五話 疑惑
「大丈夫やて。おばちゃん、ええ人やんか。遠足の時とか、俺の弁当も作ってくれたもん」
「あの人外面ええからな」
チカは鼻で笑った。母は、ほたるには優しかったので、ほたるは錯覚している。その齟齬は話しても仕方ないが、腹が立った。
「チカ、何でそんなぶうぶう言うねや。探してほしないんか」
「だって無理や」
「何がや」
「うるさいなあ。そっちこそさっきから何やねん。大人ぶったこと言うて。そら、あんたの親に比べたらましか知らんけど、こっちかて色々あんねや」
チカが、顔を上げて叫んだ。意図はしていなかった。怒りが、予定以上に言葉を押し出した。その事を自覚したのと、ほたるの顔から表情が消えたのは同時だった。
人間の表情というものは偉大だ。そんな実感が、光のように、チカの中にふっと立ち上った。
チカは、自分がのりとを越えてしまったことを悟った。しかし、動かなかった。枝が火の中ではじける、ぱちりという音が大きく響いた。
「ほんまのことやろ。あんただってそう思ってるやろ。いつもあんたのこと殴って」
ほたるは何も言わなかった。持っていた枝を、たき火の中に突っ込んだ。無言で、ずっとかき回していた。チカもまた、それを見ていたが、顔をそらした。自分が息を殺していたことに気づいて、きまりが悪かった。
そのとき、ほたるは、いきなり枝を思い切り頭上に振り上げた。振り上げて、たき火に思い切り叩きつけた。火が二つに割れた。間髪入れず、また振り上げた。拍子に、ほたるの枝について、火の粉と枝が飛び散った。
また叩きつけた。ほたるの枝に火が移った。また振り上げる。火が尾のように軌道について行った。また叩きつける。枝が折れた。火が巻き付いて、ほたるの手元にあがってくる、それでもまた振り上げる。叩きつける。折れた部分で、枝がぐにゃりと曲がると、たき火の中に、枝を突き込んだ。腕ごともっていくような突っ込み方だった。ほたるの腕に火の波がちらちらとかすめる。ほたるは、たき火を蹴り飛ばした。火のついた枝、木の皮、燃えかすが四方に飛ぶ。
チカは飛び上がるようにして、後ずさった。また蹴った。ほたるは裸足だった。狂ったように、二度、三度と、蹴り続けた。
「何してんねん!」
「うるさい!」
あまりのことに、チカは叫んだ。ヒステリックになった声を、恥じる間もなかった。
「俺のことに口出すな! 口出すな! 俺はちゃんとおやすみ言うたんや!」
据わった目は、どこか焦点がずれており、チカを見ているようで、見ていなかった。砂を蹴り上げる。火を蹴り上げる。ほたるは歯を食いしばって叫びだした。何かにひどく引っ張られているような、すさまじいうなり声だった。
ほたるは頭をかきむしり抱えると、膝からくずおれるように、砂浜に座り込んだ。そして、ずっとうなっていた。
チカは、それを呆然と見ていた。
寒気がしていた。後ずさりをし、その場を離れた。もっと離れられるものなら、離れたかった。
ほたるとは、五歳からの幼なじみだった。しかしここ四年、つき合いはなかった。
ほたるの父親が死んで、ほたるが親戚の家に引き取られて出ていったからだ。ほたるの父親は酒にのまれて、身体を壊してぷつんと死んだらしい。ほたるは父親の死を、父親が腐るまで気づかなかった。異臭に、チカの母が隣室を訪ね、ようやく発見された。その時、父親の身体には、布団がかかっていたらしい。ほたるは何もわかっていない顔で、
「おばちゃん、お父ちゃんへんやねん」
と言ったそうだ。
「かわいそうになあ。ほうちゃんは、死んだこともわからんかってんや」
チカの母は、痛ましそうにほたるのことを話した。チカは、それをどこか白けた気持ちで聞いた。チカは、ほたるの父親は、死んで当然だと思っていた。酒を飲む度に、怒鳴って、ものを壊し、ほたるを殴った。
チカ自身、殴られたことがある。母とけんかし、大声で泣いていたら、部屋に勝手に上がり込んできて、何か叫びながら、チカの頭を上から拳で殴った。「うるさい」と叫んだのだと今はわかる。だが当時は聞き取れなかった。だから、妙にてかてかした赤い顔も。半裸の大きな体も、何もかも、気味が悪く、心底ぞっとした。
チカは何度も、先生や児童相談所に言った。けれど誰も、ほたるを助けなかった。母だって、優しくするだけで、助けなかった。
だからチカは、きっとほたるが、ほたるの父親を殺したのだと思っていた。今でもそう思っている。
ほたるが何でそんなに怒るのか、チカにはわからなかった。しかし、こうなって思えば、今の状況は自分にとって危険なのだ。
気がつけば、砂浜をぐるぐると回っていた。夜風が身にしみる。
たき火まで戻り、ほたるの丸い背を見下ろした。うずくまったまま眠ったらしい。チカは思った。それは冷たい実感だった。
人を殺せる人間と、自分は二人きりだ。