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新幹線と特急を乗り継いで地元の駅に到着したのは、十六時頃だった。今日が花火大会なこともあってか、浴衣姿の男女が何組か歩いていた。駅を出ると、駅前のロータリーに仕事を早く切り上げたらしい父の車が止まっていた。
「おかえり」
車の後部座席に乗ると父が言う。「ただいま」と機械的に返す。
父は母と比べればかなり口下手だった。社内には静寂が流れ、エンジンの音だけが鼓膜を揺らしている。
車窓に流れている五年ぶりの地元の景色を眺める。中学校前にあったコンビニは潰れていたし、交差点にあったリサイクルショップはコンビニに姿を変えていた。
「まだ小説を書いているのか」と口下手な父が言う。
「書いてるよ」と淡白に嘘を答える。
「音楽はもう作っていないのか」と続ける。
「スランプなんだ」と、また嘘を重ねた。
父はおそらく、俺の動画投稿サイトのチャンネルを確認しているのだろう。直近にミュージックビデオをアップロードしていないのを見て、理由はなんであれ、創作ができていないことを察していた。
両親は俺の活動を否定も肯定もしなかった。放任的で、やりたいことがあるならやればいい、と言うタイプだった。大学卒業時は、そのスタンスがありがたかったが、就職もしていない中身が空っぽの俺は、そのせいで宙ぶらりん状態になっていると言える。もう少し厳しく、「就職した方がいい」と諭してくれていた方が今となってはありがたかった。
実家は、田んぼを抜けた先の山の麓にあった。駅から車を十分も走らせれば、そこは立派な田舎町に姿を変える。田んぼを覆う青い稲が、波のように揺れていた。
玄関を開けると母が出迎えた。今度は母と、おかえりとただいまを繰り返す。階段を上がって自分の部屋へ向かう。
高校を卒業してから主を失った部屋は、当時のままだった。掃除はされていて埃一つもないが、家具も、高校の教科書もそのまま置いてあった。まるで、死んだ息子の部屋をそのまま置いているかのようだった。俺が事前に電話したからか、ご丁寧に敷布団がベッドの上に敷かれていた。冷房をつける。カビの臭いが送風口から吐き出された。
ベッドに腰を下ろし、そのまま倒れ込む。
今日の夜八時が、約束の時間だった。一体、彼女の口からは何が語られるのだろうか。現状、彼女の存在はすべてが可能性の中でしか語ることができなかった。
実は雨谷涼夏が死んでいなかった可能性、彼女のふりをした他人の可能性、もしかしたら、人智を超えた何かしら特別な存在の可能性。最後の一つはさすがに創作癖が出過ぎている。この世界はファンタジーじゃない。幽霊も宇宙人も、オカルトとしては存在を信じるが、会ったことがないので、現実的には存在しないと俺は考えている。
それもこれも、夜になればわかることだ。俺は夕飯までスマートフォンを眺めながら適当に時間を潰した。
母が作った少し早めの夕飯は気合が入っていた。俺が曖昧なリクエストをしたせいか、食卓には俺が大学に入るまでの好物が所狭しと並べられていた。唐揚げ、ハンバーグ、白身魚のフライにトンカツ。胸焼けしそうになるほど、揚げ物が多かった。こうなるのであればちゃんとしたリクエストを伝えておくべきだったと後悔する。ただ、母が俺の帰省を喜んでくれていることは伝わったし、文句を言って家族団欒に水を差すつもりもなかった。
家族に対する後ろめたさなのか、俺はなるべく母を喜ばせてやりたかった。可能な限り胃袋に詰めようと思った。
久しぶりに食べる母の手料理は美味しかった。ご飯をおかわりした。母は喜んでいた。父と酒を交わした。母にも父と同じように近況を聞かれた。同じことを答えた。
母に雨谷のことを尋ねる。最近、俺の知り合いを名乗る女性が来なかったか、と。すると母は目を輝かせてそのときのことを語りだした。俺にそんな綺麗な異性の知り合いがいることが嬉しかったのだろう。関係性を深く問い詰められた。ただの同級生だと適当にあしらった。
母によると、彼女が訪れてきたのは俺の元に彼女が来る二日前だったらしい。彼女はやはり、俺の現住所を尋ねていた。母は嬉々として俺の住所を教えたそうだ。
やはり、雨谷を名乗る女性は俺の実家を訪ねていたのだ。
時刻はいつの間にか、七時半前になっていた。風呂に入るように言われたが、俺は「少し散歩してくる」と言って家を出た。
家の裏手の坂道を登る。石造りの神社の鳥居が見えたところで、三叉路をさらに山側に登っていく。果たして、そこには当時と変わらない姿の秘密の倉庫が佇んでいた。多少の劣化はあったが、そこは紛れもなく思い出の倉庫だった。
引き戸を引く。甲高い摩擦音が夜の山に響く。雨谷を名乗る女性はまだ来ていないようだった。中は相変わらず木材とコンクリートの臭いが充満している。窓枠は当時のままで、変化があるとすれば机代わりの段ボールが朽ちていたこと、俺が持ち込んでいた小説や漫画がないことくらいだった。
電池式のランプもそのまま置いてあったが、当たり前だがつかなくなっていた。窓枠に手を置いて、星空のような街を眺める。温い夜風が窓枠から入り込む。
「楓くん、もう来てたんだ」
引き戸が開く音と一緒に、女性の声が風に乗って流れてくる。振り向く。そこには、先日会った雨谷を名乗る女性が立っていた。「久しぶりに来るなぁ」なんて呟きながら、中に入ってくる。今日も彼女は白いワンピースを着ており、ショルダーバッグを肩から掛けていた。ワンピースの裾が夏風に誘われてふわりと踊る。
「これで、私のこと信じてくれるかな?」
彼女が真っ直ぐに俺を見つめる。俺は少しばかり黙り込んでしまった。どう考えても、目の前にいるのは詐欺師でも何でもない、本物の雨谷涼夏に他ならなかった。その瞳も、嘘をついているようには見えなかった。
「きみのことを信じる前に、確認したいことがある」
「なにかな」
「雨谷涼夏は死んだはずだ」
どうしても、これが気になった。いや、気にならないわけがなかった。雨谷涼夏はすでに故人で、俺の前に姿を現すはずがない。もしも彼女がこれを認めれば、彼女はただの嘘つきになる。その場合、俺は彼女の演技力を手放しに誉めなければならない。ただの演技で俺の心をここまで掻き乱すのは、称賛に値する。
彼女の言葉を待つ。彼女は真剣な眼差しで俺を見つめている。彼女の唇がかすかに動く。
「そうだね」
彼女の髪が夜風に揺れた。
認めた。彼女は雨谷涼夏の死を認めた。それはつまり、目の前の彼女が、自分は雨谷涼夏ではないと自白したのと同義になる。大したものだ。俺の思考を塗りつぶして、五年帰らなかった実家に帰らせて、俺に多大な影響を与えている。賞賛すべき演技力だ。もしかしたら、俺が知らないだけで著名な女優なのではないかと疑ってしまう。
「……でもね、楓くん」
彼女に向ける皮肉を込めた誉め言葉を探していると、雨谷を名乗る女性は言葉を続ける。
「仮に私が偽物だとして、どうして雨谷涼夏と楓くんしか知らないことを私が知っているのかな?」
「それは……きみが雨谷の友人で、彼女から話を聞いていた可能性もある」
「でも楓くんは、私のことを雨谷涼夏に似ていると感じている」
「……妹かもしれない」
「雨谷涼夏は一人っ子だよ」
俺は反論の言葉を失った。確かに彼女の言うとおりだ。彼女が雨谷の死を認めたからといって、この状況が説明できるようになるわけではない。むしろ、謎は深まるばかりだ。
「楓くんは、私のことを雨谷涼夏だと認める以外に選択肢はないんだよ」
雨谷を名乗る女性は、そう結論付けた。
もう俺には訳が分からなかった。今の状況を一言で表すならば、彼女は雨谷涼夏であって、雨谷涼夏ではない、ということになる。雨谷涼夏を自称するものの、彼女の死を第三者の視点から見ている。彼女の言葉からはそんなニュアンスを俺は汲み取っていた。もはや、彼女が何者であるのかを問うのは愚問であるように思えた。
「……一体、何が目的で俺の前に現れた?」
きっと俺のその問いには、俺自身の戸惑いが含まれていた。訳の分からないこの状況を説明するためのヒントが欲しかった。
「私は、昔の私が楓くんに付けた傷をただ癒したいだけなの。昔の私はきみの前から姿を消してしまったから。無理にとは言わない。だけど今は、今だけは、私のことを雨谷涼夏だと信じてほしい」
そう言って、彼女はショルダーバッグに手を突っ込む。何かを取り出して俺に差し出す。スケッチブックと十二色の色鉛筆だった。
私のことを信じるのなら受け取ってほしい、という意図が見えていた。俺は彼女の顔を見た。まるで今にも泣きそうで、これを受け取らなければ、また取り返しのつかない結末が、雨谷涼夏の死が訪れてしまう気がした。そうすればきっと俺は、また後悔する。
俺はそれを受け取った。受け取らざるを得なかった。雨谷は涙ぐんだ声で「ありがとう」と溢す。潤んだ瞳を拭うと彼女は笑みを浮かべた。やはりどう見ても、彼女は雨谷涼夏だった。
雨谷はそのまま窓枠の前まで歩むと、片手を置いて夜風に靡く髪を耳に掛けて、俺の方を振り返った。
「またあの日みたいに、私のことを描いてくれないかな。楓くんと過ごした毎日が、私、好きだったの」
その言葉に呼び起された俺の記憶は、自然とスケッチブックを捲っていた。絵を描かなくなって久しいのに、まるで昨日までもそうしていたように、自然な動作でスケッチブックを持ち、色鉛筆を握って線を引いた。
雨谷の後ろで花火が鳴った。藍に咲く色とりどりの花が弾けては消え、弾けては消えを繰り返す。
その姿が、中学二年の夏休みに見た雨谷と寸分違わず重なっていた。




