第四章 不溶性のこの恋は
2月14日
「紫蘭」
部屋に引きこもってばかりだった私の名を呼んだのは兄ではなく、父であった。扉を開けて、「はい」と返事をすると、そこには酷く辛そうな顔をした父がいた。辛いのは私だというのに。これから好きな人を殺さなければならない私よりも辛い顔をしている父が理解できなかった。
「お前に話さなければならないことがある。少し話せるか」
「ええ。勿論です」
父を部屋に入れ、ソファーに父を座らせる。私は父と向かいになるように床に正座して座る。
「こんなことを話すつもりはなかったのだが」
深く息を吐いて、父は私の目を見て言葉を続けた。
「私はお前の両親を殺した」
驚きで声が出なかった。
「私は親友を殺した。お前と同じく、任務に失敗して。一度ではなく、二度も。私とお前の両親は親友だったんだ。そして、私は君の母親のことを愛していた」
何も言葉が出なかった。だから、私と同じ状況だと言いたいのか。自分が愛する人を殺せばいいと提案した人だと言うのに——
「暖、お前の父と、佳奈、お前の母は、交際を両親に否定されて、学生でありながら二人で親と縁を切って家を飛び出したんだ。家を飛び出したときには佳奈は既にお前を妊娠していて。まして、身体が弱かった佳奈は働くこともできず、暖は働いていたけど、低時給であったから、生活はひどく困窮していた。佳奈は病院に行くことなんてできなかった。私は佳奈に子供がいるだなんて彼らを暗殺するまで知らなかった。無論、私は彼らを守ろうとして、暗殺の依頼を受けたとき、私は佳奈に電話をしたんだ。逃げてくれ、って。でも、逃げられるはずなんてなかったんだ。佳奈は子を産んですぐだったし、暖は逃げれば私の命がないってわかっていたから。彼らを殺しに行ったとき、リストに載っていない第三者が佳奈の腕に抱き抱えられていることに驚いた。二人は一切の抵抗をしなかった。ただ、一つ。私にお前、白都紫蘭、いや、紫雲蘭を守るよう伝えて死んでいったよ。今回のこともお前を守る為だったんだ。朔を殺すのは酷かもしれない。でも、私はお前に生きてほしいし、亡き暖も佳奈もそう願っている。すまない、守れなくて」
気がつけば私の目からは涙が溢れていた。私は、生きてはいけない存在なはずなのに。生きてほしいだなんて、父からも、死んだ日の両親からも願われるなんて。
「私は……生きていては迷惑をかけるだけなのに」
「違う。お前は生きていていいんだ。殺人兵器なんかじゃない。お前は本来なら、愛されて、当然の人間なのだから。すまない、私が二人の命を奪ってしまったばっかりに。私は不器用な人間だから、お前の愛し方がわからない。本当にすまないと思っている」
父は私を優しく抱きしめた。私は父の方で涙を流す。数分ばかり泣いた後、父は私の頭を優しく撫でながら、
「ほら。今日が最後の日だ。大丈夫、紫蘭。お前ならできる。玄関先で朔が待っている。早く準備していきなさい」
普段なら、絶対に言わない言葉、態度を私に見せて、父は私の部屋を去っていった。私はどうしたらいいのだろうか。彼を殺すべきなのか。けれども、殺したくはない。
久しぶりにクローゼットを開ける。急いで着替えとメイクを済ませて、家を後にする。
「久しぶり、大丈夫?」
なんて、自分が殺されるかもしれないのに彼は笑顔で私の手を取った。今だけはいいのかもしれない。日没までは、こうして彼の優しさに浸ってしまうのも。
「心配していたんだ、ずっと連絡も取れないから。だから、今日は久々に会えて嬉しいよ」
「ごめんなさい、体調が優れなくて。今は良くなったのだけれど」
「ならよかった。じゃあ、水族館に行かない? あ、でも君は人混みが……」
「いいわよ、水族館、いきましょう」
彼と一緒に電車に乗り、隣町へ行く。水族館のチケットは彼が買ってくれて、私たちは中を回った。
「私水族館初めて来たの」
「そうなの? ならよかった、楽しんでいこうな」
付き合ってもいないというのに彼はずっと私の手を繋いでいた。けれど全然不快じゃなくてむしろ嬉しかった。その手をぎゅっと握り返し、心の中で時間が止まったりしてくれないかな、なんて願う。
三時のイルカショーを見て、私たちは水族館を後にした。家を出たのが十二時だったから遊びに出ている時間は少なくとも日没の時間が近づくのは早かった。
「海に、いかない?」
海に行くにはここから一時間電車に乗る必要がある。ましてや真冬の海、断られるかなとも思ったのだが、彼は意外にも「いいよ」と快く応じてくれた。日没は午後の五時半。今は三時半だからこれから電車に乗っても、まだ間に合う。一時間の間私たちは何も話さず、だんだんと傾いてきた太陽を見ていた。
「うわぁ、すごい」
駅を降りて三十分ほど歩いたところに人気ない海岸があった。冬だから余計に誰もいないというのはあるが。私たちは五時を過ぎるまで防波堤の上をジャンプして遊んだ。
午後、五時十五分。日はもう沈もうとしている。夕日が私たちを照らす。別れにはいい場所だったかもしれない。
「ありがとう、今日は楽しかった。また……」
別れの挨拶を述べる彼に銃を突きつける。普段からも人通りの少ない海岸、彼を殺すにはもってこいの環境だ。何ならこの海の底に捨ててしまえば、長い間彼はこの冷たい海の底に沈むことになるだろう。そして、この戻ってきてしまった感情とともに。
「ごめん、なさい」
声が震える。こんなに人を殺すのが怖いとは思っても見なかった。彼の目を見ることができなくて、つい俯いてしまう。
「いいよ、別に。君や彰が殺し屋だということは大分前から知っていた。そして次の標的が僕だということも」
彼は堂々としていた。銃を突きつけられた今も、堂々と。
「ど、どうして私たちが暗殺者だと?」
「どうして、か。僕の母親が元依頼主だったんだよ。自分が暗殺を依頼した先の家族の子供が生きているというのを聞いてどんどん罪悪感に苛まれていって、自ら命を絶ったんだ」
「それは……ごめんなさい。」
「君が謝ることじゃないよ。僕の母親が悪いんだ。暗殺を依頼した母が。いいや、僕が悪いのかもしれない。母にその名を告げた僕が。」
「誰なの……? その女の子は。」
大体察しがつく。彼の母親が死んでからの彼の私に対する行動。恐る恐る質問をすれば、
「君だよ、紫蘭。」
予想通りの答えが返ってきた。彼の母は私の両親を殺し、私の名は彼の母親を殺した。そして、終いには『依頼』の為に私は彼を殺そうとしている。
「別に君に責任を取れとかどうとかは別に言わない。無論、母が死んでから数ヶ月は君を許すことができなかった。僕自身もだが。けど、君はあくまで被害者で、僕の母が加害者だ。そして、何より僕はずっと君に惹かれていた。だから、避けてはいようと、恨むことができなかった。せめて君の近くにいられるように、僕はずっと君の兄弟と交友を保ってきた。卑怯なやつだよな」
彼は堪えていた涙をゆっくりと目から流す。そして、震える私の手に彼の手を重ね、彼の額に銃口を自分で突きつけた。
「僕はね、君になら殺されてもいいんだ。君が依頼を遂行できなければ酷い罰を受けるのは大体予想もつく」
彼の言っていることは確かだ。彼を殺さなければ、私が殺される。生きるには彼を殺すしかない。
「君が傷つくくらいなら僕が死んだほうがマシだ。そして、いつ死ぬかもわからない不確かな未来より、今ここで幸せな思い出と共に君に殺されたほうがいい。今日一日君と過ごしてもう後悔はないよ」
震えた声。本当は彼は怖いんだ。殺したくない。彼に生きていてほしい。私が今ここで自ら命を絶つことで彼は生きることができる。けれど、彼が私を想ってくれているように、私も彼のことを愛している。願わくば、彼と一緒に生きたい。けれどどちらかが死ぬ未来にあるのなら、私は彼の命を優先したい。
「ありがとう、でも、私も貴方が大好きです。そして、私は貴方に生きてほしい。私なら大丈夫よ。一度の依頼を無視したところで、罰を受けるわけがないわ。私が今までこの家にどれほど貢献してきたか、貴方は知らないでしょう? 私は貴方に明日を迎えてほしい」
私がいくら功績をあげたかなんて関係ない。私は彼を殺さなければ死ぬ。けれど今は彼を落ち着かせるために嘘をつく。そして、私の声もひどく震えていた。死ぬのが怖いんだ、私。父にも実の両親にも、朔くんにも生きることを願われているいま、私はこの世を去るのが怖い。
「君の話を信じたい。けど、怖いんだ。また大切なものを失ってしまいそうで」
自分の命が危険にさらされているというのに私の心配をする彼につい笑ってしまう。
「大丈夫よ、一度や二度の失敗はあるでしょう? 最悪少し罰を受けるだけよ、心配しないで。ただ、きっとしばらくは会えなくなるかもね」
私は銃を手から離し、笑顔を見せる。彼も銃を離し、銃は地に音を立てて落ちる。
「君は……、優しすぎる」
震える彼を抱きしめる。私自身も震えていた。それが死への恐怖か、あるいは冷たい風のせいかは私も分からなかった。ただ、彼との別れが恋しかったのは事実。離れたくないとも思ってしまった。永遠にこのままいられたらいいのに、なんて甘ったれた考えすらも浮かんだ。こうやって人は悲しいと涙が出るということも、嬉しいと笑顔になれることも、こんな私が人を愛すことができると知れたのも全ては彼のおかげだ。あの日、両親が殺された日、失われた感情が彼によって取り戻されたのは事実。そのお礼をしなければ。
「大丈夫よ。きっとまた会えるわ。いつかまた会える。それまでの辛抱よ」
ありきたりな台詞をはく。彼も大体察しはついただろう。私に明日は来ないということを。けれど、きっと知らないふりをしてくれている。私の決心を否定しないように。
「そうだよな、君が死ぬはずがないよな。そうだよな、僕は君を信じている。だからまた君の笑顔を見せて」
彼の目からも、私の目からも涙は止まることを知らなかった。彼はずっと大切にしていたペンダントを外しては、私の首につけた。
「これは……、」
「持っていてほしいんだ。君に。お守りだ。僕は君が好きだ。付き合って欲しい。今は返事を聞きたくない。また五年後、ペンダントを介して答えを教えて。僕は絶対に君を愛し続ける。ああ、でもまた明日会えるか。」
「そうよ、またすぐに会えるわ。ありがとう」
「ああ、じゃあ、またな」
「ええ、またね」
もう会うことなんてないのに。『またね』なんて馬鹿馬鹿しい。とぼとぼと下を向きながら歩く彼の後ろ姿が見えなくなるまで手を振り見送る。
「紫蘭、これがお前の選択なのか」
背後から気配もなくやってきたのは父だった。彼は銃を構えていた。
「ええ、悔いはないです。命をかけた恋、なんて素敵じゃないですか?」
「紫蘭……。お前がこの暗殺に失敗したことでお前の命がどうなるのかは忘れたのか?」
「忘れていません。忘れるわけがないでしょう。私は本来あの日死ぬべき人間でした。両親とともに死ぬべきでした。もう人を殺すのも疲れました。どうか私を捨ててください。いいえ、全てこの冷たい海に溶かしてしまいましょうか。この感情も、私自身も」
あと一歩、というところまで足を進める。もう覚悟は決まってある。この冷たい海に身を投げる覚悟が。
「それが最後の言葉か?」
「ええ、今までありがとうございました。」
銃声と共に私は一歩足を出す。右肩に痛みを感じながら、冷たい海の底へ沈んでいく。段々意識は薄れていく。
別の世界線で貴方と会えたなら。
私は意識を手放した。