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2-4

 翌朝、俺はけたたましい薬缶の沸騰音で目を覚ました。台所を見ると、雨谷がマグカップに湯を注いでいる。俺が体を起こしたのに気づいたのか、雨谷が薬缶を置いて振り返る。


「おはよう、楓くん」


「……おはよう」


 雨谷の笑みが俺に向けられる。俺は昨晩の自分の蛮行を思い出す。死にたくなる。


 本当に愚かなことをしようとしたものだ。あのとき、電話をくれた日下部には感謝してもしきれない。


 もし、あのまま俺が行為に及んでいたとしたら、今みたいに雨谷が笑顔を向けてくれていたかは怪しかった。


 仮にそうならなかったとしても、あの夏を生きた雨谷は俺の中で死んでしまっていただろう。あのときの俺と雨谷の間に性愛や肉欲はないし、二人の関係を取り持っているのは絵を描くという行為のみで十分だった。


「昨日はいっぱいお酒飲んじゃったからね。お味噌汁だよ」


 雨谷は湯気が立ったマグカップを二つ、テーブルに置く。片方は外側が薄い青で色付けされており、もう片方は薄いピンク色になっている。昨日、雨谷の要望で買ったセットのマグカップだった。


 俺は「ありがとう」と言って青い方を手に取ると、中を覗き込む。お湯で溶かされたインスタントの味噌汁には、わかめと小さい麩が入っていた。


「明日からはインスタントじゃなくて、本当のお味噌汁を毎日作ってあげるからね」


 雨谷は向かい側に座り、両手で頬杖をついて味噌汁を啜る俺をじっと見ている。


「愛の告白みたいだ」


「愛の告白だよ」


 雨谷は悪戯っぽく言った。


 俺は改めて、目の前の雨谷涼夏について考える。


 俺は現状、彼女のことを本物の雨谷だと思って接している。それは単に、彼女が雨谷ではない可能性の方がありえないからだ。


 容姿も昔の雨谷を成長させたような姿で、中学生の頃の面影を感じさせる。口調も、仕草も、俺との間にある思い出さえも、彼女は雨谷涼夏そのものだ。疑う余地がないのだ。


 その反面、彼女は雨谷涼夏が自殺していることを認めている。


 それでは、目の前の彼女はいったい何者なのか、という話になってくる。俺は今、そこに目を瞑って彼女を雨谷涼夏として視線を交え、言葉を交わし、時間を共有している。


 仮に彼女が別人だったとしても、雨谷涼夏になりきる理由が皆目見当がつかない。


 そうして俺はいつも、思考の袋小路に入り込む。


 彼女を雨谷として接しつつも、俺は頭の片隅でずっと今の謎めいた状況を説明する尤もらしい答案を考えている。


「楓くん、今日は何する?」


 雨谷の鈴のように軽やかな声が思考を遮る。彼女の声はいつも俺を現実逃避させた。この甘い夢のような時間に浸らせる合図でもあった。尤もらしい答案を考えることも、頭の端に追いやられ、なんだかどうでもよくなった。


「神社を探しに行こう」と、味噌汁を飲み干して俺は提案する。


 冷蔵庫が届くのは明日なので、今日一日は特に何もすることがない。


 昨日から動き出した時計を見る。朝の九時半を指している。室内はすでに冷房が入っており、これを切ってしまえば、室内はたちまち不快なサウナへと早変わりするだろう。きっと外はもっと暑いのだろうと思う。スマートフォンの天気アプリを確認すると、今日一日は雲一つない快晴のようだ。要するに、日が暮れれば綺麗な夕日が拝めるはずだ。


 気温が高いことを除けば、神社を探すにはちょうどいい機会だった。


「レンタカーを借りて山の方まで行こうか」


 さすがに炎天下を歩き回るのは危険だと考え、重ねてそう提案する。雨谷はショルダーバッグにスケッチブックと十二色の色鉛筆を入れながら、


「ドライブだね、楽しみ!」


 そう喜んでいた。



 昼前に家を出た俺たちは、近場のファミリーレストランで適当に昼食を済ませると、レンタカーを借りた。


 スピードメーターの横に表示された外気温には、「38・2℃」の文字が表示されている。毎日暑いな、と思いつつも、意識的に気温を見たのは今年の夏は初めてだった。


 改めて数字を突き付けられると、昔と比べて随分と暑くなったものだと思う。同じことを思ったのか「昔よりも暑くなったね」と雨谷もこの夏の不快な気温に文句を溢した。


「山の方に行けば多少は涼しくなると思うけどね」


 気休め程度にそう言ってみる。実際に山の方に行って外に出ても、きっとこの肌にまとわりつくような、湿気を伴った夏の蒸し暑さは大して変わりはしないだろう。


 そんなことを思いながら、俺はアクセルを踏む足に力を入れる。


 目的地とする神社を決めているわけではなかったが、かといって無闇に車を走らせるつもりはなかった。このまま車を北に向けて一時間と少し走らせると、山間の小さな田舎が見えてくる。田んぼがあって、周囲を山が囲っていて、民家が点在しているような、絵に描いたような田舎だ。


 その雰囲気は、実家のある山麓によく似ている。


 フロントガラス越しに、夏の彩度の高い青空と、深い緑を蓄えた山々が見える。その境界はくっきりとした輪郭を描いている。その後ろから、大きな白入道が顔を覗かせている。


 概念的な夏、とでも言うのだろうか。雨谷と過ごした夏だから、という思い出による補正によって、色褪せつつある記憶が彩度を上げている可能性も否定はできないが、俺はその光景をひどく懐かしく感じる。


「大きい入道雲だね」と雨谷が言う。


「そうだね」と俺は相槌を打つ。


 そんな会話を、あの夏もきっと背の高い雲の下で交わしていた。

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