006.君に目覚めのくちづけを
シュタルク領の領館で過ごすようになって、アリーシアは何度か街にもお忍びで出かけた。
王都から出たことがない上、王女という立場ではただ街に出ることなどできなかったから、初めて見る物、経験することすべてが楽しい。
こうして出かけるのは初めてだと侍女たちにも打ち明け、露天で買い物もさせてもらった。
街で人気だという雑貨屋に入って、欲しいものを見ているふりをして値段を確かめたりもした。
初めてだったが、何故かあまり戸惑いはない。
戸惑いよりも、どこか懐かしい気さえした。
買い物もできるようになり、お忍び用のシンプルな服もいくつか揃えておく。
鞄も欲しかったが、侍女に知られないように買うのは難しくて、クッションカバー用として手に入れた丈夫な布を布袋に仕立てた。
そうして過ごして、約束のひと月まであと六日ほどとなった日。
その日の朝は、何故か身体が重く、アリーシアは起き上がることができなかった。
まるで、本当に病を得てしまったようだ。
どうして……。
アリーシアの容態が悪化したことは王都のシュタルク邸にも急ぎ伝えられたが、フランツが領館へ訪れることはないまま、意識も途切れがちになっていく。
ごく短時間、寝台の上でクッションにもたれかかり身を起こせることもあったが、悪化した原因ははっきりしなかった。
ただ、身体が動かせないだけで、苦しさがないことは幸いだった。
あぁ……視界が闇に閉ざされていく。
その瞬間を、いつかどこかで感じたことがあるような気がした。
エアネスト様……あなたに……あい……たかっ……た…………。
*
結婚式から間もなく、病を得た元第一王女アリーシアは、療養先で静かに息を引き取った。
十六年という短かすぎる人生でも、慈善事業に熱心だった彼女は民に慕われていた。
万が一の時のためにと遺されていた遺言状には、私財を孤児院などへ寄付すること、公爵家による継続的な支援を願う言葉が記され、それは叶えられた。
その優しさにますます尊敬の念を持った民により、シュタルク領にある彼女の墓所には、花が絶えることがなかったという。
*
ふと気付くと、アリーシアは何か暖かいものに包まれていた。
瞼を開けようとしても、何故か重い。
どうして……視界が闇に閉ざされ、自分の命が消えていくことが解ったあの時。
最後にエアネストに逢いたいと願った。
そう、自分は病で命を落としたはず。
なぜ暖かさを感じることができる……?
その混乱を更に加速させるように、口唇に何かが触れた。
初めて触れるそれは、やはり暖かく柔らかい。
あれほど重かった瞼が開く。
そこに見えた、優しい蒼……。
「エアネスト様……っ!」
もう二度と逢えないと思っていたひとが、そこにいる。
嬉しさで潤んだ瞳で見つめたそのひとは、甘い、蕩けるような笑みを浮かべていた。
「どうして……わたくしは……?」
「ああ、不安にさせてしまいましたね、殿下……。不自然さを感じさせないために事前にお知らせできず、申し訳ございません。あなたは魔法で仮死状態になっていたのですよ。あなたの葬儀は終わり、シュタルク領に埋葬されたのです」
「そんなことまでできるのね……。でも、怖かったわ……」
視界が闇に閉ざされていく瞬間を思い出し、身体が冷えていく。
しかし、それを暖めて安心させるようにエアネストがきつく抱きしめてくれた。
そして再び、口唇に熱が──。
「んっ……」
「はっ、殿下……」
先ほど触れていた何かが、エアネストの口唇であったことを知る。
生まれて初めて感じる、熱さと柔らかさに夢中になった。
感じた恐怖はあっという間にどこかへ消えていく。
愛しいひととのくちづけは、ただ──甘い。
「なまえを……呼んで……」
交わすくちづけの合間に、なんとか言葉を紡いだ。
もう、“殿下”であったアリーシアはいないのだ。
ここにいるのは、ただのエアネストとアリーシアだ。
敬称もなく、呼んで欲しい。
呼びたい。
「エアネスト」
願いを込めて、初めて敬称を付けずに呼んだ、瞬間。
エアネストの瞳に、ゆらりと炎が揺れた。
「アリーシア……シアっ……」
誰も呼ばない愛称で呼ばれ、くちづけはますます深く、激しくなる。
「エ……アっ……んぅ……」
自然に閉じた瞼の中、赤より熱いと言われる蒼い炎が踊り、灼かれて、溶ける。
何もかも溶けて、愛しいひとと一つになった気がした。