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第2章 人間オセロという地獄遊戯

 ゲーム開始の合図は、あっけないものだった。


「では──始め」


 統治者が言いかけた瞬間、ワイ様が片手をひらひらと振る。


「『よーいドン』とかいらんで。もう始めてええよ」


 その一言で、彼の声は途中で切り上げられた。

 司会役も、審判も、誰一人文句は言わない。ただ慌てて進行を合わせる。


「し、白番一手目、どうぞ!」


 さきほど中央付近に立った白服の男が、ぴくりと肩を震わせる。

 すでに盤面の中にいるのは、彼と隅に陣取った黒服の男、二人だけ。


 だが、たった二人でも、その間に張りつめる空気は、満席の観客席と同じくらい重かった。


(動いたら死ぬ、止まってても死ぬ……)


 白の男は一度、目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。


 ──それでも、自分で自分のマスを選ばなければならない。


 このゲームは、誰かに「駒を置かれる」のではなく、プレイヤー自身が「駒として歩いていく」のだ。


「……俺は、ここに立つ」


 男は震える足を踏み出し、一つ前へ。

 盤の中央から、やや自陣側に寄った位置。オセロとしては「弱い」手だが、挟まれにくい形でもある。


「ふーん」


 ワイ様は退屈そうに口を尖らせる。


「まあ、一手目に命張れ、とは言わんけどなあ。……次、黒番」


 黒の隅取り男は、さっきよりも肩の力を抜き、ニヤリと笑って別のマスを指さした。


「おい、次はお前だ。ここのマス、埋めろ」


 指名された黒服の青年が、ビクリと跳ねる。


「ま、待てよ! なんで俺が! まだ盤の外にいる奴も──」


「いいから行けよ。ここ取れば、次の白は動きづらくなる」


「でも、そこだと──」


「嫌なら代わりに、てめえが隅からどけ」


 その一言に、青年は口をつぐんだ。

 交渉の余地はない。隅にいる男は、今のところ最も死ににくい場所にいる。その利を捨ててまで、前に出るつもりはないのだ。


「……っ、くそ!」


 青年は観客席からの視線を感じながら、指定されたマスに走り込んだ。

 まだ白の駒は一つだけ。挟まれる心配は、今のところない。


「はい、次、白番」


 司会役の声が上ずっている。

 ゲーム進行を担当している本人も、盤の上にいるわけではないのに、胃を掴まれる思いだ。


 白番二手目。

 先ほど中央に立った男の後方から、別の白服が一歩前に出た。


「おい、ちょっと待て」


 白陣営の列から声が上がる。


「そこに立つと、次の黒で挟まれるぞ!」


「でも、隅は取られちまってるし、真ん中ばっか増やしてもしょうがねーだろ!」


「じゃあお前、一人で端行けよ!」


「やだよ! 端はまだ早い!」


 白陣営はあっという間に言い争いになった。

 彼らは皆、自分が「駒」であることを理解している。

 だが、その「駒」が血の通った人間であることも、同時に痛いほど自覚していた。


 ここにいる誰もが、「自分が一番死にたくない」。


 ゲンは黒陣営の列から、その様子を見ていた。


(人間って、本当にこうなるんだな……)


 頭のどこかで分かっていたはずの現実を、目の前で突きつけられる。

 自分だって、いざ盤に上がれば、きっと同じように言い訳を重ねるだろう。


(いや、もしかしたら──もっと醜くなるかもな)


 ワイ様は、そんな人間たちの口論を眺めながら、嬉しそうに目を細めた。


「うんうん、人間味あってよろしい」


 やがて、白陣営の一人が観念したように、前へ出た。


「……オレが行くよ」


 やせた青年だった。

 誰かに押し出されたわけでもなく、自分から一歩前に出た男。


「お、勇者枠か?」


 ワイ様が興味を示したように身を乗り出す。

 白服の青年は、震えながらも、その視線から逃げなかった。


「ここのマス、もらうぜ」


 彼は、盤の端でも隅でもない微妙な位置を選んだ。

 うまくいけば、将来的に相手を挟みにいける中継地点。

 だが、運が悪ければ、早々に挟まれて終わる場所でもある。


「ふむ。ギリギリ『おもんない』とは言わんで済む手やな」


 ワイ様の評価に、観客席の貴族たちがホッとしたように息を吐く。


 彼らにとって何より恐ろしいのは、ゲームそのものが「つまらない」と判定されることだ。

 そうなれば、ゲームの出来に責任を持つ統治者ごと、その国が粛清対象になりかねない。


(被害は、こっちにも飛び火する……)


 そう考えている貴族も少なくなかった。

 この人間オセロは、盤上の駒だけでなく、観客席に座る彼らの運命までも、じわじわと締め上げているのだ。


 *


 ゲームは進行した。


 白、黒、白、黒──。

 盤面にぽつぽつと、人間の「駒」が増えていく。


 最初の一人が豚に変えられて落ちてから、二人目、三人目が続いた。


「や、やだ……嫌だよっ……!」


 挟まれた瞬間、ワイ様の指が鳴る。

 光に包まれ、悲鳴は「ブヒ」という短い鳴き声に変換され、そのまま足元のハッチから落ちていく。


 ただ落ちる、その落ちる先がどこかは、その瞬間には想像したくもない。


(これが、粛清ってやつか……)


 ゲンは、自分の順番が近づいていることを感じていた。

 すでに黒陣営の前列は埋まりつつある。

 自分の前に並んでいた二人は、さっきの数手で「駒」として盤上に出て行った。


 今のところ、まだ挟まれてはいない。


 だが、それも時間の問題だ。


 黒番のターンで、筋骨隆々の隅取り男がゲンを振り返る。


「次は、お前だ」


「えっ」


 思わず声が漏れる。

 黒陣営の列の中で、自分より前に立っていたのは、もう自分だけだった。


「待てよ、まだ他にも──」


「順番だろ。文句あんなら、代わりに出てくれるって奴、いるか?」


 隣の黒服たちを見る。

 誰も目を合わせない。それどころか、一歩、半歩と後ろに下がる者すらいる。


 ──ああ、そうだよな。


 ゲンは、自嘲するように笑った。


(オレだって、逆の立場なら、前に出たくなんかない)


 誰も責められない。

 責める資格なんて、自分にはない。


「……分かったよ」


 ゲンは、膝の震えを無理やり押さえ込みながら、盤面へと足を踏み入れた。

 マス目の上に立つと、それだけで空気が変わったように感じる。

 さっきまでは「見ている側」だった世界が、急に「見られる側」に反転した。


「黒番、どこに立つ?」


 司会役の声が響く。

盤面には、すでに十数人の駒が立っている。

 隅は両方とも埋まっている。辺の有利マスも、白黒入り乱れて争奪戦の真っ最中だ。


(ここで下手に端を取れば、次のターンで挟まれる……)


 ゲンは必死に盤面を見渡した。

 頭の中で、オセロの盤を思い浮かべる。

 だが、今目の前にあるのは、石ではなく人間だ。

 冷静に計算するつもりが、どうしても「このマスに立てば、あの白い奴と目が合う」とか、「ここに立てば、逃げ道がなくなる」といった余計な感情が入り込んでくる。


(真ん中寄りに立てば、しばらくは大丈夫……?)


 だが、それでは、さっきの白の一手目と同じ、「微妙な手」になってしまう。


 ワイ様は、それを見てどう思うか?


「おい、早くしろよ!」


 観客席から怒号が飛ぶ。

 貴族の誰かが苛立っている。ゲームが停滞することを嫌っているのだ。


 ゲンは、喉がカラカラになっていることに気づいた。

 舌が上顎に貼り付く。唾を飲み込もうにも、出てこない。


(……これでいい)


 自分でも驚くほど、あっさりと。

 ゲンは一つのマスを選んだ。


「ここにします」


 それは盤の「辺」に当たるマスだった。

 滑り込みで、まだ白の勢力が及んでいないライン。


「あー……」


 観客席から、微妙な反応が漏れる。

 派手さはない。だが、即死を避けるための、最大限の妥協の一手。


「ふむ」


 ワイ様は、しばらくゲンを眺めてから、くいっと酒を煽った。


「ギリギリセーフやな。……次、白番」


 ゲンの心臓は早鐘のように鳴っていた。


(生き延びた……?)


 そう思った瞬間、白陣営の列から一人が前に出た。


「よし、これで黒、二枚挟めるな」


 彼が指さしたマスは、ゲンから数マス離れた場所。

 そこに白が立てば、先ほどの隅取り黒と、別の黒服が一直線上で挟まれる形になる。


「おい、待て、それじゃあ──!」


 黒陣営の誰かが叫んだ。

 だが、白の男は振り返らない。


「勝つためだろ。誰かが犠牲にならなきゃ、勝てねえんだよ」


 その言葉に、ゲンの背筋が冷たくなった。


 ──「誰か」の中に、自分が含まれていないと、いつから錯覚していた?


 白の男が一歩、前へ。


 パチン。


 ワイ様の指が鳴った。


 二人の黒服が同時に光に包まれる。

 一人は隅取り男、もう一人はゲンの二つ隣に立っていた若者だ。


「ちょ、ちょっと待──ブヒッ」


「やめ──ブヒィ!」


 悲鳴が、鳴き声に変わる。

 豚に変わった二人は足元のハッチから同時に落ちていき、観客席からは先ほどよりも大きな笑いが起こる。


「ふふふ。ええ感じに盤面、動いてきたやん」


 ワイ様は、すっかりご機嫌だった。


 ゲンは、自分が立っているマスを見下ろしながら、背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。


(……運が良かっただけだ)


 あと一マスずれていれば、自分も一緒に挟まれていた。

 自分は今、「たまたま」生き延びただけなのだ。


(こんなの、あと何手、持つんだ……?)


 ゲームは加速した。


 人間たちは、最初の数手で「自分の延命」と「盤の有利」のバランスを取ろうとしていた。

 だが、仲間が次々と豚に変えられていくにつれ、そのバランスは崩れていく。


「お前、そこに立てよ! そこなら白、二人まとめて挟める!」


「嫌だね! そこに立ったら、次のターンでこっちが挟まれるだろ!」


「じゃあどうするんだよ!」


「そっちが犠牲になれよ、黒番のくせに腰抜けか!」


 罵声と怒号が飛び交う。

 ゲームというより、公開処刑の場がヒートアップしていく。


 ゲンは、盤の上から、観客席をちらりと見上げた。


 そこには、笑っている顔しかなかった。


 楽しそうに。

 興味深そうに。

 ある者は賭け事に熱を上げ、ある者はワイ様の表情をちらちらと伺いながら、オセロ盤の上の「人間たち」を見下ろしている。


(……なんだよ、これ)


 自分は、今まで「まあまあ」生きてきた。

 大きな不満もなく、大きな野心もなく、ただ与えられた仕事をこなし、ささやかな娯楽を楽しみ、明日も明後日も同じ日々が続くと思っていた。


 だが、何の前触れもなく、その「まあまあ」が豚の鳴き声一つで終わる世界に、自分は最初から住んでいたのだ。


 ただ、それを見ないふりをしていただけで。


「黒番、次の一手!」


 司会役の声で、ゲンは現実に引き戻された。


 気づけば、自分の番だった。

 盤面には、すでに白黒入り乱れた人間たちが立っている。

 空きマスは減りつつあり、一つ一つの選択が、誰かの生死に直結していた。


「さあ、どこ立つんや?」


 ワイ様の楽しげな声が、空から降ってくる。

 ゲンは、喉の奥で何かが音を立てて崩れる感覚を覚えながら、盤を見渡した。


(……ここで、オレが死んだほうが、盤面は有利になる)


 そんな形が、一つあった。

 そこに自分が立てば、相手の白駒を三つ、同時に挟める。


 だが、次のターンには、ほぼ確実に黒が挟まれ、その一角ごとひっくり返されるだろう。その時、自分は確実に豚になる。


(嫌だ。死にたくない。豚になりたくない)


(でも──)


 ゲンの背後には、自分より若い黒服たちが並んでいる。

 さっき、自分を見捨てるように目を逸らした連中もいる。


 だからといって──


「お前、そこに立てよ。ここなら挟まれにくいからさ」


 自分がさっきやられたように、誰かを指差すこともできた。


 口を開きかけて、ゲンはそれを飲み込んだ。


「……」


 足が、勝手に前へ出る。


「あ?」


 黒陣営の誰かが声を上げる。


「おい、お前──」


「ここにします」


 ゲンは、自分で、自分の死に場所を選んだ。


 白を三つ挟める位置。

 次のターン、自分がほぼ確実に挟まれる位置。


 観客席から、どよめきが上がった。


「おや」


 ワイ様が、目を細める。


「『まあまあ』くん、やるやん」


 彼の指が、軽やかに鳴った。


 パチン。


 ゲンの目の前で、三人の白が一斉に光に包まれた。

 そして、次の瞬間には三匹の豚となり、ハッチの下へと落ちていく。


「しまっ──ブヒィ!」


「やだ、まだ、私──ブヒッ!」


「う、うわあああああブヒイイイイ!」


 悲鳴と鳴き声が混ざり合い、観客席からは大きな拍手が起こる。


「黒、三枚返し!」


 司会役が叫ぶ。

 盤面の黒が増えた。

 ゲンの足元のマスは、じわじわと「死地」としての色を帯び始めていた。


(ああ、オレは──)


 次のターンで、ほぼ確実に挟まれる。

 それは、もう分かってしまっている。


 だが、不思議と、さっきまでのようなパニックはなかった。


(……まあ、悪くない手だったよな)


 自分の選んだ一手が、「おもろい」とワイ様に言わせた。

 盤面にも、ちゃんと意味のある変化を与えた。


 それだけのことが、今のゲンには、妙な満足感を伴って胸に残っていた。


「さて──」


 ワイ様は、楽しげに笑う。


「この後、どう転ぶか。……もうちょい、見届けたろか」


 ゲームは、まだ終わらない。

 ゲンの番も、まだ完全には終わっていない。


 だが、このオセロ盤の上で、最後にひっくり返されるのが自分たち人間なのか。

 それとも、人間の尊厳なのか。


 その答えを知っているのは、ただ一人。


 ──ブヒブヒと笑う、神様だけだった。


 *


 ゲンの一手を境に、空気が変わった。


 それまで自分の延命に汲々としていた黒陣営の何人かが、ちらとゲンを見て、顔をしかめる。


「あいつ、なにカッコつけてんだよ……」


「どうせ次で死ぬんだろ。だったら、もっと早くやりゃよかったのにさ」


 悪態じみた声に、嫉妬と恐怖が入り混じる。

 彼らにとってゲンは、「自分には出来ない手を打った奴」だ。

 それを尊敬するには、あまりに状況が最悪すぎた。


 一方で、白陣営の中にも、ゲンを見て顔色を変えた者がいた。


「……やめろよ、そういうの」


 さっき勇者枠で前に出た、あのやせた青年だ。


「自分の番のときに、自分のためだけに動いてくれた方が、まだマシだ。……勝手に“チームのため”とかやられると、こっちの手が縛られる」


 誰に聞かせるでもなく呟いた言葉に、自嘲めいた笑みが混じっていた。


 マンガや物語なら、こういう場面で「崇高な犠牲」はチームの心を一つにし、勝利へとつながるのかもしれない。


 だが、ここはそういう物語の中ではない。

 ワイ様の、ただの「鑑賞コンテンツ」に過ぎない。


「白番、次の一手!」


 司会役が、汗を拭きながら叫ぶ。

 白陣営から、今度は別の男が一歩前に出た。


「よし……ここで一気に黒をひっくり返す!」


 彼が選んだのは、ゲンの対角となる位置。

 そこに白が立てば、ゲン自身はまだ挟まれない。だが、彼の後ろに控えている黒が一気に二人、挟まれてしまう形だ。


「おい、ふざけんなよ! それ、俺らが死ぬんだけど!」


「知らねーよ! 盤面見ろよ、これで白が有利になるんだよ!」


「だったらお前がさっき死ねばよかったんだろうが!」


 盤外から悲鳴にも似た抗議が飛ぶ。

 だが、白の男の足は止まらない。

 既に彼の脳内には、「死ぬ黒」の顔と「勝利した自分」のイメージしか残っていなかった。


 ──犠牲は、いつだって他人であるべきだ。


 それは、誰もが口には出さないだけで胸の奥に抱えている本音だ。


 男が一歩踏み出し、マスを踏んだ瞬間。


 パチン。


 また指が鳴った。


 二人の黒が光に包まれ、豚となって落ちていく。

 ゲンは、そのうち一人がさっき自分を蔑むように見ていた男だったことに気づいた。


(……)


 何の感情を抱けばいいのか、分からなかった。


 すっとするべきなのか。

 怖がるべきなのか。

 哀れむべきなのか。


 どれも、正しいようで、全部間違っている気がする。


「ふふ。ええねえ、ええねえ」


 ワイ様は、酒を舐めるように味わいながら、満足そうに笑う。


「だいぶ、盤面が“濃う”なってきたわ」


 盤の端と隅には、死ににくいポジションを確保した駒たちがしがみつき、

 盤の中央付近には、互いを押しのけ合いながら延命と有利を求めて立ち位置を奪い合う駒たちが密集している。


 その密度が高まるほど──挟まれる危険も、指数関数的に増していく。


 *


 何手目からだったか、数えるのを誰もやめた。


「こっち来るな!」


「お前がどけよ!」


「白番! さっさと決めろ! こっち巻き込むな!」


「黒番、狙うならあっちだ! そいつら、さっきから安全地帯しか選んでないんだよ!」


 怒鳴り声は、もはやどちらが敵でどちらが味方なのか、聞き分けられない。

 白と黒という陣営の違いよりも、自分の一歩先の「マス」が安全かどうかの方が、よほど重大な問題だった。


 ゲンは、死地の中央に立ったまま、ぐるりと周囲を見渡した。


 白だ。黒だ。

 どいつもこいつも、生きた顔をしていない。


 恐怖で蒼白になった者。

 怒りで頬を紅潮させた者。

 諦めたように虚ろな目をしている者。


(……みんな、人間なんだよな)


 当たり前のことが、今さら胸に刺さる。


 さっき自分が殺した三人も。

 さっき豚になって落ちていった男も。

 今、自分の死を恐れて他人を指差している連中も。


 みんな、昨日までは普通に「生活」をしていたはずだ。


 飯を食い、働き、寝て、時々笑って、時々愚痴って。

 それが、たまたま「ワイ様の指パッチン」に引っかかっただけで。


「──そんな顔されたら、困るなあ」


 ふいに、聞き慣れない声が、ほとんど耳元で囁かれた気がした。


 ゲンがびくりと肩を震わせて顔を上げると、そこには誰もいない。


 だが、確かに声は聞こえた。

 この会場の誰でもない、「上から」の声が。


「“人間”なんてものに、変に感情移入されるとさ。こっちとしてはちょっと、やりづらいんよね」


 ワイ様だった。


 ワイ様は、ゲーム会場全体に響いている拡声器の声とは別に、

 盤面の上の、ごく限られた人間にだけ聞こえる小声で、時々こうして話しかけてくることがある。


 それは、選ばれた者への「ご褒美」のようであり、

 同時に、逃れられない「呪い」のようでもあった。


「お前、ゲンくんやったな。なかなかええ動きしたやん」


(……っ)


 名前を呼ばれただけで、心臓が止まりそうになった。


 ワイ様に「認識された」。

 それは、名誉でもあり、死刑宣告でもある。


「さっきの三枚返し、まあまあやで。ワイ、ちょっとだけ笑ったわ」


(“ちょっとだけ”かよ……)


 思わず心の中でツッコんでしまう自分に、ゲンはさらにうろたえる。

 何をどう思おうと、すべて筒抜けだということを忘れていた。


「うんうん、そのツッコミも悪くない。……せやなあ」


 ワイ様の声が、楽しげに転がる。


「ご褒美に、“もう一手分”だけ、見逃したろか」


(……え?)


 意味を理解する前に、次のターンが始まる。


 白番が、明らかにゲンを挟めるマスを一瞬見てから、別のマスを選んだ。

 その瞬間、白の男の背筋がぞっと震えた。自分でも、なぜそんな選択をしたのか分からない、という顔をしている。


 観客席の一部がざわついた。


「今の、ゲンを挟めただろ」


「なんでやらなかったんだ?」


「ビビったのか? それとも、何か見えたのか?」


 ワイ様は、それを見て声を立てて笑った。


「なあなあ、ええやろ? “神の一手”返しや」


 理屈ではない。

 ワイ様が「見逃してやる」と決めたから、世界の方がそれに従っただけだ。


 ゲンは、自分の番が一つ先送りされたことを理解して、ぞっとした。


(──助けられた?)


 自分の命を、ワイ様に一手だけ伸ばされた。

 延命処置。ほんの気まぐれ。

 それが「ご褒美」と呼ばれる世界に、自分は今いる。


(……冗談じゃない)


 胸の奥で、何かが反発した。


(命の扱いが、軽すぎるだろ……!)


 しかし、その感情をどう表現すればいいのか分からない。

 叫べば即座に粛清されることくらい、容易に想像がつく。


 だからゲンは、黙って次の盤面を見つめる。


 自分が延命された一手で、今度は別の黒が挟まれ、豚になって落ちていった。


「おい! 何やってんだよ!」


「そっちが変な手を打ったからだろ!」


 罵声とともに、もう一人の「誰か」が消える。


 ワイ様は、ますますご機嫌だ。


「うんうん、ええ感じや。『神の気まぐれ』一つで、盤面の怨嗟が倍増や。……やっぱ、ワイって天才やな」


 自画自賛しながら、また酒を一口。


 *


 どれくらい時間が経ったのか、ゲンには分からなかった。


 盤上の人口密度は増え、空きマスは残りわずか。

 豚になって落ちていった人数は、最初の倍どころではない。


 白も黒も、お互いを数えることをやめていた。


「……もう、どっちが勝てばいいんだ?」


 誰かが呟いた。

 盤の有利不利など、もはやどうでもいい。


 勝とうが負けようが、死ぬやつは死ぬ。

 生き残るのは、一部だけ。


 そして、「その一部」に入るかどうかは、努力でも、正しさでもなく、

 ただワイ様がそれを「おもろい」と感じるかどうかにかかっている。


「黒番、最終手前──」


 司会役が、かすれた声で告げた。


 最後の数手。

 ゲンは、まだ盤面の上に立っていた。


(おかしい……)


 自分で選んだ死地から、とうに挟まれていておかしくなかった。

 だが、そのたびに、「ほんの少しだけ」ずれた手が打たれ、そのたびに「誰か別のやつ」が挟まれていった。


 ワイ様は、ずっと笑っていた。


「なあゲンくん。気づいとるか?」


(……何を、ですか)


「お前、“おもろい位置”に立っとるんやで」


 ワイ様の声には、悪意も善意もない。

 ただ、純粋な「おもしろがり」だけがあった。


「死にに行く覚悟決めたくせに、いざとなったら人間臭く怖がって、でも結局またちょっとだけ踏み出して。……そういうやつ、見てて飽きへんねん」


(……)


「せやから、もうちょいだけ“見たい”んや。お前が、最後どうなるか」


 ゲンは、笑えばいいのか泣けばいいのか分からなかった。


(だったら、いっそ最初から……)


 最初から、こんな一手を選ばなければ。

 最初から、無能らしく、もっと醜く生きていれば。


 でも、それを言ったところで、何も変わらない。


 ワイ様はただ、そこにいるだけだ。

 神として。観客として。絶対者として。


「黒番、次の一手!」


 ゲンは、ふらふらと足を前に出した。


 盤面は、もうほとんど埋まっている。

 自分がどこに立っても、誰かが挟まれ、誰かがひっくり返される。


(……だったら)


 だったらせめて──


「ここにします」


 ゲンが選んだのは、自陣のど真ん中だった。


 白も黒も、彼の周囲にびっしりと立っている。

 この手で直接挟まれる駒は、一つもない。


「お?」


 ワイ様が、小さく首を傾げた。


「それ、何の意味があんの?」


 貴族席からも、さざ波のようなざわめきが起こる。


「おい、なんだあれ。自爆もしない、中途半端な位置取りだぞ」


「怖気づいたか?」


「やっぱり“まあまあ”の無能だったな」


 好き勝手な評が飛び交う。


 ゲンは、それらすべてを意識的に無視した。


(……これでいい)


 さっきまでと違うのは、自分が「盤面を動かすために」立っていたのではなく、

 ただ、自分が「ここにいた」という事実だけを刻みたかったのかもしれない。


 別に、誰かを助けたいわけでもない。

 誰かに褒められたいわけでもない。


 ただ、自分の人生が「全部まあまあでした」で終わるのが、なんとなく嫌になっただけだ。


「ふーん」


 ワイ様は、その心の動きを見透かしたように笑った。


「……まあ、ギリギリセーフやな」


 彼の指は鳴らなかった。

 次の白番の一手が、別の場所を埋め、別の誰かを挟みにいった。


 歓声と悲鳴。

 ブヒという鳴き声。

 落ちていく影。


 そして──


「これにて、人間オセロゲーム、終了」


 司会役の声が、やけにあっさりと響いた。


 気づけば、盤面のほとんどは白で埋まっていた。

 黒の駒は、ゲンを含めて三人しか残っていない。


「最終結果。白三十、黒三。……勝者、白陣営!」


 観客席から、大きな拍手と口笛が飛ぶ。

 白陣営の生存者たちは、その場に崩れ落ち、涙を流している者もいた。


「では、白生存者三名には、ホワイトリストへの申請権が与えられます」


 司会役がそう告げた瞬間、彼らの顔に安堵と歓喜が同時に浮かぶ。

 彼らは、今日ここで「無能」ではないと、少なくとも紙の上では証明されたのだ。


「黒生存者三名に関しては──」


 そこで、司会役の声が一瞬だけ詰まった。


 視線が、天空を仰ぐ。

 ワイ様の判断を仰ぐために。


「うーん」


 ワイ様は、グラスの底に残った大吟醸を名残惜しそうに傾けながら、三人の黒を見下ろした。


 一人は、最初からほとんど動かず、運良く挟まれなかった男。

 一人は、他人を盾にして生き延び続けた男。

 そして一人は──


「ゲンくん」


 ワイ様は、口の端を吊り上げた。


「とりあえず、お前だけは“キープ”やな」


 パチン。


 指が鳴った。


 ゲンの左右に立っていた二人の黒が同時に光に包まれ、豚となって落ちていく。


「なっ──!」


 ゲンは、思わず一歩前によろめいた。

 自分の両隣が消えたことで、盤面の真ん中にぽつんと一本の「黒い棒」が立っているような、シュールな構図になった。


「黒の残り二名は、通常通り粛清処置。……ゲンくんは、ホワイトでもブラックでもない、“グレー枠”ってことで」


 ワイ様は、楽しそうに笑う。


「位置づけとしては、平民昇格予備軍。……せやな、この国の“ストック”として、もうちょい眺めさせてもらうで」


 ゲンは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。


(……生き残った?)


 少なくとも今この瞬間、自分は豚にはなっていない。

 ハッチは開かなかった。足元は固い。


 だが、ホワイトリストでもない。

 完全な免罪でもない。


 ただ、「ワイ様がもう少し見ていたいから」という理由で、生かされているだけだ。


「なんや、顔が死んどるで、ゲンくん」


 ワイ様の声が、またこっそりと耳元で囁く。


「一応“勝ち”のはじっこくらいは掴んどるんやから、もうちょい喜ばんと。……ほら、まだ豚にはなってへんねんで?」


(……)


 ゲンは、答えられなかった。


 観客席からの拍手は、白生存者に向けられたものだ。

 誰も、自分を讃えてはくれない。


 それでも──


 足は、まだ人間のままだった。


 *


 ゲーム終了後。

 人間オセロの盤面は、あっという間に元の殺風景な床に戻され、会場の後片付けが始まっていた。


 貴族たちは貴族たちで、自分たちの分析とマウント取りに忙しい。


「あの黒の三枚返し、なかなか面白かったわね」


「ええ、でも最終的には白の配置が巧妙でしたわ。統治者様の采配でしょうか」


「いやいや、結局のところ、ワイ様の気まぐれが一番の勝因でしょう」


 ワイ様は、それらの会話をBGMにしながら、立ち上がった。


「今日はなかなかええもん見れたわ。……ほな、次の粛清ツアー行こか」


 そう呟いて、ふっと姿を消す。


 ゲンは、その瞬間まで、ずっと天井を見上げていた。


 そこには、何もない。


 ただ、自分の人生が、あの「指先」一つで転がされているという事実だけが、

 じわじわと実感として胸に染み込んでいくのだった。


 ──そして、この日から、ゲンの名前は粛清タウンホールの別リストに載せられることになる。


【観察対象:ゲン】


 ワイ様が「もうちょい眺めたい」と言った人間たちの名前だけが並ぶ、そのリストに。


 人間オセロという地獄遊戯は、そうして幕を閉じた。


 だが、ワイ様にとっては、まだ「前座」に過ぎない。

 その日の夜、彼は芋虫レースと豚さんスロットを肴に、もう一杯大吟醸を楽しむ予定だった。


 世界は今日も、ブヒブヒと、よく回る。

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