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それからの私がどうしていたかというと、私は私を愛してくれるはずだった人をずっと見ていた。そう、楓くんのことをずっと見ていたんだ。
初めのうちは、私という存在そのものも消えてしまうんじゃないかと考えたけど、そうはならなかった。
誰がそう仕組んだのかは分からないけど、雨谷涼夏が死んでもなお、私はフェイカーとして存在していた。それが、私がイレギュラーな選択肢を選んだことによって発生したバグだというのは、もう少し未来で明らかになるけど、当時の私は他にできることも特にないから、ただただ楓くんを見ているだけだった。
というか、楓くんのことが気になってしょうがなかったんだ。雨谷涼夏の恋心は私に強く根付いていた。彼女は死んだはずなのに、彼女の感情だけが私の中に取り残されていた。
楓くんはとても辛そうだった。どこかぼんやりとしていて、その視線の先はいつも花瓶の置かれた机一つだった。
放課後になって、教室に一人になっても楓くんはそうしていた。そして、おもむろにスクールバッグからスケッチブックを取り出して、花瓶の花をスケッチしていた。まるで、そこに雨谷涼夏が座しているみたいに。
そうして帰宅して、今度は神社に足を運ぶ。来るはずのない人を待ち惚けする。
私は、とんでもないことをしてしまったんじゃないかと思った。さっき、フェイカーの在り方は生命に対する冒涜だと書いた。生者を騙して死者を弄してのうのうと生きる害獣のようなものだという認識を私は持ったと。でも、果たしてそれが本当に正しかったのかどうか。
目の前で笑わなくなってしまった想い人に対して、私がとるべき選択はフェイカーとしての責務を全うすることだったんじゃないかと思った。
でも、もうすでに全部が手遅れで、雨谷涼夏の死は中学校全体に広がっていて、全校集会も開かれて、気付こうともしなかった大人たちが涙ながらに何かを訴えるばかりで、本当に取り返しがつかなかった。
雨谷涼夏の死がこの世に刻まれて、その傷跡は、しばらくは冷めることはなかった。
楓くんは学年が変わるまで、そんな生活を続けていた。放課後に神社に行って、雨谷涼夏を待ち続けた。雨の日も、曇りの日も、雪が降った夜でさえ、スケッチブックを片手に神社の石階段を登っていた。
春が来て、中学三年生になったころには雨谷涼夏の噂話もどこかに消えて流れていて、誰もが受験に備えてピリピリとした空気を纏っていた。
それは、楓くんも例外ではなくて、普通に中学生していることに私はちょっと安心した。この頃には、もう絵を描かなくなっていたみたいだけど、その代わりに小説を書き始めたんだよね。その活動にのめり込んでいる様子は、私も少しだけ後ろから見ていた。何を書いているのかは想像できたから、見ないことにしていた。楓くんはその時にはもう、雨谷涼夏が残した呪いに囚われていたから。
楓くんは頭がいいから、ちょっとだけ頭のいい高校に入ったよね。そこで出会ったのが日下部くんだった。彼は楓くんにとっていい友人になると私も思った。彼と話しているときだけは、比較的普通に高校生をしていて、過去の呪いから少しだけだけど解き放たれているように思えた。彼にはずっと楓くんの側にいてあげてほしいと思った。
こんな楓くんが知っているようなことをわざわざ書いたのは、この事実が私にとってとても重要だったから。
私も、楓くんに執着していたんだ。楓くんが雨谷涼夏の言葉に執着するように。でも、それは私の本意ではなかった。それは雨谷涼夏の特権であるように思えた。私はただの第三者で、傍観者で、偽物だ。私が楓くんを監視し続ける必要はないんだ。
自分の中にある恋心だって、雨谷涼夏の置き土産だ。それを自分のものだと思い込んでしまうのも嫌だった。そう、私はあのとき、雨谷涼夏の感情を通して楓くんに恋をしていたんだ。
それに気づいたときにはもう失恋しているようなもので、ちょっとセンチメンタルな気持ちを抱えていた。
楓くんを見ていたのは、そんな紛い物の恋心と、純粋な心配する気持ちからだった。そのうちの片方を、日下部くんが解消してくれるようだったから、私は自分の心を騙して納得させた。楓くんはもう大丈夫だから、私が見ている必要はないから、だから離れようと。
そうして、楓くんを側で見ていたのは楓くんが高校を卒業するまでだった。
実を言うと、楓くんの側を離れなければいけない理由はもう一つあったんだ。もしかしたら、私のくだらない恋心よりもこっちの方が楓くんにとっては興味深い話かもしれないけど、このころの私は存在が不安定だったんだ。具体的に言うと、実体を得たり失ったりしていた。
気付いたのは、高校の教室で楓くんを見ているときだった。教室端の掃除用具入れのロッカーに縋るような位置で、楓くんを見ていた。
そのとき、不意に視線に気づいて、そっちを見ると女子生徒が私を見ていた。おかしいんだ。本来実体のないはずのフェイカーの姿が見えるはずがないのに、私は彼女と目が合った。
その女子生徒は首を傾げた。
「さっきそこに白い服の女の人いなかった?」
そんな風に周りの友達に尋ねる。
けれど、周りの友達はもっと首を傾げていた。その子たちには私が見えていなかったみたいだった。
私は私が怖くなった。急いで教室を離れ、女子トイレに駆け込んだ。洗面台に手をついて、鏡を見た。
いるんだ。鏡の向こう側に、雨谷涼夏の姿が映っているんだ。その顔はとても驚いていて、私を見つめ返していた。かと思えば、鏡に映った姿が消える。手をついていたはずの冷たくて硬い洗面台の感触が手から消える。いや、手そのものがなくなる。
しばらくして、また姿が映る。
この繰り返しが数十秒続いて、最終的には姿が見えないフェイカー本来の姿に戻った。このときの私は、さながら明滅するネオンライトのような感じだったんじゃないかな。
これが、イレギュラーな選択肢を選んだ私に発生したバグだった。偶発的な実体の顕現化。
私が実体を得た姿が、楓くんに見られたらどうなるだろう。そんなことを思った。なおさら、私は楓くんの側にいるわけにはいかなくなったんだ。
だから私は、大学に進学して県外に行ってしまった楓くんを追わなかった。
楓くんと距離をとった私は、ぼんやりと世界を眺めていた。他のことに特に関心がなかったんだ。雨谷涼夏がそうであったから、その性質は私にもこびりついていた。
ただ、夏の間だけは少し違った。藍空に咲く花火を見たり、蝉時雨に耳を傾けたりした。
気が遠くなるような時間を、私は独りで過ごした。
基本的に、私は楓くんと過ごした神社からあまり離れなかった。それ以外に赴く場所と言えば、私の家だとか、秘密の倉庫だとか。どちらにしろ、人がいない場所だった。私に発生しているバグも、人目に付かない場所であればさして問題はなかった。
独りになって三年が過ぎる頃には、その困ったバグも飼い慣らしていた。具体的に言うと、私は私の意思で実体を得たり失ったりできるようになっていた。
実体化するのにも、どうやら条件があるらしかった。
本来、フェイカーはただの傍観者だ。ただ、「見る」ことしかできない。触れることも声を出すこともできない。世界に干渉できない。その権利は、オリジナルが保持しているからだ。
では、オリジナルがいなくなった私はどうなるだろう。手放された権利は、誰のものになるのだろう。
答えを先に行ってしまうと、その権利はフェイカーのものになるんだ。だって、オリジナルが死んでからフェイカーが成り代わったとき、本来であれば、その権利の全てはフェイカーに譲渡されるから。
私の場合、その権利がふわふわと宙に浮いているような状態だったんだ。
だから、例えば私が「触れたい」と思えばものに触れることができるし、叫びたいと思えば喉を震わせることができた。その権利を一時的に手の中に収めることができた。
初めの頃に偶発的に実体を顕現させていたのは、私が何かを意識的に願ってしまったからだと思う。今になって思うと、あのときの私は楓くんに触れたかったし、楓くんと話したかった。
私のようなイレギュラーなフェイカーが実体を得るには、何かしらの目的が必要だったんだ。
そうすると、私が抱えていたバグはそれほど深刻なものではなくて、むしろ私にとって都合のいいものだった。
実体があるということは、物や人に触れられるということで、私はそれを使ってアルバイトをやってみることにした。
名前がないから、雨谷涼夏の名前を使うけど、念のため、身分証が要らなくて、日雇いで働けるアルバイトを中心に働いた。働いている間は実体を使って、そうでないときはフェイカーに戻る。そうしていれば、食事も必要最低限で済むし、睡眠の必要もなかった。
私の尊厳のために書いておくけど、エッチな仕事はしていないからね。
ともあれ、通勤電車で死んだ顔をしているサラリーマンが喉から手が出るほど欲しいような能力で、私は貯金を貯めていった。貯金を貯める理由は特になかったけど、気が紛れるし、私は私として、単なる雨谷涼夏の延長としてではない生き方をできているような気がした。
でも、私はふとしたときに雨谷涼夏の代替であることを認識させられてしまう。どうしても、楓くんのことが忘れられなかった。
楓くんは今頃どうしているのかなとか、この夏は実家に帰ったりするのかなとか、お酒を飲んで羽目を外したりしてないかなとか、体を壊していないかなとか、勉強についていけているのかなとか、――恋人はできてしまったのかな、とか。
そんなことばかり考えていた。
私は想うばかりで、会いに行くわけにはいかないのが、なんとももどかしかった。私の中の紛い物の恋心は、いつまでたっても熱いままで、冷める気配は一向に訪れなかった。
ただ、楓くんが雨谷涼夏を忘れて生きていけるようになったのなら、今を大事に生きているのならそれでいいと思っていた。
私のこの感情は、私という存在が消えるまで持っていこうとも思っていた。
ただ、このときは私の存在が消える条件を明確に知っていたわけではなかった。フェイカーが、愛されなくなったときに消えることを私はまだ知らなかった。




