007.君とあの場所へ
落ち着いて周囲に目を向けると、そこは明るい森の中だった。
エアネストは平民がよく着るシンプルなシャツとトラウザーズに、マントという旅装だ。
その足元には、見覚えのある布袋が置いてある。
「それは……」
「シアが用意していたものでしょう? 無駄にはしたくなかったので」
「とても嬉しいけれど……寝台の下に隠してあったのに、どうして……」
気付けばアリーシアも、その中に入れておいたはずのワンピースを着ている。
問いかければ、エアネストはにっこり満面の笑みを浮かべた。
「それより、出発しましょう。シアが目覚めるまでにシュタルク領は抜けていますが、早く離れた方がいい」
そう言って、エアネストはアリーシアに軽くくちづけた。
「これからは夫婦として生きていくんですよ。慣れなくては」
まだ数回目の触れあいと夫婦という言葉に、頬が熱くなる。
頭の中にあった疑問がどこかへ行ってしまった。
「ふっ、夫婦というなら……丁寧な言葉もやめてほしい……わ。それにわたくし……私も、あなたをエアと呼んでいいかしら」
「解り……解ったよ、シア。それに、愛称で呼んでくれて嬉しい。……可愛い……」
手を取り繋ぎながらエアネストが答えたが、最後に小さく呟いた言葉は、アリーシアには聞こえなかった。
「行く先は準備してある。国をいくつか超えて行くが、歩くのは今日だけで、あとは乗り合い馬車で向かうんだ。出発する村は近いから、昼過ぎには着くよ」
「何もかも……ありがとう、エア。解らないことがたくさんあるから、色々教えてね」
「シアと生きていくためなら何でもするよ」
あえてだろう、軽く答えてくれるエアネストに、気分が軽くなる。
砕けた言葉に、もう自分たちは王女と騎士ではなく、平民の夫婦であるという実感が湧いてきた。
エアネストと二人なら、どこへでも行ける。
*
馬車の旅は順調だった。
本格的な旅支度はエアネストが既に整えてくれていた。
ブルーメ王国を出れば、もう急ぐこともない。
街道を行く乗り合い馬車の乗り心地は良くなかったが、エアネストがあまり長時間の移動にならないように気を遣ってくれているから、アリーシアも動けなくなるほどの不調を感じることはなかった。
行く先々で、二人でたくさんのものを見て、たくさんの初めての経験をした。
小さな食堂で、つきないおしゃべりと共に楽しむ食事の美味しさ。
初めて見た海の雄大さ。
遠くに見える、万年雪で化粧された峰の峻厳。
……そこに必ず共に在る、愛しいひとの笑顔。
少しずつ、共に在ることが当たり前になっていく。
夢ではないと、夢見た未来を今、生きているのだと、実感する日々。
初めて経験することばかりで失敗もしたが、エアネストはそんなアリーシアに呆れることなく、笑って色々なことを教えてくれた。
エアネストだって伯爵家に生まれ、騎士として生きてきたはずなのに、なんでも知っていた。
それを不思議に思って聞いてみると、ひと月の準備の間に経験したり、学んできたという。
彼は本当に、アリーシアのために行動してくれていたのだ。
教えてくれる何もかもが、アリーシアへの想いそのものであるように思えて、そのたびに心に愛しさが降り積もる。
夜、二人きりの時間にそう伝えれば、エアネストは嬉しそうに笑って、そして想いを返してくれた。
「シアが用意していた刺繍を入れた小物を見るたびに、俺も同じことを思ったよ。あの状況で、自分にできる精一杯を、俺との未来のために用意してくれたんだろう?」
言わずとも解ってくれていた。
そんなものとは言わず、それしかないのかとも言わず、アリーシアを認めてくれる言葉と、愛おしいと伝えてくれる甘く蕩ける瞳が幸せで、幸せで……。
抱きしめてくれるぬくもりと共に、穏やかな夜は静かに更けていった。
*
旅にも慣れ、いくつかの国を越えて、二人は小さな村にたどり着いた。
宿に泊まり、翌朝は徒歩で移動するという。
「旅慣れてきたとはいえ、そんなに歩けるかしら……」
アリーシアが不安を零すと、エアネストは安心させるように抱きしめ、背を撫でてくれた。
「大丈夫。この近くに、二人で暮らしていくために用意した場所へ行くための目印があって、そこまで行けば目的地までは魔法で飛べるんだ。だから、歩いて移動するのは少しだけだよ」
それを聞いて、安心して力が抜けていく。
支えてくれる力強い腕が、更に心を落ち着けてくれる。
明日の移動に備え、その日は早くに眠りについた。
翌早朝、支度を調え、村を出る。
しばらく街道沿いに歩き、小さな丘を越えて村が見えなくなったところで、近くにある森に向かった。
細い獣道を、休憩を取りながら奥へと進んでいく。
そろそろ昼食という時間になる頃、木々が途切れているのが見えた。
森の中の僅かに開けたところに、大きな岩があった。
苔むした岩肌は、人の手が入った様子もない。
「これが目印になっているんだ。シア、手を」
自然が創り出した荒々しい美しさに目を奪われていたアリーシアは、掛けられた声にはっとしてエアネストの手に触れた。
それを優しく握りしめ、エアネストはそっと目を閉じる。
次の瞬間。
何の前触れも無く、二人は違う場所にいた。
目の前に広がるのは、日差しを浴びて輝く森の中の澄んだ湖。
そしてその畔に建つ、こじんまりとした可愛らしい家。
その景色を目にした瞬間、アリーシアは目眩を覚え、身体が揺れた。
「シアっ!?」
慌てたエアネストが、繋いだ手を引いて抱き留めてくれる。
その腕の中で、アリーシアは頭の中に流れ込んでくる光景に呆然としていた。
見たことがないはずのこの景色の中で、日々を過ごすエアネストとアリーシアの姿。
あの頃は、生活に魔法が根ざしていた時代だった。
小さな街に暮らす平民で幼馴染みだった、結婚して共に生きていたエアネストとアリーシア。
そう、この場所だった。
森の恵みを並んで集めた秋。
居心地よく整えた居間で、暖炉の前で寄り添って過ごした冬。
雪解けを喜び、咲き乱れる花の中、抱きしめ合った春。
澄んだ水面を渡る涼しい風に、火照った身体を共に癒やした、夏。
「あぁ……あなたは約束を守ってくれたのね……」
「シア……?」
「まさか本当に王女様になって、素敵な騎士様と恋をするなんて……」
アリーシアのその言葉に、エアネストは驚きで目を見開いた。
そして、アリーシアがあの約束を思い出したと解り、笑みを浮かべて抱きしめる。
「約束……したからね。言っただろう、俺と君は必ず出逢うと」
「あなたも思い出していたのね……いつから……?」
「何も知らずにあなたに惹かれ、恋に落ちて……二人で生きるために準備をしていた時、家に伝わる古い本を見つけたんだ。他のことを調べるために行った部屋で、なぜかそれが目について……読んでみたら、魔法で保存してあるこの場所のことと、ここへ来る方法が書かれていたんだ」
その時にすべてを思い出し、ある程度の旅に必要な知識を手に入れた。
その本は特別で、俺の生まれ変わりが必ず手に取るように魔法が掛けられていたんだ。
それ以外の人間には見えないようにもなっていた。
俺は……こうして生まれ変わってあなたに逢えることを、愛し合えることを、ずっとずっと、信じていたんだ。
「私も……何も思い出していなかったけれど、ただ……あなたの瞳が、どこか懐かしい気がしたの。あなたの笑顔が好きだと、思って……見ているうちに、どんどん惹かれていって……」
出逢えることを信じていてくれた。
約束を守ってくれた。
私と出逢って、また恋をしてくれた……愛しいひと。
懐かしい、かつて二人で過ごした場所で、永い年月を経て再会した恋人たち。
それ以上の言葉はいらないと、きつく抱きしめ合い……熱く、甘いくちづけを交わした。