十話 恐怖
波の音が、やけに耳の奥で響いた。水を叩く音、砂を飲む音がどん、どんと落ちる。チカはたき火に当たった。まだ日が高く暑かった。汗はとめどなく、チカの首筋や胸の谷間にへそ、背筋から伝い落ちた。チカは火に、にじり寄った。軽快にちらちらと踊る火のふちが、自らの弱気を焼くことを願った。
それからしばらくして、ほたるが帰ってきた。ほたるは、腕に枝や果物を抱えていた。チカは気づいた。自分があの時落としてきてしまったものだ。チカは知らず目をそらしていた。腹の底が冷え、心の奥が揺れているのを感じていた。
「食べや」
ほたるは果物のうち、ひとつを投げてよこした。他には何も言わなかった。それはチカにとって救いだった。
チカは、黄色い果物をひとつとると、皮をむいた。熟していて、ずろりと容易にむける。かぶりつくと、ねっとりとした果汁が手のひらに滴った。チカは平常を装うこと――何も知らない体でいること――を努めた。しかし、それが無駄な努力であることは、どこかわかっていた。自分は、去るときに物音まで立てた。だから、ほたるはおそらく「見られた」ことに気づいたはずだ。証拠に、チカがほたるから視線を外している時にかぎって、ほたるからの視線を感じた。こちらを窺う視線に羞恥に近い不安が、混ざっているように思った。
魚を拾ってきて、串を打ちながらも、二人は無言だった。「枝をとって」「あと一匹やる」そんな事務的なやりとりはしたが、それ以上の言葉は交わしていなかった。ただ、その簡素な会話が別段異常のものではなく、たまたまである風な話し方をしていた――今日は少し互いに口数が少ないだけなのだと。
しかしその実、相手が自分のことを何か言ってこないか、二人の間には、そんな緊張が水面下で張りつめていた。相手が切り出してくることをおそれているようでも、相手が切り出すのを舞っているようにも感じた。ぶわりと砂が舞って、ふたりの肌にまとわりついた。風が吹いたのだ。
「あのさ」
ほたるが不意に声をあげた。チカは、びくりと身体をふるわせた。そして、「しまった」と思った。「殺す」とも思った。後の言葉の方は空虚な妄想に近かった。
「何?」
チカは、自身の身体の揺れが、なかったように――たまたま居眠りをしていて、覚めただけだというように――何のフォローも入れずに、雑に笑って返した。
「腹減ったで、もっと取ってこん」
ほたるが、枝の余りを手の中でもてあそびながら言った。チカの身体から力が抜けた。そのくせ、節の高い指や、手の甲に反して真っ白な手のひらが、やたらと目に付いた。チカは目を伏せて頷いた。
「そやな」
「行く?」
「ちょっと待って。最後の刺してまうから」
チカは、魚に串を打った。ぽっかり空いた魚の口から、枝を突き通して。ぐねぐねと身をくねらせて尾まで突き通す。死んだ魚は、何をされているかもわからないで、ずっと同じ顔をしている。
ほたるが立ち上がり、促したので、チカも立ち上がった。本当は腹も空いていなかったし、一人でいけと頼みたかったが、ほたるは基本的に一人では動かない。
「行こか」
ほたるが、にた、と笑いかけてきた。ほたるは少し、力を抜いたようだった。チカは、それについては安堵しながらも、本質、気は抜けていなかった。何か核心をついて来たなら、もはやチカは怒るしかなかった。けれど、自身の安全のために怒るわけにはいかなかった。念じるしかなかった。話すな、話したら殺すと。
「遅いて」
ほたるが、チカの背中を叩き、ぐいと押した。大きな手のひらの形が背中に伝わり、チカは身体をこわばらせた。とっさに身構えるように、身体を丸くした。心臓は脈打ち、思考は止まっていた。
「何びくついてんねんな」
ほたるは一瞬、虚をつかれた顔をして、眉をひそめた。しかし、何を思ったか、すぐに強い笑い顔になると、二度三度とチカの向こう側の肩をつかみ叩いた。ほたるの身体が密着し、素肌の腕が、チカの首にはりついた。チカの肌に、鳥肌が、ざあっと立った。チカは、とっさに身をかわして、離れた。
「なんや。感じわる」
ほたるはとがめるように言ったが、特に気にしていないのか、けたけたと笑い出した。チカは、曖昧に笑った。口元はひきつっていたが、チカはもう気にしていられなかった。頭がぼんやりとしていた。
ほたるの身体は熱を発していて、離れていても熱く、脂と砂と、肉の臭いがした。その熱と臭いを意識すると、出来る限り離れたくなった。チカは他人の感覚、それがもはや、自分を脅かすものになっていた。
はやく助からなければならない。けれど、何百回目にもなるその決意はどこか空虚だった。
――いつ、助けは来てくれる?
下腹部が差し込むように痛んで、チカは顔をしかめた。
チカは神経を、肉体の外にまでとがらせ、常に異変を察知し逃げられるように、身を固く、鋭敏にした。それは横たわっている時でさえ、適用された。半身をのむようにやわらかな砂から、一ミリ浮いているかのように、チカの身体は沈まなかった、身体には力が流れている。体が甲良のように固くなりはしないか。そうして、すべてから守ってくれはしないか。そんな無意味な夢想に、気持ちを傾けていた。