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2-3

 今思えば、随分と辛気臭い会話をしていたと思う。到底、男女二人きりで話すような話題ではなかっただろう。


 そう思ったのは、特急から新幹線に乗り継いで、その新幹線を降りるときだった。あの会話の後、空気が重くなってしまったのを察してか、雨谷が会話の内容を過去から未来へ切り換えた。「一緒に住むようになったら私がご飯を作ってあげるね」とか、「でも、掃除と洗濯は当番制!」とか。


 俺が本当の意味で雨谷の神様になれていたら、雨谷はあの夏よりもずっと明るい女の子になっていて、今みたいに隣を歩いていて、きっとそんな会話をしていた。


 ある意味、今隣にいるのは俺にとっての理想の雨谷涼夏だった。俺はなんの違和感も抱かず、彼女のことを完全に雨谷だと思って接していたのだ。


「荷物、俺が持つよ」


 そう言って、俺は雨谷のトランクケースを持つ。「ありがとう」という彼女の言葉に、彼女の手を握ることで応える。


 突然のことに、雨谷は少し戸惑っていたが、彼女は黙って俺の手を握り返した。


 家に着く頃には、俺と雨谷の境界は曖昧に混ざり合って、その形があたりまえであるかのように馴染んでいた。



 玄関の扉を開けると、籠っていた熱気が放たれる。ただでさえ熱い日中の日差しを浴びてきた俺と雨谷を、その熱風が襲う。「暑いね」なんて雨谷が言う。


 一日しか空けていないはずの部屋は、随分と懐かしく感じた。新しく買い揃えた必要最小限の家具家電が置いてあるのと、俺をあの世へ連れて行ってくれるはずだったロープがテーブルの横に放ってあった。


 俺は冷房をつけると、真っ白な壁に凭れた。部屋に一つだけの椅子を見て、雨谷を見てから「座っていいよ」と促す。長距離移動で雨谷も疲れているはずだ。


 しかし雨谷は、俺の室内の様子の方に気を取られているようだった。「冷蔵庫小さいね」と驚いていた。


「楓くんってミニマリスト? だったの?」


 雨谷の質問に俺は「いや」と否定を挟んでから、


「自殺するために家具を全部一度売り払ったんだ」


 そう言った。


 雨谷は、気まずそうに口元を抑えて視線を逸らす。悲しそうに俯く。俺は、昨晩聞いた雨谷の「どこにも行かないでよ」という言葉を思い出す。


「今はもう、そんな気は起きていないよ。あれは俺の突発的な感情でしかない。雨谷のそれとは違うから、俺はどこにも行かないよ」


 そう伝えると、雨谷は安堵したように顔を綻ばせる。


「それじゃあ、一緒に住むためにまずはもっと大きい冷蔵庫を買わなきゃね」


 雨谷は楽しそうに笑っていた。



 近所の家電量販店でいくつか家電を購入した。冷蔵庫は大きいので、後日郵送してもらえるとのことだった。


 俺が金の心配をしていると、「私だって貯金してるんだよ」と雨谷が得意げに言う。それならばと、もともと買おうと思っていたものよりも少し大きいものを買った。雨谷は小さな悲鳴を上げていた。


 ヘアドライヤーなどの小さいものは、その日のうちに持って帰ることにした。俺の両手にはずっしりとした重みの紙袋が提げられていた。


 二人で家電を物色するのは、新鮮で楽しかった。


 空は茜色に染まっている。街中なので、日没を知らせる夏虫はいなかった。


「夕飯はどうしようか」と俺が呟く。


「私たちは何のためにフライパンを買ったのかな?」


 雨谷はそう言いながら、俺の左腕の裾をちょいちょいと引っ張った。俺の左手が提げている紙袋の中には、新品のフライパンが入っていた。


「それもそうだ」


「私の手料理を振舞ってあげるよ。何が食べたい?」


「雨谷が作るものなら、何でも」


「何でもは困るなぁ。楓くんの好きな食べ物って何?」


「トンカツかな。自分で作ったことはないけど」


「揚げ物かぁ」


「面倒だな、って思っただろ」


「バレた?」


「雨谷は顔に出やすいから」


 そう言うと、雨谷は顔をむくれさせる。ほら、やっぱり顔に出やすいじゃないか。


 電柱の上のカラスが鳴く。蜩はいないが、かつての夏を思い出す。あのときも、なんてことのない会話をして帰路についた。決まって、俺たちの他愛もない会話を蜩の叫びが覆っていた。そしてときどき、カラスが鳴いていた。


 今、隣を雨谷が歩いている。あのときのように、二人並んで帰路を辿っている。他愛のない会話が弾む。雨谷が笑う。俺も釣られて笑う。それはまさしく、あの夏の延長だった。


 だというのに、どうしてか俺は何かが足りない気がしていた。



 夕飯のメニューはいつの間にか鍋になっていた。具材を切って鍋に入れるだけだから簡単でいいよね、というのが、雨谷の言い分だった。


 真夏の冷房の効いた部屋で、二人で鍋を囲んだ。夏に食べる鍋は意外と美味しかった。鍋を食べながら、二人で酒を飲んだ。俺はビールやハイボールばかり飲んでいて、雨谷はアルコール度数の低いチューハイばかり飲んでいた。どうやら、酒に弱いらしい。


 酒が回ると、俺も雨谷も饒舌になった。俺は過去を懐かしみ、雨谷は未来を語った。


「これからいろんなところに行きたいね」


「そうだな、まずは雨谷の背景になりそうな神社を探しに行こう。そこでまた、雨谷をスケッチするよ」


「夏祭りとかも行ってみたい」


「いいね。祭が終わったら、線香花火でもしよう。昔みたいにまた勝負しようか」


「今度は負けないよ?」


「言ってろ」


 俺は笑った。雨谷も笑った。



 線香花火の話ではあるのだが、「負けない」と豪語した雨谷は酒に負けて、いつの間にか気持ちよさそうに寝息を立てていた。


 俺は霧がかかったような視界不良の思考で雨谷を背負って布団に運ぶと、タオルケットを上から掛けた。そのあとふらふらと彼女から少し離れたところに座り込む。俺も酔いが回っているのか、足元が覚束ない。体の軸も揺れている。顔が火照っている。


 壁に縋って座っている俺の少し先で、俺好みの女が眠っている。俺は彼女のことが、雨谷涼夏のことが好きだ。きっと彼女も、俺のことが好きに違いない。俺のアルコールを浴びた脳みそが、そんな短絡的な思考をしていることは分かっていた。そして、俺の正常な思考と一緒に理性も吹き飛ばしていることも知っていた。


 俺は雨谷のことが好きで、雨谷もきっと俺のことが好きだ。俺が彼女に何かしたって、きっと彼女はそれを受け入れるし、俺のことを求める。そうして俺と雨谷が交わったとき、俺たちの境界面はさらに曖昧になる。


 俺も雨谷も、もう大人になっている。あの心地よかった夏とは何もかもが違っている。


 今の俺は、彼女を性的な目で見ている。酒のせいにしてしまえばいい。彼女の白い肌に触れたい。唇に触れたい。胸に触りたい。小さな肩を抱いて、彼女の乱れる姿を受け止めたい。


 アルコールで痺れた俺の頭が、そんな気色の悪い妄想をする。


 もはや現実と妄想の区別はよく分からなくなっていた。俺の体は勝手に動き、雨谷に跨るようにして膝立ちで彼女を見つめている。


 彼女の寝顔の横に手を付ける。姿勢を落とし、彼女の顔に自分の顔を近づける。唇と唇が触れそうになる。


 そのとき、スマートフォンが鳴った。俺のスマートフォンだ。


 間が悪いとかそういうことを考えるようなことはなく、現実に引き戻された俺は、俺が何をしようとしているのかを客観視した。夜這いをしようだなんて、とんでもない淫乱だ。俺は俺を心の底から軽蔑した。


 それと同時に、電話の主に感謝する。未だ、スマートフォンは鳴り続けている。俺は確かな足取りで立ち上がると、スマートフォンの置いてあるテーブルまで歩み、画面に表示された名前を見てから電話に出た。


『……なんだ、酒でも飲んでるのか?』


 なぜ分かるのか、というのが日下部の声を聞いた俺の率直な感想である。俺の家に盗聴器か隠しカメラかなにか仕込んでいるのではと疑ってしまう。彼は俺の家に来たことはないので、そんなことはまずありえないのだが。


『酔ってるか?』


「酔ってない」


『酔ってるじゃねぇか』


 俺の思考は霧がかかっている。反射的な会話しかしていないことも分かっていたが、俺の頭は分かっているからといってどうこうできるほど優秀ではないらしかった。


『都合が悪いなら、また後日掛け直す』


「いや、いい。続けてくれ。ちょうど酔い覚ましが欲しかった」


『お前がそう言うのなら、まあいいか。近々、そっちに行く用事があってな。久々に一緒に飯でもどうかと思って』


「日下部が俺を誘うなんて、珍しいな」


『悪いな、可愛い女じゃなくて』


「別に、そこには困ってないからいい」


『女でもできたか?』


「そうだと言ったら?」


『盛大に祝ってやるよ。過去を乗り越えられるのはいいことだ。お前の過去も、きっと喜ぶ』


「言っている意味が分からない」


『雨谷も喜ぶって意味だ』


 日下部のその言葉が、俺の鼓膜に引っかかる。


「雨谷は死んでいなかったんだ」


 一瞬の沈黙の後、思考も言葉も呂律も麻痺させているアルコールが、異様にそこだけを正常に、俺の口から押し出す。


『お前、酒が回ってついに世迷言が出るようになったのか』


「世迷言じゃない」


 俺は反論した。実際、俺にとっては世迷言ではないし、俺の側で雨谷は寝息を立てて眠っている。


「雨谷は俺の側で眠ってる」


 そういうと、電話口の日下部が黙り込んだ。ややあって、「襲ったらだめだぞ」と返ってくる。お前のおかげで襲わずに済んだと礼を言う。


『間の悪い男で悪かったな』


「本当だよ」


 俺の言動が理性を欠いているように聞こえたのだろう。日下部は「もう寝ろ」とだけ言って電話を切ろうとする。理性を欠いている俺は、「飯に行く日程はまた擦り合わせよう」と提案をする。


 日下部はため息を残して電話を切った。その頃には、先ほど雨谷を襲いかけたときに比べれば、酔いが覚めていた。


 俺は歯を磨いてから部屋を暗くし、冷たい床に横になる。雨谷と酒を飲むときは、なるべく控えめにしようと思いながら眠りにつく。

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