5.
次に目覚めたのは早朝だった。
光が薄ぼんやりと差し込むカーテンの隙間から、朝の香りがした気がする。
そういえば、赤ん坊になる前もこんな朝だった気がするな。早朝の匂いが満ちたコンクリートを歩いていた、ような。
そんな意識を阻害するように声が笑った。
『おはよう』
「アム」
『散々な目に遭ったって思ってなさそうな顔だ』
「色々進んだからね」
『彼と仲良くできると思っているのなら、図太い神経だね』
「この世界で七年も生きたんだから、そんなものはとっくに図太いわよ」
それはそうとしてあなたに怒ってはいるけどね!
それを感じ取ったのかアムが肩を竦めたように感じる。
ずっと寝ていたからか喉がカラカラだ。でもきっとメイド達も寝ているだろうし、起こすのも忍びない。
探検がてら厨房に行こう。
こういう無謀が因果を引き寄せているのだと思う。まずは昨日の庭を確認しようなんて、死にかけたやつの思うことではない。それでも私の足は昨日死にかけたあの場所へと進んだ。
「うーん! 風が柔らかい。夏の匂いもする」
『流石に朝は涼しいね』
「裸足で出てきたからきっと戻ったら怒られるわ」
『でも気持ちいいならいいじゃない』
「それもそうね」
踏みしめた土と芝はひんやりしていて気持ちよかった。
暦は薄の終わりを指していている。つまりは八月の下旬である。そろそろ涼しくなる頃だろうが、まだまだ残暑の残る夏だった。
それでも日が照っていなければ随分と涼しく感じるもので、早朝の静けさや消えかけている月のおかげでより地面は冷たい。その心地良さに身を委ねながら、昨日の場所へと向かう。
確か、この辺り。
記憶を辿りながら歩いていればビンゴだった。倒れていたであろう木はすっかり片付けられ、綺麗に整えられた切り株だけが残されている。仕事がなんと速い、なんて思うよりも前に先客が影を揺らした。
もう一度言おう。私はなぜ、死にかけた場所で死にかけさせた誰かのテリトリーっぽいところに赴いたのか。無謀にも程がある。
「あ」
『彼じゃないか。君を殺しかけた赤い瞳の彼』
小さく木霊した私の声が木々を揺らし、その赤い瞳がこちらを見る。
少し眉をしかめた後、踵を返そうとする彼に咄嗟に駆け寄った私は命知らずなのか。
それとも勇敢なのかは知らないが、でも挨拶くらいしたっていいだろう。
赤い瞳の彼はぎょっとしたような顔をして硬直した。逃げるべきか留まるべきか迷うその視線が逃げる前に私は叫ぶ。
「待って!」
「あ……」
戸惑うように出した声は、掠れた少年の声だった。厄災だなんて微塵も感じない、無垢な少年の声。
彼はもしかしたら、裸足で寝巻きの公爵令嬢なんていうおぞましいものを見たから戸惑ったのかもしれない。そんなことに気づいたのは、私の足を見つめている彼がじりじりと後ずさったからだ。
「あの、はしたなくてごめんなさい」
『まあはしたないよな』
「……いえ、少し驚いただけです」
畏まったその口調は、年相応さなど微塵も感じない。
それは虐げられてきたからというよりかは、高貴さを感じさせた。そう教育されたこと自体が虐待と言われてしまえばそれまでだが、ただそれが義務であるのが貴族だとは言うまでもない。
そんなことよりも寝巻きと裸足闊歩を見られたことの方が少しショックなのは、捨てられない乙女心のせいである。
「私はエヴァ。エヴァ・ローレネフシャフです。あなたは?」
呼吸を整えて改めて名乗る。きっと私の名前を彼は知っていて、エヴァが私だと知ってきっと驚くはずだ。だってこんなにはしたない令嬢が、例え七歳でもいるだろうか。
こんなにも阿呆と呆れるかもしれないが、それでも名前を知らなきゃ始まらない。
ここが物語の世界だろうが私のスタートボタンはとっくに押されていて、そしてこんな些細な選択肢はたくさん溢れている。厄災なんて名前じゃなくて彼の名前を知らなきゃ、彼の物語は選択されないしね。
「私の名前。なんて、知ってどうするんですか?」
少し怪しむようにこちらを見る彼に私は不思議そうに答える。
「名前を知らなきゃあなたを呼べないでしょう……?」
『……ぷはっ!』
こいつは何を言っているんだとでも言いたげな、いや実際言いたい節はあったが、そんな声音にアムが珍しく吹き出した。
そしてそんなことを言われた当人は呆気に取られたような顔をして、目をまん丸にさせながら瞬かせている。
あのときはよく顔が見られなかったからまじまじと顔を見るのは初めてだ。顔をしっかりと確認する前に、木が倒れてきたのだから仕方ない。
まあ、まあ。正直すごく整った顔立ちだ。つり目気味だけれど決してキツい印象は受けず、髪も綺麗に整えられた短髪。目鼻立ちはもちろんこれが正しいと言わんばかりに配置されていて、眉目秀麗とはこのことを言うのか……なんてこちらも呆気に取られる。
いつの間にか一通り驚き終わった彼は、暫く呼吸を置いた後に口を開いた。
「ノアークと言います。本名です」
付け加えるように本名だと語る彼を疑うことはしなかった。
でもそれより、本名を名乗ることがきっと良くないことなのはわかるけれど、それにしたって警戒されまくりなことがショックだ。無理もないが、信用されないことに幼心はほんの少しばかり傷つく。
「本名以外名乗られても困ります……」
「どうして?」
「だって私たちこんなに小さいのに偽名を使わなければならない国で生きていることになってしまうでしょう?」
「名前すらないよりマシでしょう」
そう彼は冷たく言い放った。間違っている訳ではない、境遇がいかに冷たいものだったのかも理解できないこともない。それでも七歳の少女に八つ当たりしないでくれ、というのもまた本音。
二十幾年かが邪魔をするから七歳を演じるのも大変なんだ。と念じたところで彼に通じる訳でもないのだが。
「ノアークさまとお呼びした方がいいのかしら」
「ただの居候ですので呼び捨てで構いません、エヴァさま」
「ノアークなら、ノアはどうです?」
「問題ありません」
コミュ症陰キャオタクがイケメンに勇気を出してあだ名をつけたのに、彼も本調子を取り戻してきたのか取り乱すこともなく淡々と私に言葉を返す。
こういう対応をされると意地の悪いことをしたくなるのが世の常である。驚かせてみたい、困らせてみたい。どうせなら笑わせたい。芸人魂。
いや今世の私は超絶可愛いからそんなことしなくてもいいのだが、こいつには通用しなさそうだったから。
それにローレネフシャフ家に来たのだから、安い待遇なぞ家紋の恥さらし。……それは言いすぎたかもしれない。
ふと思いついたことが、口から飛び出るのもまた無謀。私は頭を過った名案を口に出す。
「エヴァにあだ名をつけてそれで呼んで欲しい、というのはダメですか?」
「………………難しいことを仰りますね」
ぎゅっと眉をひそめてこちらを見る彼は随分と大人びて見えたから、私は子供ムーヴを続けようと決意。大人気ないがそれもまた一興。
その顰めっ面は公爵令嬢をあだ名で呼ぶことへの抵抗なのか、単にあだ名をつけるのが苦手だからなのかは分からないが、面倒だという顔をしながら顎に手を当て思案するノアークの姿は様になっていて腹が立った。
「エヴァのスペルはE・v・aなので、最初を取ってイヴはどうですか?」
「………………ふむ」
「……気に入らないんです?」
「いえ……思いの外可愛いあだ名が出るなと……」
『失礼だな、君』
ずっと黙っていたアムが可笑しそうに彼の気持ちを代弁した。確かに失礼とも思うけれど。
そんな中無言を貫く彼は平坦な声で冷静さを装っているつもりでも、顔だけ先程からずっと素直でころころと色を変える。また驚いたように目を見開いた彼はまた少しだけ思案して、口を開いた。
「イヴ」
「あ、はい」
彼がさっきのあだ名を呼ぶ。思わず気の抜けた返事が出た私を尻目に瞳を伏せ、もう一度心に決めたように目をこちらへと向けた。
急にあだ名で呼ばれるとびっくりするじゃないか。なんていう特大ブーメランを食らいながら、彼は真っ直ぐとこちらを見て言葉を続ける。
「イヴ、あなたは私が怖くないのですか」
悲しい言葉だと、そう思う。
こちらを射抜く視線に、私は戸惑いしか返せなかった。
未熟な作品ですが、よければ評価等お願い致します。
少し変更を加えました。(2022/11/03)