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2-5

 目的地の田舎に着くと、俺は田んぼ横の空き地に車を停めた。辺りには蝉時雨が降り注いでいた。


 近くを歩いていた老夫婦に、「しばらくの間、車をここに停めておいて大丈夫か」と尋ねたところ、快く了承してくれた。ついでに、町内の神社の場所を尋ねた。


 どうやら、山の方に歩いていくと古い参道があるらしい。町民の手で整備はされているそうなので、歩いて行くことはできるとのことだった。


 俺と雨谷は老夫婦にお礼を言って立ち去ろうとする。


 そんな俺たちを、おばあさんが引き留めて何かを言った。そして、自分が被っていた麦わら帽子を雨谷に手渡した。


 訛りがひどくて何を言っているのか聞き取れなかったが、おおかた、日差しが強いから被っていきなさい、みたいな感じだろう。


 この田舎町には若者がいないのか、老夫婦は俺たちにとても良くしてくれた。家に水の入ったペットボトルがあるから持ってこい、みたいなことをおじいさんがおばあさんに言っていた気がする。そうしておばあさんは、向かいの家に入っていき、500ミリリットルのペットボトルを二つ持ってきた。冷蔵庫に入れていたのか、よく冷えていた。


 少しだけ世間話のようなものが続いた。相変わらず訛りがひどかったため、何を言っているのかは聞き取れなかった。俺と雨谷は愛想笑いと適当な相槌で誤魔化した。


 おじいさんが手を振って離れていくのを皮切りに、俺と雨谷はもう一度お礼を言って、今度こそその場を後にした。


「なんて言ってたか、分かった?」


 先ほど渡された麦わら帽子を被った雨谷が、鍔の影から俺を見上げて尋ねる。


「全く分からなかった」


 俺がそう答えると、やっぱりそうだよね、と雨谷は笑った。


 ふと、隣を歩く雨谷の向こう側に、小さな向日葵畑が見えた。俺は足を止めた。雨谷がそれに気づかずに先を行く。


 今日の雨谷は、白いワンピースを着ていた。


 振り返る。


「どうしたの?」


 雨谷の長い髪が風に揺れる。ワンピースの裾が小さく波打つ。


 俺は無言で、雨谷に預けられていたショルダーバッグから、スケッチブックと色鉛筆を取り出した。


 俺の意図に気づいたのか、雨谷は小さく微笑んでその場で静止した。俺の目に映るそのすべてが、計算しつくされたうえで描かれた絵画のようだった。


 被写体の、白いワンピースに麦わら帽子を被った女の子が視界の中心にいて、その後ろに向日葵畑があって、そのさらに後ろには深い山が聳えていて、その山頂付近から伸びる白い入道雲が、青天を裂いている。


 俺は目に見えたものをそのまま手元のスケッチブックに描き写す。あの頃みたいに、衝動的に、情動的に。


 目の前にいる雨谷の美しさに見惚れ、ひたすらに線を引く。


 蒸し暑いはずなのに、清涼感のある心地よい時間が流れている。



 どれぐらいの間そうしていたのかは分からない。一瞬だったような気もするし、何時間も彼女と自分の手元を見ていた気もする。実際には、きっと三十分程度だと思う。いつの間にか汗が滲んでいるし、暑さに意識が少しぼんやりとする。俺はスケッチブックを閉じる。


「描けた?」


 雨谷が駆け寄ってくる。驚くことに、彼女は汗の一つも掻いていなかった。


 俺はスケッチブックを雨谷に渡すと、おばあさんから貰ったペットボトルに口をつける。少しだけ温くなっていたが、日射に晒されていたせいか、温い水も喉を通ると冷たく感じられた。


「相変わらず上手だね」


「そうかな」


「そうだよ」


 雨谷が俺を褒める。


「被写体がよかったんだよ」


 俺が褒め返す。


 すると雨谷は照れるように、麦わら帽子の鍔を両手で掴んで目深に被った。


 そんな彼女の手を握って、俺は「行こうか」と微笑みかける。道路に落ちた短い夏影が、俺たちを引っ張っている。



 参道の先にあった神社はかなり古いものだった。山影に隠れてあまり日が差さないのか、石造りの鳥居の足元には苔が生えていた。


 ただ、管理はされているようで、草木が生い茂っていて荒れ放題、ということはなかった。日陰になっていることもあってか、少しだけ涼しかった。


 西日が差すことはなさそうだったが、深い緑の中に佇む古い神社の前にいる雨谷は、いるだけで世界をここだけ切り取ったように、幻想性を醸している。


 端的に言うと浮世離れしている。


「それじゃあ始めようか」


 俺はもう一度、スケッチブックを手に取る。雨谷は神社の前まで行くと、賽銭箱の横に座り込む。


 先ほど描いた向日葵畑の少女を捲り、裏側に新たな少女を描画する。


 そうして俺たちは、あの夏を忠実に再現しようとする。


 これらの行為そのものに、深い意味はない。強いて理由を言うならば、俺と雨谷を結ぶのはやはり絵を描くことだと、俺も雨谷も思っていることが理由になる。


 普通の恋人みたいに同棲し、共に食事を摂り、どこかに出掛けることは、俺たちの間を取り持つ要素にはなりきらない。それを、俺も雨谷も暗黙のルールとして理解している。


 あの夏、俺は雨谷を描くことで雨谷を認識し、雨谷は描かれることで俺を認識していた。そうやってお互いの空っぽを埋め合っていた。一緒に花火を見たり、雨宿りしたりもした。だが、それらは「画家と被写体」という分かりやすい関係性、土台の上に成り立っている。これがなくなれば、俺が雨谷と関わる前の様に、お互いに無関心な状態に戻るだろう。


 もっとも、俺は成長して、それが絵である必要はなくなった。彼女が自殺して以降、俺にとってのそれは小説であったり、詩であったり、音であったりした。


 だから今の行為には、本質的なところでは意味なんてないのだ。



 そうして空が紫色に染まるまで、俺と雨谷は互いに互いの過去の残像を重ねていた。



 街の方に戻ったときにはすでに外は暗くなっていた。夜になっても街中の蒸し暑さは変わらない。俺と雨谷はスーパーで涼みつつ、適当に夕飯の食材を品定めする。雨谷に何を作るのか尋ねたら、「教えない」とはぐらかされた。キャベツやピーマン、豚バラをかごに入れる。調味料コーナーで甜麺醤やら豆板醤なんかも入れる。回鍋肉だと思った。


 帰宅すると、雨谷がエプロンをつけて台所に立つ。香ばしい匂いを感じながら、俺は今日描いた二枚の絵を眺めていた。


 一枚目の向日葵畑の少女。これはなかなかにいい出来だと自分でも思った。被写体がよかったおかげだろうが、絵だけを見れば、そこに十年以上のブランクは感じない。また後で清書しようと思った。


 二枚目の雨谷涼夏。かつてを模倣したその絵は、やはりどこか欠けているように見えた。夕焼けだろうか、なんて思う。絵全体に明るさが足りなく感じた。どんよりとした、曇り空みたいな雰囲気の絵だった。


 下手なわけではなかったが、昔の俺の方が、雨谷涼夏のことをもっと魅力的に描けていた気がする。


 そんなことを考えながら見ていたスケッチブックに影ができる。見上げると、雨谷が俺を覗き込んでいた。「ご飯できたよ」と言いながら、テーブルに料理を置く。やはり回鍋肉だった。大皿に乗っていて、俺の前にはあらかじめ炊いておいたご飯が茶碗によそって置かれている。箸を取りに行こうと立ち上がろうとすると、箸置きと一緒に目の前に箸が置かれる。


「至れり尽くせりだな」


「できる女でしょ?」


 雨谷は得意げに言った。


 雨谷が作った回鍋肉は美味かった。それを伝えると、体をくねくねさせながら照れていた。なにかのレシピをスマートフォンで見ている様子はなかったので、完全に頭にレシピが入っているのだろう。もしかしたら雨谷の得意料理なのかもしれない。俺は大して料理をしないので、素直に感心した。


 火の通った豚バラを口に運びながら俺は、「今日描いた絵、どう思う?」と尋ねてみる。


 雨谷は少し考えて、


「両方とも好きだよ」


 そう素直な感想を述べてくれた。


 向日葵畑の少女は俺としても上出来だと思っていた。神社の方は、どこかが欠けているように思った。でも、雨谷がそう言うのであればそれでいいのか、とも思った。



 俺がシャワーから出ると、先にシャワーを済ませていた雨谷が、布団にうつ伏せに寝転がって、何かをノートに書いていた。


「何をしてるんだ?」


 バスタオルで髪を拭きながら尋ねる。


「日記」と短い答えが返ってくる。


「楓くんとの毎日を記録しようと思って、家にあったノートを持ってきてたの」


 昨日の夜は書き忘れちゃったけど、と雨谷は付け加える。


「見てもいい?」と尋ねると、雨谷は微笑んで小さく手招きをした。俺は彼女の側にしゃがみ込む。


「今日はね、一緒にお昼ご飯を食べたことと、ドライブデートしたことと、昔みたいに絵を描いたこと」


 そう言って、雨谷は日記の紙面を俺の顔に近づけた。その中で、雨谷の丁寧な字が今日の出来事を楽しそうに語っていた。


「いいね」


「楓くんもやってみない?」


 提案され、俺は昔の自分を思い出す。


「昔、一度やってみたことがあるんだけど、どうにも続かなかったんだ」


 俺自身、日記を書くことは素晴らしいことだと思う。その日に感じたこと、あったことを記しておくのは、創作をするためのメモ帳のようなものだ。ネタ帳と言っても過言ではない。


 そう思って、俺は一年か二年前に日記をつけてみることにした。一週間続けたところで自分の日記を読み返してみると、毎日同じことを書いていた。具体的には小説のネタが思いつかない自分への恨みつらみばかりだった。


 つまらなくて辞めた。


 そんな過去を、「毎日似たような内容しか書けなくて」と要約して雨谷に話す。


「じゃあ、これからは私が毎日、楓くんにいろんな日常を提供してあげよう」


 したり顔で雨谷が言う。


「そうしたら、日々の記録はきっと楽しいよ」


 それは、きっとそうなのだろう。雨谷が隣にいること、いてくれることはあの夏を彷彿させる。あのとき、毎日のように雨谷を描いていたのと同じで、毎日雨谷のことを日記に書くことは、絶対に楽しいのだろう。


 ただ俺は、自分の文章を書く能力を完全に疑っている。自分の文筆と、俺の脳から絞り出される出涸らしのような言葉を嫌っている。俺が雨谷のことを綺麗に日記に記せるとは思えなかった。


 だとしたら、俺ができることは一つだけだった。


「それなら、俺は絵を描こう。雨谷が出来事を文章で書いて、二人で絵日記でも作ろうか」


 俺の提案は、まるで夏休みの宿題みたいだと思った。二人でやる分、一日分を仕上げるのは簡単だろうが、互いに見えるものは違うだろうし、きっとちぐはぐな絵日記になるだろう。だが、それでいいと思った。


 雨谷も「ナイスアイデアだね」と笑っていた。



 俺は、昨晩の様に泥酔していないので、雨谷の隣に綺麗に布団を敷く。彼女の隣で横になる。「おやすみ」と掠れるような甘い声が横から聞こえる。


 俺も「おやすみ」と返して目を閉じる。

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