第一章 捨ててしまった感情
1.6月1日
殺し屋として育てられてきた私にとって、感情とは余計なものだった。悲しい、可哀想、嬉しい、好き。そんなものいらない、人を殺すときにそんな感情は余計になってしまう。情が移っては完璧な殺害ができない。だから、殺し屋にとって感情とは本来不必要なのだ。特に私のような天才と呼ばれる殺し屋にとっては尚更。微塵も何かの感情を抱いたことはない。私、白都紫蘭にとって殺しは生存意義である。それをなくしては、私に生きている価値なんてないのだ。
「おはよう、姉さん」
「おはよう、楓」
朝の四時、私たちの起床時間。普段は一般人と変わらない生活を送り、一般人に化ける。
「おはよう、紫蘭」
「おはようございます、お兄様」
私はこの白都家の血を引き継いだ人間ではない。二つ下の義弟の楓と、同じ歳の義兄の彰、養父に義母にはよくして貰っているが、ずっと昔からずっと殺し屋を営んでいる白都家にとって私は異質な存在で、親戚からは産まれてから十四年経った今でも白い目で見られている。何を言われようと構わない、私はただ人を殺すだけだ。
私の本当の両親は十四年前、私が産まれてすぐに死んだ。死因は他殺。どうやら両親は恨みを買いやすい人柄だったらしい。その時白都家が殺害を依頼されており、父が私たちを殺しにきた。けれど、私はある理由より、この家の家族として迎えられたという。その理由は誰も教えてはくれなかったが。
「すまない、紫蘭、また依頼が来ているが、頼めるか?」
「ええ。いつでも」
きっと脳の作りが異質なのだろう、一種の病気かもしれない。私は人が死ぬこと、人を殺すことになんの躊躇いもない。きっと父はそんな私を買ったのだと思う。きっと、実の父母が殺されたとき、私は他とは違う何かをしたのだろう。私をこの家の一員として認めてくれた父の期待に応えたい。
「紫蘭、最近ずっと続いているじゃない。大丈夫なの?」
「お母様、心配には及びません」
「そう、でも無理はしないでね」
養母は白都家の人間の中で唯一人を殺すことができない人間だ。血を見ることを酷く嫌がり、養母の存在もまた白都家の中では異質だ。彼女は心優しく、私達の心の拠り所だ。こんな私ですら、彼女といる時だけはどこか落ち着くことができる。父も同じだ、母の優しさに依存し、彼女を心から愛している。異質である彼女の嫁入りを意地っ張りな、お祖父様や他の親戚に認めさせた程に。
「依頼はこの通りだ、明日までにしっかりと目を通しておくように」
「分かりました」
クリップで纏められた五枚程度の資料を父から受け取る。一度部屋に戻り、資料を置いてくる。ついでに制服に着替えて、ダイニングテーブルへ向かうと、朝食は並べられていて、家族みんな座っていた。
「いただきます」
手を合わせて、母が作った朝食を食べる。いつも通りのトーストにスクランブルエッグといった普通の朝食。他の家庭とは何ら変わりない。ただ、誰も一言も喋らず、無言で食事が行われること以外は。食後、歯を磨こうと洗面所へ向かうと、兄が私の後ろをついてきた。
「そうだ、紫蘭、試験勉強はきちんとやっているのか?」
「一応は……。でも最近は依頼が連続していて全く手がつけられていません。試験は確か……」
「三週間後だ。楓も依頼を受けられるようになったのだから、そろそろ依頼を止めてもいいんじゃないのか? いい成績を取らないと怒られるのはお前なんだから。」
父は私たちに高い学力を求める。それはなぜかはわからないが、中学に入ってからというもの、私と兄はずっと上位を占めている。今年中学になった弟も次の試験では良い成績を取るように父からうるさく言われている。
「それじゃあ、楓の勉強時間を減らしてしまうではないですか。お父様に代わりに依頼をお願いするわけにはいきませんし、何とか頑張りますよ」
「最近の依頼量は異常すぎる。二日に一度のペースじゃないか。俺からお父様に話しておくよ」
「大丈夫ですわ、お兄様。お心遣い感謝します」
父の手を煩わせる訳にはいかない。いくら毎日依頼が来ていようと、拾われた私はその依頼に応じるのみ。父がやれと言えばやるし、それ以上もそれ以下もない。
「そうか、無理だけはするな。俺も別にできなくはないからな」
「ありがとうございます」
私がお礼の言葉を述べると、兄は洗面所を後にした。私は歯ブラシに歯磨き粉を乗せ、歯を磨いた。その後、胸下まで伸びた髪を一つに束ね、また自室に戻る。学校に行くまでまだ一時間以上時間があった為、朝、父にもらった資料に目を通す。
明日の標的は八十五歳の高齢者。家族からの依頼で、自殺に見せかけて欲しいという要望付きだった。この年齢での依頼は大体は遺産目当てや、保険目当てだ。或いは、『お荷物』になってしまったか。その人の一日の行動スケジュールを見て、午後六時が最適だと判断する。その人の家まではここから車で二時間かかる為、明日は学校を早退しよう、とも計画を立てる。早退をするためには父に予め一言言わなければならない為、地下にある父の書斎へ向かう。四回ドアを叩き、
「お父様、紫蘭です。明日の相談があります。入っても大丈夫ですか?」
と礼儀正しく尋ねる。中から「入れ」と父の声が聞こえ、「失礼します」と言いながら、戸を開ける。
父の書斎には壁を埋めるように本棚が並べてある。そして、資料ファイルがびっしりその本棚に詰まっている。これらは全て私たち白都家の人間がこれまで殺してきた人の資料だ。
「どうした、断りに来たのか?」
「いいえ、明日はどうしても移動に時間がかかる為、学校を早退したく」
「ああ、いいだろう。要件はそれだけか?」
「ええ。ではまもなく家を出なければならないので失礼します」
要件が済んだため、父の書斎を後にしようと、父にお辞儀をして部屋を出ようとする。
「紫蘭」
けれど、ドアノブに手をかけたところで父が私の名を呼んだ。
「なんでしょう」
そう、振り返ると、父が一瞬眉間に皺を寄せ、何かを思い悩んだ表情をした。普段見ない父の姿に衝撃を受ける。
「い、いや。なんでもない。頑張ってくれ」
「ありがとうございます……?」
結局父が私に何を伝えたかったのかわからないまま私は父の書斎を後にした。父の書斎は嫌いだ。どこか息が詰まる。長年殺し屋を営み、我が家の大黒柱である父の威厳は凄まじい。怖いわけではない、本能が私に『危険だ』と知らせる。もう何年も一緒に住んできたから大分慣れてきたけれど。何人もの依頼者が父を前にして逃げたのを見たことがある。人を殺せと依頼するほどの勇気がある者が、だ。全く笑えてくる。
「行ってきます」
学校には徒歩十五分程で着く。鞄を持って、いつも通りの通学路を歩く。今年で三年だから来年の四月になれば卒業だけど、高校になっても中学の近くの高校に通う予定だから、これからもこの通学路を歩くことになるのだろう。これが好きという感情かどうかはわからないが、私はこの道を気に入っている。私が住む街でも有名な桜並木の名所で、春は桜が綺麗だ。私は桜が落ちてしまった夏も気に入っている。灼熱の熱さの太陽の光を遮ってくれて、涼しく心地がいい。
「おはよう、紫蘭ちゃん」
「おはようございます、水田さん」
「もう、敬語に苗字呼びはやめてって言ったじゃない! クラス一緒になってから私たちもう二ヶ月も経つのよ? 歌恋! ほら、呼んでみて?」
「歌恋……」
「そう! やったー!」
通学路で私に話しかけてきたのは水田歌恋というクラスメイトだった。人間付き合いが上手な兄とは違い、孤立しがちな私に唯一話しかけにきてくれる子。迷惑ではないのだが、どう接したらいいのかわからず、つい冷めた接し方をしてしまう。
「昨日ね、彰くんと朔くんが一緒にゲーセンに行っているのを見たんだ! 全くテスト前なのに余裕ありすぎでしょ……。でも三年の二大イケメンが揃うとやっぱり神々しかった!」
兄は『三年の二大イケメン』の一人だ。運動も勉強も出来、明るい人柄やその容姿から人気である。そして、もう一人の神城朔もまた、その容姿からみんなから慕われる。ただ、小学六年の頃に母を失っており、中学に入ってからは髪を金髪に染めたり、ピアスを開けたりと少し不良気味だ。それでも尚、弱いものには優しく、コミュニケーション力も高い。その為、根っからの不良というわけでない。そして、私はかつて彼と仲がよかった。
「そうなんだ」
「そうそう、紫蘭はちゃんと勉強している? あっ、でも頭いいからテストの心配はないかぁ。バカは辛いよ……」
「そんなことないよ。私もまだ手をつけてないわ」
「じゃあじゃあ! 一緒に勉強会しない? まぁ、教えてもらうだけになるだろうけど!」
勉強会……したこともなかった。というよりするような友達がいないというか。
「いいよ、いつがいい?」
「ほんと? いいの? 嬉しい! じゃあ今日の放課後とかは空いている?」
今日は依頼が入っていなかった。だから大丈夫だろうと思い、「いいよ」と答えると、歌恋は嬉しそうに飛び跳ねた。
「これで私も最下位の汚名返上だぁ!」
「今度は最上位にならなきゃね」
教室に着くまで歌恋はずっと喋り続けていて、いい意味でよくこんなに喋れるなぁと感心する。教室に入ると、人気者の歌恋はまた別の友達に話しかけに行った。こんなに明るく可愛い子だもの、彼女はクラスの中心人物の一人だ。だから、そんな彼女が浮いた私に話しかけるのも謎だった。
八時半になると担任がやってきて、朝礼が行われた。ガヤガヤとうるさい教室内だったが、担任が一喝をするとすぐに静かになった。
「えー、近頃暑くなってきているので、温度管理をしっかりするように」
諸連絡とテンプレートのような文で朝礼をしめる。朝礼が終わるとクラスは賑わいを戻した。
「紫蘭、さっき父さんから連絡きたんだけど、確認した?」
「お父様から?」
「ああ、紫蘭に至急の用事だからすぐにメッセージを見るように伝えろ、って」
学校では基本スマホの電源を落としている。せめて、授業は集中して聞き、家庭学習の時間を減らそうと。すぐに電源を入れ、画面の明るさを最大限まで下げては、メッセージアプリを確認する。すると、二分前に父から五件のメッセージが届いていた。
『紫蘭、指名の依頼だ』
『今夜、次の資料の人物を殺せ』
『(資料画像1)』
『(資料画像2)』
『確認後はすぐにメッセージを消すように。』
一時間目が始まるまでまだ十分あった為、急いでスマホを持ってトイレへ向かう。個室に入り、画面の明るさを上げ、資料に目を通す。夕食先のレストランにて、毒を入れて欲しいという要望付きだった。こういうのは割と楽だ。放課後といえば歌恋と勉強会の約束があったが仕方がない。基本的に殺しを実行する『執行人』が断れるのは代理が見つかったときだけだ。しかしそれも通常依頼の時のみ。常連の依頼主の場合はいかなる場合も断ることができない。ましてや私のような白都家の純血じゃない人間が断るなど言語道断。ちなみに依頼を無視した場合、過酷な罰を受けることになる。罰というのは私の命が奪われることだが。あくまで私は人を殺すだけの機械。使えなくなれば捨てられるのみ。白都家にとってそれほど命は軽いものなのだ。国のお偉いさんと繋がっている白都家は現行犯でない限り、捕まることもない。人を殺すことは容易いのだ。
『分かりました。』
腕時計を見るとまもなく一時間目が始まろうとしていた為、父にサッとメッセージを返して、資料のメッセージを消して電源を落とす。走って教室に戻るとすでに数学の教科担任は教室に来ていた。幸いにもチャイムはまだ鳴っていなかった為、ゆっくり着席する。一時間目の授業ということもあって、寝ている人が多かったが、私は真面目に授業を受けた。一時間目が終わった後、勉強会の断りを入れようと歌恋の元へ向かう。
「あの、歌恋」
「なにぃ? どうしたの?」
あどけない笑顔を私に見せた。彼女に少しばかり申し訳なく思うが、父の命には逆らえない。
「ごめん、今日急用ができちゃったから、勉強会には行けない」
「えっ! どうしたの?」
「ほんとにごめん。これだけはどうしても外せない用事が急に入っちゃって」
「ええ、せっかく約束したのに」
約束した、確かにそうだ。けれど、仕方ないじゃない。こんな約束のために命を落とすなんて、それこそ馬鹿馬鹿しい。
「だから、また今度……」
「なに? 喧嘩?」
そう言って割り込んできたのは兄だった。
「お兄様……」
「えっ、彰くん!」
兄はこのクラスでも高嶺の花のような存在。話しかけられるだけでも喜ぶ女子はこの学校にもわんさといる。
「何があったんだ、紫蘭」
「放課後勉強会の約束をしていたのですが、外せない用事ができてしまって」
「クロが怪我したのか?」
『クロが怪我したのか』それは、『指名が入ったのか』の隠語。通常の依頼なら『クロ』ではなく『シロ』になる。
「ええ、それでお父様に早く帰ってきなさいと言われてしまいまして」
「そうか、なら、歌恋ちゃん、俺と一緒に勉強しないか?」
「えっ、本当ですか? ぜひ!」
今回ばかりは兄に助けられた。このまま喧嘩を続けていたら、きっと大変なことになっていた。「ありがとうございます」と、口パクで兄に伝える。兄は私を見て微笑んだ。
そして、何事もなく一日が終わり、放課後になった。私は兄に歌恋を任せて、先に帰宅する。幸いにも私の身長は高く、高校生のアルバイトのふりをして、レストランに侵入することは出来そうだった。父が予め用意してくれたレストランの制服姿に着替え、ショートヘアのかつらを被っては、軽く化粧をする。化粧をすると化けると言われるが、本当にそうだと思う。きっと知り合いと道ですれ違っても分からないだろう。目立ってはいけないから、より醜くなるよう化粧をする。普段かけないメガネを掛けて完全に化けた後、制服のポケットに毒薬のカプセルを入れる。毒を飲んでから五分後に効果が現れる無味無臭の優れた毒。二滴も飲めば確実に死ぬ。時計を見て、そろそろ出発せねばと薄手のジャンバーを羽織り、父に挨拶してから家を出る。白都家にはこういう依頼の時専属の運転手がいて、運転手もまたドライビングスキルが長けた人だ。
「二丁目の高級フランス料理店まで」
「かしこまりました、紫蘭様」
普段は安全運転だ。法定速度で目的地を目指す。感情のない私は、これから人を殺すのに緊張や恐怖すらない、本当に自分はどこかおかしいと思う。
「つきました。ここ、裏口にてお待ちしております」
「ええ、三分で戻ってくるわ」
ジャンバーを脱ぎ、車に置いていく。ゴム手袋をはめながら、監視カメラを避けながらも裏口から敢えて堂々と入っていき、スタッフルームを通って、厨房に入る。資料には標的のテーブルは四番だと言っていた。
「姉ちゃん、これ四番さんに」
時間通りだ。そして、忙しいせいで誰一人として私が偽物だと気づいていない。
「分かりました」
声の音を半音、違和感がないくらいにあげる。四番に持っていく二皿の白身魚のポワレの片方に例の毒のカプセルをバレないように割って中身だけをかける。殺すのは少し白髪の混じった男の方だ。四番テーブルへとそれを運び毒入りをその男の人の前に出す。
「美味しそうだ」
手を合わせながら、「いただきます」とその男は言う。もう最後まで見届ける必要はない。この男は確実にこの毒入りを食べる。今度もまた監視カメラの死角に入りながら、堂々と裏口から出ていき、車に乗る。
「お待たせ」
「ピッタリです。さすがです、紫蘭様」
「当たり前よ、早く車を出して」
もう人を殺すのも慣れたものだ。短時間で確実に仕留めるのももう慣れた。家に着く頃には夕食の時間で、家族みんな夕食を並べて待っていた。急いで服を着替え、みんなと席に着く。
「いただきます」
そう言って手を合わせ、今日も命を頂く。人の命も、食べ物の命も。
「そうだ、紫蘭。さっき連絡が入った。見事だったと。任務達成だよ。お疲れ様」
「ありがとうございます」
嬉しさも罪悪感もなにも感じない。私はただの道具。明日もこれから先もずっとこうして人を殺めて生きていく。それが私の生存意義なのだから。
2.6月20日
少し経ち、とうとう定期試験の日もやってきてしまった。歌恋との勉強会はもちろん、自分の家庭学習をする暇もないくらいに毎日指名依頼が入った。今回は流石にまずいな、とも思った。一方の兄や楓は、しっかりと勉強をしていて、試験の対策もしっかり出来ていた。もう少し時間があればな、なんてぼんやり思った。
「おはよう、紫蘭!」
試験の日の為、一時間も早く学校にきていた私の次に教室に入ってきたのは歌恋だった。次といっても、私の三十分後だが。
「おはよう」
目の前の参考書に集中するために単調に彼女に返事する。それを不服に思ったのか、彼女は何度も「ねえねえ!」と執拗に話しかけてきたが、何度声をかけたところで曖昧な返事しかしない私をつまらなく思ったのかどこかへ行ってしまった。
八時十五分ごろになるとクラスの大体が集まって来た。兄も朔くんと一緒に教室に入って来た。兄もまた話しかけて来たが、それにもまた曖昧な返事を返す。
テストが始まるギリギリまで参考書を熟読し、何度も頭の中で単語を復唱する。大丈夫だ、いつもあんなに情報量が多い資料を一瞬にして暗記しているのだから、と自分自身に言い聞かせる。六十分間目の前のテストだけに集中する。他人の音なんて気にしない。ただ、目の前のテストだけに集中する。教科は国語、数学、社会、理科、英語の一日に五教科を終わらせるスケジュールで、私はお昼ご飯も食べずにずっと勉強していた。感情がない為、『お腹がすいた』という感覚もなかった。今はただ目の前の参考書を暗記するのに必死だった。
「これで全ての試験を終える。お疲れ様」
五時間目終了のチャイムと共に、全ての教科の試験が終わる。やっと終わった。心情的には全く疲れていなかったが、身体的には疲れていたみたいで試験が終わると同時に私は机に倒れるようにして突っ伏してしまった。そして、意識すらも奪われた。
「紫蘭!」
慌てて私の名を呼ぶのは兄……? いや違う、金髪が一に目に入る。朔くん?
「よかった……。」
独特な匂い、少し硬いベッド。ああ、保健室か。窓を見れば夕日が差していて、急いで帰らなければと急いで上体を起こす。
「ちょ、動くな。彰が来るまで待ってろ」
どういうこと? 朔くんは私を避けていた。小学六年の彼の母の葬儀の日に、彼は私を拒絶したじゃない。そのくせ兄とは仲良くして。今更優しくするなんて意味が分からない。
「大丈夫です。心配には及びませんから。」
この数日食事や睡眠を取らずに勉強したのがいけなかったと反省する。彼の心配を押し切って、ベッドから降りて立ち上がる。
「ご心配ありがとうございました。」
偽りの心配なんていらない。視界が歪むが、鞄を持って後ろを振り返らずに玄関へ向かう。
「おい、紫蘭、待ってろ、って言っただろ」
そう言って私の手を掴んだのは兄だった。
「朔くんと帰るのではなかったのですか」
そう言って、手を振り払うと、また兄は私の手を掴んだ。
「朔には先に帰ると伝えた。父さんにも許可をもらって車を出してもらった。体調が悪いなら無理するな」
「無理などしていません。自分の管理不足です」
はぁ、と兄は深いため息をついた。兄に外靴に履き替えるように言われ、すぐに履き替える。そうして、兄にまた手首を捕まれ、引っ張られるようにして車に乗る。
「紫蘭様、大丈夫ですか?」
そう言ったのは我が家で長いこと働いている使用人だ。
「ええ、大丈夫よ」
みんなに心配されるなんて、不甲斐ない。
「明日の依頼は指名依頼じゃないから俺が代わっておいた。明後日からはまた指名依頼になってしまうから代われなかったけれど、明日だけでもゆっくり休め」
そんなことしなくていいのに、なんて冷たいことを言ってしまいそうになるが、ここは兄の愛を素直に受け取って「ありがとうございます」と礼を言う。
家に帰ると、母が私の帰りを待っていた。すぐに部屋へ連れてかれ、着替えさせられてはお粥まで出されてしまった。これじゃあまるで病人じゃない。けれども、母の愛に包まれて眠りに落ちるのも悪くはなかった。
「おい、起きろ」
二時間ぐらいだろうか。父の怒声で目を覚ます。私がしっかり体調管理をできていなかったから怒っているのだろう。
「大変申し訳ございません」
とりあえず先に謝っておく。すると、頬を思いっきり叩かれた。痛いなんていう風には思わない。私には感情も、もはや痛覚すらもないのだ。
「何でもかんでも謝るな! お前は賢いから何故俺が今怒っているのかも大体察しがつくだろう。だが、先に謝るな。お前はなんでも謝ればいいと誤解している。いいか、今後は絶対に容易く謝るな。お前は養子でもこの気高い白都家の人間なんだ。そして、これからはしっかり体調管理をしなさい。時には休むこと……」
父は言葉を止めた。そして、また怒り口調で
「もう二度とお前の兄の手を煩わせるようなことはするな。お前はこの家の優秀な殺し屋なんだ。これからも期待しているぞ」
「分かりました」
結局怒られたのか、褒められたのか、あるいは心配されたのか……よくわからないまま、父は嵐のように部屋を去っていった。部屋のすぐ近くで母が父に「病人を起こさないでください!」と怒鳴る声が聞こえて、どこか胸が和んだ。今はまだこの和みをなんというかは知らない。感情がないことはいいことなのかもしれない。殺し屋にとってみれば。けれど、このまま感情のないまま生きるなんて退屈ではないのだろうか。
一人暗い部屋でそんなことを考えてみる。けれど、考えるうちにどうでも良くなって私はまた目を瞑った。今日の朔くんの行動の意味についても考えながら。
2.5.白都家記録——川上家殺害
依頼主——神城結
依頼日——三月十九日
実行日——三月三十一日
依頼理由
怨恨
1 標的(妻)による学生時代のいじめにより、妹が自殺してしまったことから
2 それを追って母親も自殺してしまったことから
以下やり取りメール
(三月十九日)
件名:依頼 宛先:SHIRA
白都 様
神城結と申します。
突然のメール大変申し訳ございません。
ご相談させて頂きたい件がございます。
よろしくお願い致します。
RotF
神城結
件名:RE:依頼 宛先:神城結
神城 結 様
この度はメールありがとうございます。
RotFに関するご依頼ですね。
その件についてお話させて頂きたいので、明日三月二十日十一時、西区区役所前のカフェでお会いしましょう。
窓側、一番奥の席でお待ちしております。
また、その際にご相談料十万円を現金にてご持参頂きます様お願い致します。
SHIRA
(三月二十日)
件名:依頼金 宛先:神城結
神城 結 様
本日はご多忙の中、お時間をとって頂きありがとうございました。
依頼金ですが、1000万円となります。
尚、契約書にも記載しておりました通り、
『万が一、失敗した際は、依頼主様を犯人として告発させて頂きます』
『一週間以内に入金がなかった場合、本契約は破棄され、今後一切の依頼をすることができなくなります』
こちらの二点、ご注意して頂きます様にお願い致します。
実行331
SHIRA
(三月三十一日)
件名:依頼完遂 宛先:神城結
神城 結 様
夜分遅くに失礼致します。
ご依頼通り 紫雲 暖、佳奈 の暗殺を完遂しましたことここに報告致します。
連日メディアが騒がしくなるかと思いますが、数日後には静かになるかと思います。
この度はありがとうございました。
またのご依頼の際はなんなりと。
SHIRA
件名:RE:依頼完遂 宛先:SHIRA
この度はありがとうございました。
暗殺——成功
備考——娘を回収(本名・紫雲蘭 改名後・白都紫蘭)
回収理由・家庭に難あり。出生を隠された娘であった為。白都終夜の私情。
手続き完了済、白都家の長女として認める
実行人——白都終夜
記録者——如月美里
3.三年前12月20日〜6月20日(朔)
「母さん、聞いて! 今日――ちゃん達の兄弟と一緒に鬼ごっこしたんだけど、すごく楽しかったんだ!」
「そうなの。良かったわね。」
「——ちゃん、いつも笑わないんだけど、時々笑うんだ! すごく優しい子なんだけど、小さい頃に両親を亡くしたせいであまり人と関わるのが得意じゃないらしくて。でもね、最近は、――ちゃんの義理の兄弟の彰くんや楓が一緒に遊んでくれるおかげで、たくさん話せるようになって来たんだ!」
「両親を亡くしたの……?」
「そう! 殺されちゃったんだって! 赤ちゃんの頃に。――ちゃんも本当は殺されるところだったんだけど、助けてもらったんだって! あっ、これ秘密だった……でも母さんならいいよな!」
「その子の本当の名前はなんていうの……?」
「しうん らん。でも、これはとーっておきの秘密なんだ! 母さん……?」
小学六年の冬。世間はクリスマスの準備で急がしい頃、僕はなにも考えず、母にその日あったことを伝えた。その日は――ちゃんとその兄弟と一緒に公園で遊んでいて、すごく楽しかったのだ。母と――の間にある繋がりを知らない僕はただその日の思い出を語った。そして、話を終えた後に母の憔悴する姿を見て動揺した。どうして母はこうも怯えているのか、と。
「母さん?」
「生きていたのね……、ああどうしましょう。あの二人には子供がいたのね……。死んでいれば両親を失うなんて辛い思いをしなかったのに。全てあいつのせいよ。あいつが一人生かしたのね。――、許さない。」
ぶつぶつと喋る母の目は正気の沙汰じゃなかった。狂気に満ち溢れ、話しかけることすらできなかった。
「もういいわ、あいつに電話してやる!」
そう言って、母は誰かに電話をかけた。内容はよく覚えていないがとにかく怒り口調だったのは覚えている。そして、終いにはこの世の終わり、とでもいうような顔をして、電話を落とした。
「そうよね、私が全て悪いのよ!」
台所へ言って母は包丁を取り出した。それは悪魔に取り憑かれているかのよう。
「ああ、――、あんたも死んでいればよかったのに。そうしたら辛くなかったのにね」
「母さん!」
次に母が何をするかぐらいわかっていた、なのに僕はそれを止めることができなかった。死ぬギリギリまで――の名を叫ぶ母を助けることができなかった。母は殺されたのだ。自分で死んだんじゃない。――に殺された(・・・・)んだ。
騒ぎに気付いた父が急いで母の元へ駆けよかったがもうすでに遅かった。母は自分で喉に包丁を刺して死んだ。僕の目の前で。
数日後に母の葬儀が行われた。――は悪くない。そうだ、悪くはないんだ。けれど、彼女の名前を聞いてから取り乱した母の姿を思い出すと、頭では彼女が悪くないと思っていながらもいつものように接することができなくなってしまっていた。彼女が僕の母を殺したんだと、僕の中の悪魔が囁くから。
僕は彼女が好きだった。凛としていて、芯が通った彼女が。その綺麗な長い黒髪も、その端正な顔立ちも。
彼女を避けるようになってしまった自分や、母の死のショックで僕は荒れてしまった。校則違反だと知っていながらも髪を染め、ピアスすらもつけた。このやり場のない怒りをそうやって分散させることしか僕には思い浮かばなかったのだ。
今更、彼女に優しくしたって、彼女と前のようには話せないだろう。だろう、じゃない、実際そうだった。僕はまた彼女と笑い合いたい。ただそれだけだ。
そして叶うことなら、彼女の失われた感情すらも取り戻してあげたい。