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俺が彼女を部屋の中に入れてしまったのは、彼女が俺に抱き着いているその様子をほかの住人に見られてしまったからだ。住人は怪訝そうな顔で俺を見つめ、汚い野生動物でも見るかのような目を向けながら俺の横を通り過ぎようとする。しかし、部屋の前の廊下は狭い。邪魔だと言っているかのような視線に押されるようにして、俺は彼女の腕を引っ張りながら、自分の部屋に戻った。
扉を閉めると後ろにいる彼女に向き直る。
「お前は誰だ」
怒気を込めて言う。仮に彼女が死者を騙る不届きものであるならば、俺は彼女に対して罵詈雑言の嵐を見舞ってやるつもりだった。
女性は困ったような笑顔を一度浮かべると、「雨谷涼夏だよ」と名乗った。あくまでも白を切るつもりのようだった。
「雨谷涼夏は死んだはずだ」
俺は、記憶の中の想い人を騙る目の前の女に事実だけを告げる。雨谷涼夏はすでに死んでいる。この世に存在しない。それは紛れもない事実だ。
夏休み明け、彼女の机に花瓶が添えられていたのを俺は覚えている。放課後に、その花を彼女だと思ってスケッチしたのを覚えている。夏が終わっても、夕暮れの神社で彼女を待ちぼうけしていたのを、俺は覚えている。
「けど、私はここに居るよ」
「何が目的だ」
俺は言葉を詰める。俺の予想はこうだ。俺が自殺しようとしていることを何らかの手段で知ったこの女は、俺のことを調べ上げて雨谷涼夏に辿り着き、彼女に扮して弱みに付け込み俺を騙し、金を巻き上げる。そんなところだろう。
しかし、この予想にはいくつか穴がある。一つは俺が自殺しようとしていることを誰にも話していないこと、二つは俺と雨谷の関係性はあの中学二年生の夏休みの中にしかないこと、三つは俺と雨谷の関係を知る者はいないこと。
つまり、この状況を説明する尤もらしい予想は、最初から破綻している。それでは、目の前の女性が本当に雨谷涼夏であるかというと、それも違う。今置かれた状況はまさに異常だった。
目的を問われた女性は固まる。まるでそんな質問が飛んでくることを予測していなかったかのように、視線を逸らして目を左右に泳がせた。相変わらず困ったような顔を浮かべていた。そしてその様子を、俺の脳は完全に俺の知る雨谷涼夏だと認識している。俺の頭も混乱していた。
幽霊であるという可能性はないだろうか。不意にそう思ったが、これも否定するほかない。彼女は俺に抱きついてきた。俺もその温かさを感じていた。そんな恥ずかしい場面を同じ階の住人に見られている。彼女はどう考えても息をした実体を持つ人間だ。
それではなにか。彼女は本当に雨谷涼夏なのか。さっぱりわけが分からなかった。
俺は大きくため息を吐いた。それに驚いてか怯えてか、女性は肩をびくりと震わせる。先ほどから変わらぬ表情で俺の顔を見上げる。
「……仮に、きみが本当に雨谷涼夏だとするならば、証拠を出してほしい」
「それじゃあ」彼女が不敵に笑う。
「今週末、私たちが花火を見た秘密の倉庫で、花火を見た夜八時に落ち合う。そうしたら、私が雨谷涼夏だって信じてくれる?」
俺は目を丸くしながらも、無言で頷いた。すると、雨谷を名乗る女性は笑顔を取り戻す。
「それじゃあそういうことで。また週末に会おうね、楓くん」
それだけ言い残すと、扉を丁寧に閉めて女性は部屋を出ていった。その閉ざされた扉を、俺は立ち尽くしたまま見つめている。
彼女は、彼女が雨谷涼夏であることを証明するために、秘密の倉庫を選んだ。秘密の倉庫は、俺が小学生のときから秘密基地のようにして使っていた小さなトタン小屋だった。この倉庫のことは、同級生はおろか、家族にさえ話していない。この倉庫を秘密の倉庫として知っているのは、俺と雨谷しかいないはずだ。それだけで、俺が週末に出向かずとも、彼女が雨谷涼夏であることの証明になっていた。
しかしここまできたら、彼女が雨谷涼夏であることを確認せざるを得なくなった。週末に秘密の倉庫に行き、彼女が雨谷涼夏であることを確認して……
確認して、俺は一体どうするのだろうか。考えれば考えるだけ頭が混乱した。俺は当初の予定通り、コンビニにビールを買いに行くことにした。コンビニに行って帰る間、ずっと彼女が、雨谷涼夏が頭の中を覆っていた。
俺が初めて秘密の倉庫に雨谷を招いたのも、ちょうど今頃、八月の初めだった。
神社で初めて会ってから、俺は毎夕神社で雨谷と会っていた。夕方に俺が神社に出向くと、すでに雨谷は賽銭箱に凭れるようにして腰を下ろしており、俺は無言でその姿を描いていた。描き終えると雨谷は俺に近づき、「今日も上手だね」とか「ありがとう」だとか、ありきたりな台詞を口にした。
「吉澤くんといると、すごく安心するよ」
雨谷を描き始めて四日が経った頃、薄暗い帰り道で雨谷はそう溢した。
「どうして?」
俺が問うと、雨谷は少し駆け、俺の数歩前で立ち止まって、白いワンピースをはためかせて振り返る。
「吉澤くんが毎日描いてくれるから、私のことずっと憶えていてくれるでしょ? それがたまらなく嬉しいの」
そのときの俺には、彼女の言葉の意味は分からなかった。だが、彼女が死んだ今となっては、死にゆく自分を誰か一人でも憶えていてほしい、そう願っての言葉だったのだろう。もっとも、雨谷を名乗る女性が本当に雨谷である可能性を捨てきれない今、彼女の死そのものが虚構であることも疑わねばならないわけだが。
ともかく、そんな風に会話をしながら俺たちは帰路に着いた。その日の雨谷は口数が多かった。夕焼けが綺麗だね、だとか、夏の大三角形が好きだとか、そんなことを言っていた。その流れの中で、地元の花火大会の話題が出る。
俺の地元では、町に流れる大きな川の側で花火大会が毎年行われる。比較的規模が大きく、同級生たちは小学生のときから夏の一大イベントであるこの花火大会に浮足立っていた。この浮ついた空気が、一学期の終わりの青臭い夏の空気だった。
もっとも、俺は人が多いところはあまり好きではないし、一緒に花火を見に行くような友達は、異性同性問わず居なかった。
だが、花火そのものは毎年のように見ていた。件の秘密の倉庫の窓側が少し開けており、標高が少し高いこともあって町の様子がよく見えた。もちろん、花火が上がる川は町を這う蛇のようにくっきりと望むことができた。
「今日、花火大会なんだって」
雨谷が少し恥じらうように言う。「そうなんだ」と知らないように俺は返事をしたが、当然花火大会があることは知っていた。雨谷の次の言葉を待つ。
「吉澤くんは、花火、嫌い?」
嫌い、という聞き方がなんとも彼女らしかった。相手の出方を伺うような尋ね方。相手の機嫌を伺うような不安げな視線。
俺は短く「好きだよ」と言う。そのあと、最初から用意していた言葉を繋げる。
「特等席があるんだ」
そう言って、俺は彼女の手を引いて秘密の倉庫に向かった。そのときの俺はすでに、雨谷に強く惹かれていた。
俺は、雨谷が花火大会の話を持ち出そうが持ち出すまいが、こうするつもりだった。ただ、自分から何かに誰かを誘ったことがないせいか、話を持ち出すタイミングを計りかねていた。雨谷が花火大会の話題を提供してくれなければ、俺はもっと不細工な誘い方をしていたのだろう。
秘密の倉庫は神社の石段を下りて三叉路を山側に登った先に立っている。誰一人管理していないのか、その様相は長年放置されていることが分かるほど、壁は錆びて劣化し穴だらけになり、唯一ある窓はガラスが朽ちて、窓枠だけが残っている。ギリギリ雨が凌げなくもなさそうな風貌だった。倉庫に入ると、セメントと木材の混ざった匂いが埃と一緒に舞う。鼻腔を擽る。
花火が始まるまではまだ一時間近くあった。俺は電池式のランプのスイッチを押して明かりをつける。テーブル代わりの段ボール箱に置く。倉庫には暇を潰せるものをいくつか持ち込んでいた。小説、漫画、小さい頃に親に譲ってもらったラジオカセット、何枚かのCD。
俺はそれらを一瞥して、そのすべてが今の状況に適していないと判断した。小説や漫画なんてものは一人でその世界に浸るためのものだと、俺は思っている。読み進める速さなんてものは人によって違う。相手がなかなか読み終わらないせいですぐに次にいけないのも嫌だし、逆に自分が読んでいるのにページを捲られるのはたまったものじゃないだろう。そういった経験自体はないが、想像することは簡単にできた。誰かと一緒に物語を楽しむのなら、映像作品が適していると思う。
音楽を流すのも違う気がした。というのも、ラジオカセットだけではなくCDでさえも親からのお下がりだ。俺の好きな音楽とマッチしていることは少ないし、そもそも俺と雨谷の間に音楽は必要なかった。音楽だけじゃない。物語も、必要ないように思えた。
俺はスケッチブックを開くと、「それじゃあ、絵を描いて時間を潰そうか」と雨谷に言う。雨谷も笑ってこれに答えて、両手を窓枠において、窓の前に縋った。目を閉じて、まるで風の音でも聞こうとしているかのように、ほんの少しだけ顔を俯かせた。
そうして、花火の一拍目が鳴り響くまで、俺たちは画家の真似事に耽った。
スケッチが終わるころ、八月最初の花火が打ち上がる。持ち込んでいたデジタル時計は二十時を表示していた。
俺はランプを消すと窓の外に目を向ける。雨谷も、両手をついて窓から身を乗り出すようにして空の藍に弾けては消えていく花を見つめていた。その笑顔が、花火の明かりを受けて七色に遷ろう。
「綺麗だね」
風に揺れる髪を耳に掛けながら、雨谷が振り返る。花火を背にするその様子は、窓枠が額縁の役割を果たしたおかげか、ひどく精巧に描かれた絵画のように見えた。
俺はそんな彼女を見ながらも、またスケッチブックの上で彼女の輪郭をなぞっていた。
鼓膜を揺らした破裂音が、俺を思い出の世界から引き戻す。回らない思考のまま懐古に浸かっていた俺は、自分の手に下げられたレジ袋の中を見た。ビールが二缶と、ハイボールが三缶も入っていた。ご丁寧につまみのさきいかを二袋と、紙コップに氷まで購入していた。
再び破裂音が鼓膜を震わせる。空を見上げる。
どこか遠くで花火が上がっているらしかった。辺りはいつの間にか薄暗くなり、空には藍が広がっている。
つい先ほど俺を訪ねた雨谷も、この花火の音を聞いているのだろうか、などと考えながら帰宅する。どうやら俺の心は、彼女のことをすでに本物の雨谷涼夏だと認識しているらしかった。阿保らしいと思った。
俺はビール一缶を一気に空にすると、さきいかを摘まみながら二缶目を飲んだ。ビールがなくなったら買ってきた紙コップに溶けかけの氷を入れて、そこにハイボールを入れて飲んだ。つまみがなくなるころには気持ちよく酔っぱらっていて、俺はそのまま机に突っ伏して目を閉じた。
気がつけば外が明るくなっていた。
トゥエンティセブンクラブに入ることも、悪魔に魂を売ることも叶わなかった。創作の才能のない俺は、惨めにも自殺に失敗した。