1-1
明日は二十七歳の誕生日なので、近所のホームセンターにロープを買いに行った。死のうと思った。
二十七歳で死ぬことを選んだのは、トゥエンティセブンクラブに倣ってのことだ。著名なアーティストは二十七歳で死ぬことが多いというのを、都市伝説を解説するような動画で耳にした。才能と引き換えに、悪魔に命を捧げているのではないか、というのがオカルトにおけるトゥエンティセブンクラブの扱いである。
因果が逆ではあるが、自分もその歳に死ねば彼らの仲間入りができるのではないかと思った。ずっと傾倒してきた創作の才能のない自分を慰めるための体のいい理由でもあった。
死ぬ準備はある程度できていた。俺が住んでいるこの部屋には椅子とテーブルが一つずつあるだけだ。それ以外の家具はすべて粗大ゴミに出した。好きな小説家の本も売った。ギターも売った。パソコンも売った。中学生のときから後生大事に抱えていたスケッチブックもすべて捨てた。俺を創作に縛っていたそれらは、ある種の呪いのようなものだった。憑き物が取れたような気がして、身も心も随分と軽くなったように思えた。
片づけを終えた俺は、買ってきたロープを片手に改めて死にかけの部屋を見まわした。味気のない伽藍に陽が差す。埃が反射してチラチラと輝いて見える。空っぽな自分にお似合いの棺桶ができあがったものだと感心した。少し自分を褒めてやりたくなった。カラスの鳴き声がした。俺を褒めてくれているのだろうと思うことにした。
日付が変わったら首を括って死ぬ予定だ。スマートフォンの時間を確認すると時刻は十七時を回ったところで何かを忘れていることに気づく。そこでようやく、とてつもない空腹感に襲われ、朝からずっと片づけをしていて昼食をとっていないことを思い出した。
俺は玄関を出ると、駅の方に向かった。アルバイト代が入った日に必ず行く、お気に入りのカツ丼屋があった。毎月のように足を運ぶせいか、店主には顔を覚えられていた。
店に入ってレジ横のカウンター席に座る。普段は見もしないメニュー表を広げてみる。
普段注文するカツ丼とは別の、メニューの中で一番高いものを注文した。アルバイトの大学生ぐらいの女の子から伝票を受け取った店主は驚いていた。「いつものやつじゃなくていいのか」と聞かれた俺は「遠くに行くので最期に」と返す。
「いつでも食いに帰ってきてくれよ」
俺は愛想笑いを浮かべた。
メニューの中で一番高いカツ丼は美味しかったが、店を出てからいつもの安いカツ丼にしておけばよかったと後悔した。値が張るものが必ずしも自分の好みであるとは限らないことを、死ぬ前に思い知った。
店を出たときには空が茜色に染まり始めていた。連日続く猛暑が肌にまとわりつく。中学生の頃とは違い、夕方でも不快感が町中を覆っていた。帰りにコンビニによってビールを一缶だけ買った。夏の暑さにやられたせいだろう。
帰宅した俺は椅子に腰を下ろすと買ってきたばかりの冷えたビールを飲み干した。気分を高揚させるには物足りない気がした。最期なのだから好きなだけアルコールをかっ食らってやりたい気持ちを覚えたが、酔っぱらって自殺に失敗しては元も子もない。ため息と一緒に缶を握り潰した。
椅子の背もたれに縋り、天井を見上げる。自殺を目の前にして感傷的になっているのだろう。俺は頭の中で自分の人生を振り返っていた。
俺が磨いても光らない創作活動に傾倒し始めたのは中学生の頃だった。ある女の子との出会いと、彼女の死がきっかけだった。
その女の子――雨谷涼夏と出会ったのは中学二年生の夏休みに、近所の神社をスケッチしに行ったときだった。思えば、その頃から何かを創ることに俺は固執していたのかもしれないが、当時の俺の状況は小学生がよくやる教科書端の落描きの延長でしかなかった。クラスの人気者のようにスポーツができるわけでもなければ、優等生のように特別頭がいいわけでもない俺は、そうして絵を描くことでなんとか自尊心を保っていたのだろう(当然、授業中に落描きをするようなやつが、頭がよくなるわけがないのだが)。
毎日絵を描いているのだから、それなりに上達はした。しかしそこまでだ。中学一年生のときの美術の先生に「コンクールに出してみないか」と言われ、試しに出してみたことがあるが、賞に掠りもしなかった。美術の先生の審美眼を疑うと同時に、俺は俺に対してより一層失望した。
それでも、絵を描くこと自体は辞めなかった。辞めてしまえば、俺の中の空っぽが爆発して、俺という人間ごと吹き飛ばしてしまうのではないかという漠然とした恐怖感を抱いていた。半ば脅迫的に俺はペンを握り続けた。
そうして中学二年生の夏を迎える。頭がいいわけでもないし、授業中に落描きはするが、真面目さを完全に手放したわけではなかった俺は、早々に夏休みの宿題を済ませると、堕落した夏休みを過ごした。日中は暑くて外に出るなんてことは考えられないため、冷房の効いた部屋で、昼の情報番組を見ることができる特別感に浸っていた。
俺が夏休みに絵を描くのは決まって夕方だった。陽が傾けば幾分か涼しくはなるし、何よりも夕焼けとその中で鳴り響く蜩の声が好きだった。
その日も太陽が傾き始めると、俺はスケッチブックと十二色の色鉛筆を持って家を出た。家の裏手にある坂道を登った先にある石階段をさらに登る。両側に立ち並ぶ木々が風に揺られて騒めく。その下で蜩が一日の終わりを告げている。
無人の神社に着くと、狛犬の側に座り込んで神社をスケッチするのが日課のようになっていた。毎日同じ角度から描いているはずなのに、毎日微妙に違う。上手くなっている気もするし、前の日に書いたものの方が上出来な気もする。日によってそのクオリティは上下していた。
その日も、同じ場所に座り込んで神社を書こうとした。顔を上げた。視界に映る神社の輪郭を捉える。線を引く。
そのとき、視界の中央に見慣れないものがいるのに気がついた。動かしていた手を止める。そこにいたのは、古びた賽銭箱に縋るように、体育座りで俯いている女の子だった。陽光を浴びた長い髪は、薄茶色に透けて見えた。白いワンピースを着ていた。肌の白さと神社というロケーションも相まって、一瞬だが幽霊でも見たのかと思考する。目を擦る。変わらずにそこに座っている。幽霊などではなく生きた人間だ。女の子が顔を持ち上げる。俺の目を見る。俺に見覚えがあったようで、俺と視線を合わせてから一呼吸ほど置いた後、「吉澤くん?」とぽつりと呟いた。
彼女が俺を知っているように、俺もまた、彼女のことを知っていた。しかし、俺は彼女の問いには答えなかった。俺の視線は彼女に固定されたままでいた。そして、止めていたはずの手はスケッチブックの上で彼女の輪郭をなぞっていた。端的に言うと彼女の――雨谷涼夏の美しさに見惚れていた。
雨谷は同じ小学校に通っていた物静かな女の子だった。誰かと関わることもなく、いつも一人でいるのをよく見かけた。図書室で借りたであろう小難しそうな本を読んでいたのを覚えている。
同じ中学校に上がってからはいつの間にか姿を見かけなくなった。クラスは同じだったはずだが、気がつけば彼女の席はいつも空席だった。そうなった経緯は全く分からないが、いわゆる不登校になっていた。
小学生の頃から端正な顔立ちだとは客観的に思っていた。愛想がよければ、クラスの人気者になっていたのだろうな、とも。
だからこそ、神社という世界から少し隔絶された場所で、太陽が沈み始めて蜩がそれを教えてくれる夕暮れに、少しだけ大人びた雰囲気に成長した彼女の姿は良く映えていた。今まで見てきたどんな被写体よりも絵になっていた。
俺は無言で、膝を抱えて愁いを含んだ表情をしている雨谷涼夏と、手元のスケッチブックを往復した。俺が彼女を描いているのに気づいてか、彼女もまた、最初の言葉以降は口を閉ざした。描かれるがまま、じっとしていた。
西日に照らされた雨谷は、朱色に輝いていた。俺は朱色の色鉛筆に持ち替え、陰影をつける。背後に古びた神社を描くと、より一層スケッチブックの中の雨谷はこの世のものとは思えない幻想性を纏った。人生で初めて、満足のいく絵が描けた気がした。黒と朱を使っただけの、ただのスケッチだ。どんな水彩画や油絵にも及ばない児戯に過ぎない。ただ、そのときの俺はどんな絵描きにも負けない全能感を覚えていた。
俺がスケッチブックを閉じる頃には空は赤紫に染まっていた。太陽が山影に隠れ、辺りが途端に薄暗くなる。俺が描き終わったのを察したのか、雨谷は立ち上がると、両手でお尻のあたりをはたいて汚れを落とした。そして、彼女は真っ直ぐに俺を見た。静かに歩み寄ってくる。
「描けたの?」
俺の横までやってきた雨谷にそう問われ、「うん」と短く返す。
「見せて」
言われるがまま、俺はスケッチブックを開いて、雨谷を描いたページを探した。スケッチブックの中ほどのところで、該当するページを見つける。見やすいように彼女の胸元にスケッチブックを差し出す。雨谷はじっ、と俺が描いたスケッチを見つめていた。描いた絵をモデルである本人に見せるのは気恥ずかしかったが、それでも、俺の中ではかなりの自信作でもあった。
「絵、上手なんだね」
そんな風に褒められた経験は一度や二度ではなかった。絵を描いていて褒められることはよくあった。特に家族は俺の描いた絵を小学生の頃からよく褒めてくれた。ただ、雨谷のその一言は俺の喉の下と顔を熱くした。「ありがとう」とそのときは言ったと思う。言ったと思う、というのは、正確には俺が何と言ったか覚えていないからだ。真っ直ぐに礼を言ったような気もするし、緊張して声を上ずらせたような気もする。照れ隠しで「そんなことない」と言った気もするし、恥ずかしさのあまり顔を逸らした気もする。だが、彼女の賛辞に対する俺の反応など、俺の記憶の中では些末なことだった。
「明日も私がここに居たら、描いてくれたりする?」
薄明の下で夏に溶けて消えそうな雨谷がそう口にする。不安そうに見えた。それと同時に、先ほどまでの愁いた瞳ではなく、何かをしっかりと見据えた瞳で俺を見つめていた。
その言葉に、俺は深く一度頷いたことをよく覚えている。
雨谷涼夏の死を前提とした、俺と彼女の関係が始まったのはこの瞬間だったように俺は思う。あのとき雨谷が見つめていたのは、きっと自分自身の最期だったのだ。
ふと、俺は洗面台の鏡を見つめる。今の俺の目も、同じものを見ているのだろうか。鏡の中の俺は少しやつれていた。表情に変化があるようには見えなかった。
今の自分を、昔の想い人に重ねるなんて馬鹿げている。ぼんやりとしていると、どうしても昔のことを思い出してしまう。とはいっても、気を紛らわすものはすべてこの部屋から消してしまった。
俺はもう一缶、いや、二缶ほどビールを買おうと思い立ち、玄関のサンダルを履いた。扉を開ける。
「わっ」
開けた向こうで、女性の声が聞こえた。この階に住む住人の誰かが、急に開いた扉に驚いたのだろう。その人の顔も見ずに「すみません」と俺は一言置いて、逃げるようにその場を後にしようとした。後にしようとして、できなくなった。
「もしかして、吉澤楓くんですか?」
俺の名前を呼ぶ声に、肩を掴まれた。俺に女性の知り合いなんていなかった。いや、よく行くカツ丼屋でアルバイトをしている大学生ぐらいの女の子には顔を覚えられているだろうが、名前を教えた記憶はなかった。
「どちら様ですか」と言いながら振り向く。
そこには自分と同じぐらいの歳の女性が立っていた。白いワンピースを着ていた。よく似合っていた。長い髪が腰のあたりまで伸びていた。よく似合っていた。不安そうにこちらを見つめる顔が、記憶の中の想い人と重なった。
「……雨谷?」
ぽつりと呟くと、不安げな顔に向日葵が咲いたように、途端に安心した明るさを取り戻す。少し大人びた空気を纏ってはいたが、その表情さえも、俺の中の雨谷涼夏にそっくりだった。
いや、俺の中の空っぽに、俺の叫びが響き渡った。彼女は雨谷涼夏だと、そう叫んでいた。俺の記憶に閉じ込められた死者が、どういうわけか目の前で笑っていた。
「久しぶりだね、楓くん」
そう言って、俺の前に姿を現した思い出が、歩み寄って、俺の腰に腕を回して、まるで恋人と再会でもしたかのように、力強く俺を抱きしめていた。