ABS_06(完成したら、それはなんだろう)
如月さんの家に遊びにいくとお母さんに告げると、その日、焼いたシフォンケーキを持たされた。咲きはじめの桜並木の下を、てくてく歩いて向かった。三寒四温の寒の日だったけれども、風に混じる春のにおいが気持ちよかった。
出迎えてくれた如月さんは、差し出したお土産をとてもよろこんでくれた。今日の如月さんは、紺のチェック柄シャツに、カーキ色のハーフパンツ姿で、背の高いひとは、ラフな恰好でも様になるのが羨しい。
あたたかいお家にお邪魔して、ほっと一息。脱いだ靴をしゃがんで揃える。如月さんの家は余所のお宅のにおいがした。
リビングは、きちっと定規で計ったみたいに整頓されていて、真っ先に四角四面の四字熟語が思い浮かんだ。
生真面目な配置と配色。まるで家具の展示見本市みたいだなあって思ったら、食玩のプラモデルが飾ってあって、それがなんだか人間くさくて、妙におかしかった。少しシールがずれて貼られているのも、とても良かった。
「難しかったぞ」なんだか、うらめしそうな声音で云われた。箱に書かれた対象年齢。「どうせ子供のオモチャだと侮ってたけど、なんだか夢中になった」
「模型ってのめり込むと、ひとつを仕上げるのに、いくらでも手を加えられるから、わりと終わりのない趣味だよ」工具に道具に、あらゆる素材。塗装そしてディスプレイ。果てしない沼が同時に魅力のインドア・ホビー。
「そりゃ大変ね」如月さんは笑った。
ティーバッグでお茶を淹れ、お皿に乗せたケーキを食べて、取り留めのないお話をして、お手洗いを借りた。余所のお宅は勝手が違って、しばしば迷わされることがあるものです。
まごついてたら、お迎えが来て、「大丈夫?」声かけられて、「大丈夫」。お腹、痛いと思われたかもしれない。用を足しながら、ふと、如月さんが日常的に使う場所なんだなあと思い当って、今度は狼狽した。変態か。これはなかなかですよ、レベル高い。変態だ。
あたしはどうしようもない気持ちを整理できぬまま水を流して手を洗い、吊してあるタオルを借りて手を拭いて、ドアを開けたら──如月さんが待っていた。先ほどの声掛けを思い起こし、ドアの厚さと遮音性を勘案する。変態だ。聞き耳立ててた変態だ。ヒトの所業でない。如月さんは変態さん。
「ん」って、如月さんは顎で促す。案内されたのは、廊下を歩くこと数歩先。開かずの間だった。
あとで気付いたことだけれども、あたしは、お邪魔してすぐにリビングに通されて、だから如月さんの自室には通されなかった。
リビングに学校のものは無かったし、間取りからして、如月さんのお父さんの書斎や寝室を差し引いても、ひと部屋、もしくはふた部屋あったと思う。
つまり如月さんは、食玩のプラモデルを、わざわざリビングに置いた。
動物だけでなく人間にだって縄張りはある。
寛容/不寛容か、信頼/拒絶なのか。ただ「嫌」と、単純な理由だってある。「なんとなく嫌」だっていい。彼女は、最初から自室に招く気はなかったのだ。さらにあたしが思うことは、「開かずの間」とは別に、「本当の開かずの間」があったかもしれないってこと。
「開けていいよ」と、如月さんは云った。
いや無理。
「ほら」と如月さんは、あっさりドアを開けた。
開かずの間は少し湿っていた。いや、湿っているように感じただけかも。山積みのダンボール。厚いカーテンで薄暗い。トルソー。それがウェディングドレスだってのはひと目で分かった。埃除けの透明のビニールを被っていても。スカートは膨らんでいないけれども、普通のドレスでなくて、主役のためのドレスだった。
「ママが作った。自分で」
つまり、オートクチュールでもプレタポルテでもない、世界にたった一着のドレス。
「片づけないから、開かずの間」
どんどん物を放り込んで、他の部屋を維持する為だけの部屋。それってやっぱり、「納戸?」
「寒い?」
「温度じゃなくて、部屋のこと」
「首が飾ってあると思った?」如月さんは部屋に入って、荷物を除けて、トルソーに近づき、「ティアラは別にあるよ」
そう云う際どいジョークは、いかがなものかと思うのです。
たいそう反応に困るのです。
「持ち主は、もういないけれどもね」
と、彼女は、云った。
その時、あたしは、如月さんのお母さんは、ただ「出ていっただけ」なのかもしれない可能性に思い当たらなかった。話の流れからして、故人だと決めつけていた。
だから、
「そうなんだ」やっと選んだ言葉がこれ。
「そう」如月さんは、不思議な笑みを口元に浮かべる。「それだけのこと」
まるで気にするな、わたしも気にしてないからさ、ってあたしに伝えるみたいだった。
「ちょっと外、出ない?」
如月さんは、折り畳み式のプラスチックの踏み台を持ち出してきて、それには紐がくくられていて、その理由は直ぐに分かった。
マンションの屋上は、勝手に昇れない作りになっているのに、如月さんは、踏み台を組み立て上に立つと、紐を持って「よっ」と声を掛けて銀色の非常ハシゴにぶら下がり、身体を持ち上げ、昇った上から「おいで」と、手を差し伸べた。あまりにも簡単にして見せるので、初めてでなく、何度も(日常的に)やっているのだと思った。
あたしを引き上げたあと、紐を手繰って踏み台を持ち上げ、これで証拠物件Aが消えてしまった次第でして、手際の良さに感心せずにいられなかった。
屋上は、晴れた陽射しを真っ直ぐ受け、やっぱり風は硬く冷たく、なのに春らしい終わりと始まりを連想する甘い匂いと、乾いた砂のにおいが混じっていた。そして、見える景色は、同じ高さのビルものと違っていた。防水のために塗られたねずみ色の足下のせいもあるだろうけれども、なによりも安全柵がない。
塗料皿みたいな衛星アンテナと、縦横高さ一メートルくらいのベージュ色の樹脂タンクが太いボルトで固定されていた。マンションの廊下からは思いもしない広さで、開放感を通り越し、不安を感じずにいられない。なのに如月さんの足取りは、散策をするみたいな気安さがあった。
「貰った誕生日プレゼント、作ってて思った。パズルみたいだなって」背を向けながら如月さんが云う。「順番を間違えたりして、けっこう大変だった。でも完成すると、達成感があっていいね」
「それが模型作りの醍醐味よ」そう応えながらも、あたしは、悪いことをしている思いと、景色の高さに腰が退けており、足はすくんでいた。訪ねる道々で見上げて通った桜並木を眼下にする非日常感。空から見る風景は、ミニチュア模型と違って、ただひたすら怖かった。
「でも、組み立てたその後、どうするのがいいの?」如月さんが訊ねる。「飾っておくだけなの?」
難しいところを突いてきた、と思った。
「組み立てるのが目的だよね、プラモデルって」
「そこで終わることは、ままあるかと」あたしは認めた。
「完成したら、それはなんだろうな、って思った」
お父さんによれば、模型は、プラモデルは、組み立てなくても製品になる。いや、製品なのだ。材料加工や設計技術が凝縮された姿なのだから。それがお店に並んでいるのなら、箱のまま、ランナーのまま組み立てもせず、完成姿に思いを馳せるのはおかしなことでもない。例えば、こんなジョークがある──焼き肉屋さん(もしくはしゃぶしゃぶ屋さん)は、お金を払って客に料理させる。模型も、切り出し、面出し、組み立て塗装のいっさいを購入者、ユーザー任せだ。ならば、組み立てないという選択肢もあっていい──これが、我が父の抗弁のような詭弁。
「なにが云いたいの?」あたしは訊ねた。
「手段そのものが目的のものって、他にないかなって」
そんな捉え方は、あたしの中に、無かった。
「完成したら、それは目的を失った何かなんだって思った」
彼女は文集のことを云っているのだろうか。
「だったらそれは、なくてもいいものなんだと思った」
違う。
真っ先にあたしは思った。
そんなことない。ないんだよ。
それこそ、詭弁なんだ。
なのに、たったそれだけのことを云い切れない自分が情けなかった。
「ここから飛び降りたらどうなると思う?」唐突に彼女が云う。
「危ないよ」あたしは応える。
「どうなるか訊いてるのだけれども」
身を乗り出して、下を覗き込んでいる。そこは十何メートルもの高さで、真下は黒く沈んだアスファルト。
「戻ろう」あたしは懇願する。
「まだ。答えを訊いていない」
私は唸った。「死ぬか、死にかけるか、どっちにしても、ひどいことになると思う」
あたしの答えに、「そう」彼女はさして興味も示さぬような声音で、「死に損なうほうが、死ぬよりひどいよね」
同意できるはずもない。「如月さん、戻ろう。きっと誰かに見られてる」
「かもね」彼女の声はどこまでも平板だった。
「駄目だよ、こんなの」
「何が? 駄目で? 何を? 駄目なの?」
詰め寄られ、あたしは言葉に詰まる。
「それは論理的な説明のつく問題?」
彼女流の、いちばんの意地悪だ、と思った。
「一緒に、どう?」
振り返った彼女は、笑っていた。
*
遠慮する? なんでそんなに死にたいかって?
生れた人は、必ず死ぬ。分かる? 必ず死ぬんだ。
今でなくてもいい。ごもっとも。でもそれは、先でなくてもいい、と同じだよ。
死ぬために生れることに疑問を持てるのは、人間だけかもしれない。生きたいは本能。死にたいは人間性の発露じゃないかな。違う?
ここは十階、落ちたら痛いで済まないね。
でも失敗したら?
どんな状態かは、体重から計算できるよ、わりと簡単に。
自由落下。ただ飛び降りるだけ。高さと重力加速度と。空気抵抗はないものとする。
一階三メートルと仮定して、十階で三〇メートル。自由落下で、重力加速度は9.81メートル毎秒々々。エネルギーは高さと質量と重力加速度の乗算。加速度は速度と時間の除算。この位置エネルギーの式に高さを当てはめれば、速度が分かる。地上到達時の速度が計算できる。およそ二四メートル毎秒。つまり秒速二四メートル。
桜が散ってるね。花びらは無風で秒速〇・五メートル。落ちるヒトはその四八倍で追い抜く。
時速にすると、八六キロメートル毎時。助走をつけたら百キロだって可能かもしれない。
その速度で下のアスファルトに軟骨で繋がった血肉の袋が激突する。
想像してみて。時速百キロ。
その速度なら、まず死ねる。
*
そんなことを諳んじられる彼女を、悲しく思った。せっかく友達になれたと思っていたのに、依然に彼女は遠かった。
「困るよ」と、あたしが云えば、「なんで?」と如月さんは返した。
「まだ文集は配られていない。あたしたちの仕事は終わっていない」
「終わったよ。完成した。文集係はお役御免。いいものになったって思ったでしょう? 配布は担任の領分で、だからわたしの仕事は済んだ」
「違う。終わっていない」
「配布が済んだら、終わりにしていいってこと?」
「そんなわけが、あるもんか」あたしは硬く宣言した。
「なら、いつが終わりになる?」
「終わりにすることなんてない。如月さんは間違っている」
「あなたの正当性は、どこからくるの?」
答える代わりに、あたしは拳を強く握っていた。
「つまりそれは」彼女は屋上の縁に立って振り返り、「自分で説明の出来ない、受け売りの価値観」一段高い上から鼻で笑うように云い切った。
あたしは彼女を睨め付けた。「あたしの価値観をバカにするな」
「バカにしてない」彼女の口元には、うっすらと意地の悪い笑みが浮かんでいた。「そう思うのなら、あなたはわたしの価値観をバカにしているってことでしょう? あなたはあなた、わたしはわたし。目くじらをたてるほどのこと?」
縁から降りるとあたしとの距離を詰め、頭ひとつ高いところから見下ろした。「あなたの考えとわたしの考えが、それぞれが違う結論に至っただけ。だから、──」
「飛び降りる理由にならない」
「飛び降りない理由にもならない」
あたしは如月さんを殴っていた。グーで。