タヒタヒ蝉の夏
間違えて一度連載設定で投稿してしまった()
「タヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒ———」
赤ちゃんのような過呼吸のような甲高い声で鳴いているのは、満面の笑みを浮かべたオジサンの顔をした人面蝉だ。
タヒタヒ蝉と呼ばれる蝉は大戦から70年くらいしてから現れたのだという。
ある日、夥しい数のタヒタヒ蝉が木の根元から一斉に現れ、びっしりと森の木の樹皮を覆った。当時の人々は呪いだ、この世の終わりだと騒いだそうだ。けれども、世界は滅ぶことなく、タヒタヒ蝉は今年も元気にタヒタヒと鳴いている。
タヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒ———。
大戦で死んだオジサンの魂が蝉に乗り移ったとか、蝉が突然変異を起こしたとかまことしやかに言われるけれど、本当のところは分からない。生物学者なんて生き残っていないのだから。
タヒタヒ蝉はちょっと気色が悪い鳴き声を発するだけで害はないし、焼いて食べると悪くない味だ。
「タヒタヒタヒ?!タヒィィィ!!」
その上、動きの鈍いタヒタヒ蝉は素手で容易に捕まえられる。
「大漁だね、お兄ちゃん」
「ああ。今日はお腹いっぱいタヒタヒ蝉が食べられるよ」
大戦から1世紀、人類は文明の再建に失敗した。僕らは緩やかに滅亡に向かい、今では主に狩猟採集で暮らしている。タヒタヒ蝉は、原始時代に逆戻りした僕らにとって、夏の貴重なタンパク源だ。籠に入るだけ捕まえよう。
僕と妹はしばらく、タヒタヒ蝉を夢中で集めていた。
森の中にタヒタヒ蝉の悲鳴が何度も何度も響く。
「これくらいにしようか」
「うん!」
「じゃあ、家に帰ろう」
僕らの家は、旧都市の地下にある。
森から家までは少しだけ開けた地上を歩かなくてはならない。木陰の外は強烈な熱線と地面からの輻射熱に晒される死の世界なので、耐熱スーツを着込む。
「お兄ちゃん、後ろお願い」
「———っと。これでよし。苦しくないか?」
「うん」
「じゃあ、こっちも頼む」
万が一耐熱スーツの着用に不備があれば、熱線でたちまちあの世行きだ。
僕らは念入りにスーツを確認し合った。
「よし。行くか」
「うん」
森を抜けて、ひび割れた地面を歩く。
籠の中ではタヒタヒ蝉が暑さに耐えかねてしきりに鳴いている。それはまるで、ここから出してくれと懇願しているようだった。
太陽は眩いほどにギラギラ光り、耐熱スーツを着ていても頭がクラクラする。
盛んに鳴いていたタヒタヒ蝉の声は次第に弱まってゆき、最後には僕と妹がサクサクと地面を踏み締める音だけが残った。
「今日は暑いな。大丈夫か?」
「うん」
夏は年々暑くなっている気がする。
嘘か本当か、気象兵器を濫用したせいで、地球の気候が極端化したとかいう言い伝えがある。気候を操るなんて信じられないが、この耐熱スーツを作った大戦前人類ならそれくらいの事はできたのかもしれない。
「もう少しだ。頑張れ」
「うん」
背負っている籠からタヒタヒ蝉の焼ける香ばしい匂いが漂っている。
思わず腹が鳴る。
ゆらゆらと揺れる地面に地下都市への入り口が見えたのはその時だった。
ようやく我が家だ。
「ふわぁぁぁ。暑かったぁぁ」
「ほんと、今日は暑かった。よく頑張ったな」
「お帰り。ご苦労さん」
母は数週間前から体調を崩して寝たきりになっているが、今日は少し調子がよいらしい。椅子に座って僕らの帰りを待っていた。
「お母さん!タヒタヒ蝉、たくさん取れたよ!これ食べたら、お母さんすぐよくなるよ」
「ありがとう。本当にたくさんとったのね」
「しばらくは、食べ物に困らないと思う。いい場所を見つけたから」
早速、地表の移動で程よく焼けたタヒタヒ蝉を三人で食べた。
タヒタヒ蝉は、ぷりぷりとしてほのかに甘かった。
お腹いっぱいに食べられるなんていつ以来だろう。
すっかり広くなった地下シェルターに3人だけというのも寂しいが、食べ物を囲っているとその寂しさも少し和らぐ。シェルター内の昆虫とか小型哺乳類じゃなく、地上の食べ物の味は格別だ。
でも、こういう日があと何日続くだろうか。
切れかけの非常灯がチカチカと明滅する。
医療AIによれば、母はそう長くない。
それに、妹には隠しているが、僕も母と同じ病だ。もし僕が死ぬとしたら、妹はどうなる?一人でこんな世界に残すくらいならいっそ———。
過去の人類を怨む。どんな病気も治せ、天候を操り、宇宙にさえ進出できるくらい賢かったなら、どうしてこの子にこんな未来を残した。
「美味しいね、お兄ちゃん!」
「———ああ」
妹はタヒタヒ蝉を口いっぱいに頬張り、満面の笑みだ。
母も美味しそうに蝉を食べている。食べられるうちに食べさせてやれてよかった。
「ん?」
僕は思わず妹の頭を撫でていた。
妹は幸せそうに目を細める。
僕はタヒタヒ蝉を噛み締めた。