使う”のが好きかと聞いている。労働力として。燃料として。競走馬として。……自分より下のものとして」
ゲンは答えられなかった。
そんなふうに考えたことなど、一度もない。
豚は、肉屋のショーケースの中に並んでいる存在でしかなかった。
せいぜい「ちょっと脂が多いな」とか「最近値上がりしたな」とか、その程度の感想しか抱いたことがない。
「ふむ」
沈黙を否定と受け取ったのか、レグレッド公は鼻で笑う。
「やはり君は“観察対象”だな。すぐには面白くならんが、じわじわ効いてくるタイプだ」
(薬かよ)
ゲンが心の中でツッコミを入れたちょうどその時だった。
会場全体に、甲高いファンファーレが鳴り響く。
「おお、始まるようですな」
レグレッド公が身を乗り出す。
天空ダービー場の中央、芝生のコースの内側にあるゲートが一斉に開き、十数頭の豚が、どすどすと入場してきた。
──すべて、二足歩行をやめさせられた元・人間である。
その目にはまだ、人間だった頃の知性の名残りが微かに灯っているようにも見える。
だが、その身体は完全に豚であり、鳴き声もまた、立派なブヒ声だった。
「本日の第一レース、『短距離ブヒダッシュ千』。各国から選りすぐりの豚さんたちが集まっております!」
実況役の貴族が、興奮気味にマイクを握る。
「注目は、なんと言ってもレグレッド公国産、“ヴァルシオン・スプリンター三号”!」
「ふふ、あれはいい豚だ」
レグレッド公が、我が子を自慢する親のような顔で頷く。
「元はブラックランクの無能だったが、豚にしてからの伸びが良くてね。走り込みと給餌のバランスが抜群だ。……人間のままでは凡庸で終わる命だったが、豚にした途端、実に輝いた」
(言い方……)
ゲンは、笑うべきか怒るべきか分からず、ただ黙って豚たちを見つめた。
ゲート前で、豚たちが鼻息を荒くしている。
その中の一頭が、ちら、と観客席の方を見上げた気がした。
視線が合った──ような気がして、ゲンは息を呑む。
(……もしかして)
あれは、昔同じ職場にいた男に似ていた。
少し猫背で、目つきが弱く、何をするにも要領の悪かった同僚。
名前を呼ぼうとした瞬間、スタートの銅鑼が鳴らされた。
「スタート!!」
ゲートが開く。
豚たちが、一斉に飛び出した。
どすどすどすどすどす──。
想像以上のスピードだった。
短距離レースに特化して鍛えられた筋肉が、脂肪の下で躍動し、地面を蹴るたびに芝生がえぐれる。
「ほお、今日はフライングなしとは珍しいですな!」
「さすがレグレッドの調教技術ですわ!」
貴族たちの歓声が飛び交う。
豚たちは、そんな声など知らぬとばかりに、ただ前へ前へと走る。
肉を揺らし、汗を飛ばし、ブヒブヒと息を荒げながら。
「……」
ゲンは、何も言えなかった。
さっきまで、生死を賭けて人間同士が罵り合い、押しのけ合っていた光景が脳裏に焼き付いている。
今、眼下で走っているのは、ただの豚だ。
だが、その中に、自分の知っている誰かがいてもおかしくない。
いや、もしかしたら、すでに何人も知り合いが走らされ、食べられ、燃やされているのかもしれない。
「ヴァルシオン三号、速い!」
実況が叫ぶ。
赤いゼッケンをつけた一頭の豚が、他の豚たちをじりじりと引き離し始めている。
レグレッド公の顔が、とろけそうな笑みに歪んだ。
「見ろ、あの脚さばき! コーナーでの減速がほとんどない! 人間の頃には決して見せなかった、あの“生きる意志”!」
(それ、人間の頃に必要だったんじゃないか……?)
ゲンは、心の中でツッコんだ。
だが、同時に思う。
(いや……ワイ様から見れば、“人間の頃”なんて全部“準備期間”か)
無能か有能か。
面白いか、つまらないか。
人間としての人生は、ワイ様目線で見れば、ただ豚として使えるかどうかを見極めるための長い予選に過ぎない。
レースはあっという間に終盤に差し掛かった。
「さあ、最終コーナー! 依然トップはヴァルシオン三号! 内側からメルダ公国産“サクラ・ブヒヒオー”が食らいつくが──!」
「ふん、無駄だな」
レグレッド公が、勝利を確信した口調で言う。
「うちはね、“粛清直後”の豚を使わんのだよ」
「ほう?」
隣の貴族が興味深げに眉を上げる。
「人間オセロや、他のゲームで豚になった直後の個体は、まだ“人間の怯え”が強すぎる。……あれは、走るよりも、逃げようとする」
レグレッド公は、恍惚とした目でヴァルシオン三号を見つめる。
「うちの豚は、全部“慣らして”ある。豚として走ることに、豚として褒められることに、豚として勝つことに、喜びを見いだすまで、徹底的に調整してあるのだよ」
「……」
ゲンは、その言葉にぞっとした。
人間としての自我を削られ、豚としての役割に最適化されるまで、何度も何度も走らされるのだろう。
その過程は──想像したくもない。
「ゴールイン!! 勝ったのはレグレッド公国、ヴァルシオン三号!!」
実況の声と共に、会場の熱気が頂点に達した。
レグレッド公は立ち上がり、胸に手を当てて一礼する。
「ワイ様、本日も我が豚をご覧に入れられたこと、光栄の至りです」
天空のどこか。
誰の目にも映らない高さで、ワイ様はくつくつと笑っていた。
「うんうん、ええダッシュやったなあ。ゴール手前の伸びがよろしい」
その一言で、レグレッド公の国は、また一段階「お気に入り度」が上がる。
レグレッド公自身の爵位ランクも、きっと次の集計で優遇されることだろう。
──そして、その裏で何人の平民や無能が締め上げられることになるのかは、誰も話題にはしない。
*
「どうだね、ゲンくん」
レースが終わり、表彰セレモニーが一通り済んだあと。
レグレッド公が、隣のゲンに尋ねた。
「これが、我がレグレッド公国の“誇り”だ。……感想は?」
「……正直、引きました」
口から勝手に、言葉が出た。
レグレッド公が、ほんの一瞬だけ目を丸くする。
貴族席で、彼に対してそう言える人間など、普通はいない。
「ふふ」
だが、すぐに唇の端を吊り上げた。
「いいねえ。……ワイ様が“観察対象”にするのも納得だ」
その反応が逆に怖い、とゲンは思う。
「君、うちで働く気はないか?」
「……は?」
「君のような“まだ人間の感覚を残しているやつ”が、現場に混ざると、いろいろと“ほころび”が見えてくる。ほころびは、補修すれば、より強固になる。……そういうのをチェックする係が欲しかったんだよ」
言っていることは、妙に理にかなっているように聞こえる。
だが、その本質は──
「もちろん、断ってもいい。その場合は、ワイ様の観察対象として、別の国に回されるだけだ」
(別の国……)
他の国が、今よりマシだという保証はどこにもない。
むしろ、ワイ様お気に入りのこの国より、粛清も搾取も雑な場所のほうが多いはずだ。
「選びたまえ、ゲンくん」
レグレッド公は、笑いながらも目は笑っていなかった。
「“ブヒる”か、“使われる”か。どのみち、君はもう“見られる側”からは逃げられんのだ」
ゲンは、無意識に、背もたれを握りしめている指先に力を込めた。
(……ワイ様は、これを見て笑ってるんだろうな)
空を見上げる。
そこには、やはり何も見えない。
だが、見られている感覚だけは、ひたひたと背中にまとわりついていた。
「……とりあえず」
ゲンは、喉につかえた言葉を、一つずつ吐き出すように答えた。
「今ここで、豚になるのは、嫌です」
「よろしい」
レグレッド公の笑みが、ほんの少しだけ柔らいだ。
「ようこそ、レグレッド公国の“人間用ブヒブヒ管理部”へ」
その命名に、ゲンはまた心の中で派手にツッコみながら、
自分が“観察される側”でありながら、“管理する側”にも片足を突っ込んでしまったことを理解した。
ワイ様は、そんな新しい「おもちゃ」の誕生に、ますますご機嫌だった。
「ふふ。ええやんええやん。豚だけやと、どうしても単調になるからなあ」
地上でうごめく人間と豚たちを、
この日も、神様はブヒブヒ笑いながら眺め続けるのだった。




