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翌朝、俺は父に駅まで送ってもらった。車を降りると、「元気で」と短く言われる。俺も「そっちも」と短く返す。口下手な父なりの心配だったのだろう。そしてきっと俺も、父と同じで口下手なのだ。本当は体を大事にしてほしいだとか、酒とたばこはほどほどにしてほしいだとか、いろいろ言いたいことはあったはずなのに。
そんな風に思いながら、父の車を見送った。
母に持たされたおにぎりを食べながら、駅の待合室で雨谷が来るのを待つ。おにぎりの中には鮭フレークが入っていた。
あと二口ほどで食べ終わるかといったところで、遠くから手を振る人影が見えた。白のブラウスにデニム生地のスカートを履いた女性がトランクケースを引っ張ってこちらに向かってくる。
「楓くん、待たせちゃったかな?」
「いや、俺もさっき来たばかりだから大丈夫だよ」
おにぎりの残りを一口で押し込み、お茶で流し込む。
その様子を見ていた雨谷が「おにぎり?」と不思議そうに言う。
「母親が持たせてくれたんだ」と俺が言うと、「そうなんだ」と納得していた。
「優しいお母さんだね」
「世話焼きすぎてちょっと面倒だけどね」
そういえば、雨谷には昔も自分の両親について話したことはなかったなあ、と思う。というか、風の噂で雨谷の家庭環境があまりよろしくないことを小耳に挟んでいたので、話題として触れづらかったというのもある。
「私、お母さんに優しくしてもらったことないから、羨ましいな」
改札を過ぎてから、隣を歩く雨谷がそう溢す。俺が反応に困って黙り込んでいると、「ごめん、こんなこと言われても困るよね」と笑った。
雨谷の家庭環境があまりよろしくないことは知っていた。ただ、具体的には何がどうなっていて、何が雨谷の心に厚くて黒い雲をかけているのか、俺は知らなかった。
「雨谷のお母さんは、どんな人なんだ?」
車両に乗り込んで席に着くと、俺は意を決して聞いてみる。
「すごく身勝手な人」
雨谷が答える。電車が動き出す。窓に映る雨谷の顔が遠くを見ていた。
聞くべきではなかったかもしれないと、俺は彼女から目を逸らした。こういうあまりにも踏み込んだ会話は、ラインを見極めるのが難しい。例えば、日下部にとって俺と雨谷の関係を聞くことが何でもないことであるのに対して、俺にとっては消化しきれていないことだったりする。
「……ごめん。聞くべきじゃなかった」
俺は謝罪を入れた。すると、隣に座る雨谷は俺の方を振り向き、不思議そうに首を傾げた。
「どうして? 私、楓くんに私のことを知ってもらえるの、嫌いじゃないよ?」
むしろもっと質問してほしいな、と雨谷が付け加える。
そうは言っても、他所の家庭環境を詮索する行為はあまり褒められたものではない。俺は話題を変えようと、別の話題を探す。雨谷を挟んだ車窓から山が見える。これだと思い、話を挟もうとする。しかし、俺が口を開く前に、雨谷が会話の主導権を握る。
「私の両親は」
そこまで言って雨谷が視線を俺に向ける。このまま話してもいいかな、とでも言いたげに、俺を見つめる。俺はつい先ほど見つけたつまらない話題を諦め、雨谷の言葉に耳を傾ける。
「私の両親は、いつも喧嘩ばかりしてた。お父さんは真面目に働いてたけど、お母さんがギャンブルとホストに依存しててね。酷いもんでしょ」
雨谷が笑顔を崩さず言う。それでね、と続ける。
「お父さんもそんなお母さんに愛想つかしちゃって、不倫して離婚。私のことも、『あの女の血が入っているから』って理由で親権を放棄。そうなっちゃったのが、中学一年生の秋の話。ただね、お父さんはまだ真面な方だったから、私にへそくりを残してくれたの。中学を卒業するまでの月々の食費を二万だとして、三十万ぐらい。中学生の私からしたら大金だった。けど、そんな情けをかけるなら私も連れ出してほしかったと、その時は思ったよ。お金の入った封筒は、毎日学校に持って行ってた。お母さんに見つかったら全部溶けてなくなっちゃうからね。幸か不幸か、お母さんは私に興味がなかったから、封筒が見つかることはなかった。なんなら、いつの間にか家に帰ってこなくなった。給食もあったし、ご飯に困ることはなかったよ」
私の親ってそういう子どもみたいな人なんだ、と雨谷は締めくくる。
この世には、俺なんかより不幸な人間がたくさんいる。雨谷もその一人だ。俺は、両親には愛されていた。両親がひどい喧嘩をするようなこともなかったし、何かにお金を溶かして、俺が食い逸れるようなこともなかった。
一般的な幸せを享受していた俺は、雨谷の話を聞いて少し羨ましくなった。俺は幸せな人生を歩んでいたはずなのに、中身が埋まっていなかった。空っぽでどうしようもない人生だった。俺が不幸な人間だったなら、そんな自分への言い訳ができたのだろう。俺は不幸に憧れていたのだ。そんな自分を、恐ろしいまでの愚かしさを孕んだ性格の悪い人間だと思った。もしかしたら、実は俺は人間ですらないのかもしれない。
そんな胸中を雨谷に明かせるわけがなく、俺は「それが、雨谷が自殺した理由?」と尋ねてみる。雨谷は首を横に振る。
「半分は正解だけど、もう半分の理由は別」
「聞いてもいい?」
確認すると、雨谷は「いじめ」とだけ答えた。
「ベタな理由でしょ」
「そうだね、確かにベタだ」
聞くと、その理由はさらにありがちなものだった。
雨谷は客観的に見ても顔立ちが整っていて、非常に可愛らしかった。白くてきめの細かい肌や細い腕が醸し出す儚げな雰囲気は、思春期の男子生徒には少しだけ刺激が強く、庇護欲を煽った。おまけに、どのグループにも属さない一匹狼のようなところが、ミステリアスで大人びているように見えていた。彼女に思いを寄せる男子は少なくなかった。
ただ、声を聞くことはおろか、会話すらしたことのない雨谷に尻込みする男子生徒は多かった。そんな中で、雨谷に話しかけ、付き合ってほしいと告白した生徒がいたらしい。雨谷も名前を忘れたらしいが、確かどこかの運動部のエースとかだったと思う、と語る。彼の告白を、雨谷は当然断った。
次の日から、ある女子グループの陰湿ないじめが始まったという。
「私の見立てだと、多分あのグループを取り仕切っていた女の子が、その運動部の男の子のことが好きだったんじゃないかな、って思うんだ」
雨谷はそう語る。いじめは、誰の目にもつかないところで行われていたそうだ。人が来ない旧校舎の階段裏、女子トイレ、体育倉庫。逆に、人の目につくところでは雨谷に干渉してくるようなことはなかったらしい。雑に絡みに行って、良くも悪くも関係があることを悟られれば、いじめをしているという事実のヒントを与えることになる。それを恐れていたのだろう。確かに、俺は中学生の時にいじめに関わる噂話を聞いたことがない。平和な学年だとさえ思ったことがあった。それがまさか、見えないところでいじめが起きているなど、誰とも関わりがない俺が知る由もないのだ。
教科書や筆記用具を隠されたり、ノートを破かれたりする、なんてことはしょっちゅうで、服を脱がされ写真を撮られたり、水を被せられたりしたこともあったそうだ。一番嫌だったのが、ゴキブリを食べさせられそうになったときだと、雨谷は語る。
自分の痛ましい過去であるはずなのに、雨谷は無感情にそれを話した。
それで不登校になったんだ、と雨谷は話にオチをつけた。
「そのあとに、自暴自棄になってたのが夏休み」
「……あの日、雨谷はどうして神社にいたんだ?」
俺は彼女との出会いを回想する。彼女の物憂げな表情の理由が今なら分かる。
「ただの神頼み。こんな私は、きっと神様しか救えない……と思って」
そんなところだろうな、と俺は思っていた。そもそも神社は俺のデッサンモデルではなく、一般的には神様に手を合わせる場所なのだ。やってきては絵を描いて、賽銭も投げずに帰る俺に神様はさぞ怒り心頭だったろう。しかし今のところ、俺の人生の中で天罰が下ったことはない。
よって俺は、昔は神様を信じていなかった。しかし、雨谷は神様を信じていた。いや、もしかしたら神様を信じているわけではないのかもしれない。神様とかいうものに縋るしかない者は、きっと自分の人生に満足していなくて、不幸な人間なのだ。
雨谷はそれほどにまで、自身の抱える境遇に、その重さに押し潰されてしまいそうだったのだろう。
「それで、私は運よく私の神様に逢えたから、夏休み中は生きながらえることができた」
「神様に逢えた?」
不思議なことを言う雨谷を見る。雨谷が俺を見つめ返す。
「そう、神様」
「……俺が?」
疑問符を投げると雨谷は頷く。
「うん。楓くんが私の神様。私はあの夏、確かにきみに救われていた」
そう言って、雨谷はにっこり笑った。
雨谷涼夏という女の子は、俺にとっての神様に等しかった。それと同じように、あの境遇の元で出会った俺は、雨谷にとっての神様になっていた。
雨谷が俺の神様になったのは、彼女が死んだ後からだ。
俺の神様は俺の脳みそに染み渡っていた。俺の書いた小説には、俺の綴った詩には、俺の唄った歌には、俺の神様が宿っていた。それと同時に、それは俺にとって呪いのようだった。
「俺はそんなたいそうな人間じゃない」と、俺は雨谷の視線を一蹴した。過去を神格化し、縋りつくのはどんな呪いよりも己を蝕む。そう思っての言葉だった。過去に縋っていては、人間は前には歩き出せないのだ。
俺を神格化するのは辞めた方がいいと、遠回しに言ったつもりだった。
「神様だよ。だって私を繋ぎとめてくれたんだから」
まるで聞いていないようだった。雨谷は念を押すように言った。
しかし、だ。雨谷には自殺した事実があった。つまりそれは、俺を神だと言いつつ、俺に救われきれていなかったことを指す。
「俺は雨谷を救えていないだろう。繋ぎとめてもない。現に、雨谷は自殺した」
電車がトンネルに入る。鏡面の様に、窓ガラスが俺と雨谷を映す。窓ガラスの中の雨谷が正面を向いたのが見える。
「……幸せなまま死にたかったんだと思う」
鏡面の中の彼女は言う。
俺は顔を俯かせ、膝の上で組んでいる両手をぼんやりと見つめる。
その感情自体は、理解できないものではなかった。ただ、結局のところ俺は雨谷を本当の意味で幸せには導いてやれていなかったのだ。雨谷にとっての俺という神様は、彼女の希死に対しての単なる麻酔でしかなかった。
人から与えられる幸せが、必ずしも不幸の特効薬になるわけではないのだ。
思案に耽っていた俺は、思い出したように顔を上げる。隣に座る雨谷を見る。雨谷は、街中に景色を移ろわせていた車窓を眺めている。
しばらくして電車が止まる。少しだけの人が降りて、少しだけの人が乗ってくる。人の動きが落ち着くと、俺と雨谷を乗せた電車は、またゆっくりと動き出す。