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一話 漂着

 視界は黒、時々暗緑。口を開けば、海水がなだれ込んでくる。えづいても、止まらない。もがくほどに、体は波にのまれて深く沈む。手足が四方にねじられる。

 抵抗をやめ、身体を丸め、チカは頭をかばった。何かが、頭上をすごい勢いですぎていった。同じく船から投げ出された何かだろうが、チカの頭には、それを考える隙間はなかった。

 息が出来ない。

 上下の感覚も狂った中、たまに波に叩くように身を持ち上げられる。そうして浮かんだ水面の一瞬の隙間から、チカは水と一緒に空気を取り込む。そんな場つなぎの呼吸をずっとしている。そのうち、チカの頭からは、恐怖とか、どこか岸へという気持ちが消え、ただ息をしたい、この苦しみから逃れたい、という欲求に塗りつぶされていく。

 わずかな空気を取り込む。水に沈む。沈む。空気を取り込む。沈む、飲まれる。沈む――

 そうしている内に、ぷつりとチカの意識はとぎれた。

 

 ◇


 目を覚ました。まず感じたのは、激しい目の痛みだった。目を閉じると、橙の視界に白い影が残って、ちかちかと点滅していた。痛みを与えたのは、日光であったことに、重く鈍い頭が思い至る。目を押さえようとして、腕が重くて動かないことに気づいた。

 そこで、腕の下のざりざりとした感覚と、その感覚を散らすような流動的な触感に頭がいった。流動的なものは、ぬるく、一定の感覚で押し寄せては引き、チカの腕の体積の半分を浸らせては、去っていった。

 肌に張り付いた制服の感覚にまで神経が行き、ようやく不快感を思い出した。生理的な悪寒に身体が震える。流動的な何かが浸らせているのは、腕だけではなく、チカのひざから背中までだった。ひざから先は、そもそも浸っていて、感覚が鈍い。

 ――水。そこで、ようやくチカは、自分を撫でているのは、ずっと自分を苦しめていた水だと認識した。そうして、地面を感じた。水の外に、出ていることを自覚した。

 何をするでもない。ただ、動きたかった。しかし、かなわない。身体が、砕けそうなほど痛くて、重い。ただ一つの自己表現として、うなろうとした。出たのはちいさな吐息だった。

 ――生きてる。

 脳内で言葉にするだけで、ひどくかかった。

 首を動かすにも億劫で、苦しい。それでもどうにか動かして、目を開いた。確かめる必要があったからだ。

 ――ここはどこ?

 わからなかった。ただ、海水に痛み、かすむ目に、一つの影が映し出された。それは人の形をしていた。制服を着ている。自分と同じ学校のものだ。そこまで思考を動かすのに、相当の時間を要した。その影は、チカに背を向けて、寝ていて、同じように下半身を波に浸していた。男子だ。

 制服を着ている。

 その事を、もう一度、頭の中で唱えた。

 修学旅行の最中だったのだ。嵐にあって、船が難破した。乗船客は波にさらわれ、多くが海に投げ出された。チカもその一人だった。ぐらぐら揺れて、波が高く、「あ」と思った時には、もう、足は地に着いていなかった。チカの確かな記憶はそこまでだ。

 現実に、こんな目にあうことなんてあるのか。ずっと信じられない。

 同時に、あの海から抜け出せた事実も、信じられなかった。

 ――でも、生きてる。私は生きてる。

 感動と言うよりも、漠然とした感慨だった。喜びとも、不安ともつかない。ただ、あの苦しみから逃れ得たのだという事実だけが、日光のまぶしさを、濡れた砂浜を肯定的にした。チカは、あ、と息をついた。

 不意に、男子生徒の背が、丸くなり、それから何か良くないものにつかれたように、反り返った。

 げぽり。肉を割るような大きな水音がした。間をおかず、せき込む音がした。身体が勝手にそうさせているような、理性のない動きだった。背中が狂ったように何度もはねる。せきの音から水っぽさが消え、荒れたものになってゆき、そうして最後にどこか痛々しい笛の音が鳴り、それはとまった。

 うう、と小さなうなり声が聞こえた。それで、チカは男子が目覚めることを予期した。やはり、体が動かないのか、ひどく大儀そうだった。それでも、チカよりは余力があったらしい。仰向けに返った。

 その横顔を見て、チカの心に、情報が呼び起こされた。

 ――ほたる?

 目をつむりうなるその顔は、確かに、遠き日の幼なじみの顔だった。チカは、それを見留め、どこか不思議な気持ちがわいていた。わくだけの、気力が戻ってきていた。

 それでも、まだ動けない。陽射しが、肌をちりちりと焼く中、チカは再び目を閉じた。

 制服を着た、男子と女子が、砂浜に貝殻のように砂に埋まっている。彼らの足を浸す波は、澄んだ水色で美しく、波の向こうは、どこまでも広がっている。彼らの頭上である砂浜の向こうは、豊かな木々が生い茂っており、森のようになっている。森の縁は、さらに深い海に囲まれていた。

 チカとほたるは倒れている。

 ここが、人の住まぬ島であることも、流れ着いたのは自分たち二人だけであることも、まだ知らない。


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