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十一話 卑下


「ああ、暑いなあ」


 ほたるは海に向かって、大きく胸をそらした。むきだしになった上半身が、陽の光をじらじらと受けている。ほたるは、とうにシャツを脱ぎ捨てていた。毛の浮いた肩甲骨が、ぐっしりと寄せられ、谷間から汗がたっぷりと伝い落ちた。


「チカもおいでえや」

「私はええわ」


 振り返ったほたるに、チカは否を返した。あいまいな笑いは、潮風にきしんだ。気取られぬようにしなければならない――自分が、ほたるを警戒していることを。チカの用心は、いっそう極まっていた。

ほたるはそれを知ってか知らずか、チカにいっそうにじり寄った。


「なんでや。おいでえや」


 ほたるが、チカの腕を掴んだ。あつい手が、ぐるりとチカの手首を覆う。チカは毛が逆立つのを、必死におさえた。

ほたるはチカを、ぼおっと見て、それからにたりと笑った。眉間に指をおかれたような、間の抜けた顔だ。目だけが、ねっとりと輝いている。

 その顔を見ていると、衝動的に腕を払い除けたくなった。しかし、それは出来ない。自分がほたるを異性として意識している――そのことを、少しでも気取られたくなかった。それはもはや、罪悪だった。

 チカのお腹に、また差し込むような痛みが走った。チカは思わず、手で押さえる。


「どないしてん」


 とっさに離した手に、ほたるが怪訝そうにする。


「ちょっといとうて」

「こわしてんの?」


 デリカシーのない物言いに、うなじが逆立つ。ほたるのこのような物言いは、とみに増えていた。


(何様のつもりじゃ)


 チカは毒づく。今度はめまいに顔をしかめた。陽射しが辛い。それもこれも、まともな睡眠が取れないせいだ。チカは、もうながらく、睡眠に己を浸していない。

 安全のため、ほたるより先に眠ることは出来ない。そしてほたるが眠ってからも、意識が白み、緊張の糸がきれるまで眠ることが出来なかった。それでいてなお、ずっとチカの頭のどこかは起きていた。砂浜に横たわる自分を、チカは感じていた。

 休息を取ることの出来ない日々は、容易なことを困難にした。

こうして歩いていても、不意に頭を打たれたように意識が途切れる。よろけて、たたらを踏み――そこで正気に返る。ほたるが、チカの顔を覗き込んでいた。


「チカ、白目むいとった」


 ほたるは、指さして笑った。ひげの生えた口元が、横にぐいいと引っ張られる。チカは突発的に、煮えたぎるような怒りが弾けそうになった。しかしどうにか、チカは笑ってみせた。ほたるはそれにも笑った。

 ほたるはチカの顔を、無遠慮に、じろじろっと眺める。


「何?」


 チカは、それにとぼけて返した。何も気にしていない、知らないという顔をしてみせる。

 チカはずっと、自分の美質を保とうと躍起になっていた。しかし、あの行為を見てから、その努力をやめた。

 ちょうど同じ頃、ほたるがチカに言った。

 チカの顎には、大きなにきびが三つ連なっていた。すり傷から悪化したのだ。赤く隆起し、頂上は白く膿んでいた。情けなくて悔しくて、隠しながら歩いていた。すると、ほたるは呆れたような失笑を浮かべ、こう言ったのだ。


「そんなん、俺気にしてへんで」


チカはその言葉に、屈辱と――それ以上に激しい気味の悪さを覚えた。

 誰が、お前なんぞの機嫌をうかがっているものか。

 しかし、そう言われてしまえば、チカは自分の努力が、ほたるへの媚びのようにも感じた。

 だからチカは、自分の醜さに無関心でいることに決めたのだ。


「いや、なんもないけど」


 ほたるは、何か言いたげに、口ごもった。肩すかしを食らったような、そんな様子だった。その態度を見ていると、チカは愉快になる。

 ざまあみろ――それは、自虐のよろこびだった。

 つまり、この醜さは、かえって自分を守るための鎧なのだ。女とわからないほど醜くなれば、ほたるとて、その気は起こすまい。

 そうなると、今までの自分の涙ぐましい努力が、馬鹿らしかった。とても危ない橋を渡っていたのだと実感する。

 そうだ、とことん醜くなればいい。鎧はわずかながら、チカに安堵をもたらした。しかし、チカの自尊心もまた、打ち砕いていったのだった。

 最近チカの胸には、怒りとはべつの――何か大きな波が押し寄せてくる。それはぶあつく、大きな壁のようだった。

 それが来てはいけない。チカは必死に、頭の中に杭を打ち、そこにしがみついていた。



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