5 誰しもに初めての会話というものが存在する
午前八時五分。俺は自分の席で鞄から荷物を取り出し、準備していた。
まだ教室にもさほど人はいない。
少人数のグループの控えめな話し声だけが静かな教室に響いている。
俺が鞄から筆箱を取り出そうとゴソゴソしていると、視界に足が見えた。黒いスクールソックス。ズボンじゃないということは女子だ!目の前に女子がいるぞ!
俺は顔を上げた。
「あ……あの……」
――そこにはモジモジしながら言葉を発しようとしている山口さんが立っていた。
俺は少し意外だと思った。もちろん山口さんの性格を熟知しているわけではないが、以前目があったときの行動なんか見てたら絶対に自分から動くタイプじゃないと思った。
それなのに、彼女は話しかけてきた。
自分の好きな人に話しかけたのだ。
「あ、ああ、山口さんか。おはよ」
俺はちょっと言葉に詰まりながら挨拶をした。うん、挨拶大事。
「あ……うん。おはよう」
山口さんはまだモジモジしながらではあるが、挨拶を返してくれる。うん、返事大事。
「……それで、どうかした?」
よし、今度はちゃんと詰まらずに言えたぞ。
「あ、えーと……」
視線を斜め下に向けながら言葉を探している。
今何か会話をするなら話題は昨日のことか。ぱっと出てくるのはそんなもん。当たり前だ。関係薄いもん。それはもう鼻セレブくらい。
「昨日の事なんだけど……」
やっぱりぃー。
「LINE……追加してくれてありがとう……」
何を言い出すかと思えば、それはそれは丁寧な感謝だった。なにがありがとうなんだろうか。LINE追加しただけよ、俺。
「あ、うん。こちらこそ。実行委員のこととかあるから便利かなって」
俺は何ともないように答えた。実際何ともないんだけど。
「うん……。そうだね……」
山口さんは少し表情を緩めてそう言った。
あれ?この人こんな大人しいタイプだったっけ?
去年実行委員してるときは別にどうとも思わなかったけど、こんなモジモジした話し方ではなかった気がする。
相手が俺だから?それにしてもこんなわかりやすいキョドり方ある?超鈍感難聴主人公ですらわかっちゃうレベルだぞこれ。
「ま、まあとりあえず、実行委員とか……その、よろしく」
流石に言うことなかったから言葉詰まっちゃったよ。
「……うん。よろしくね。……じゃ」
山口さんはそう言ってちょっと小走りで席へ戻った。
そうやって去っていく山口さんの表情は、心做しか笑顔だったような気がした。
まさか相手から動くとは思ってなかった。
LINEを追加したとはいえ、何か俺からも行動を起こさないと。――俺の目的のために。
***
と思ったけど。
出来ること全然ねえ。
多分話しかけても上手く会話できないだろうし、そもそも会話する話題がない。昨日の出来事をもう既に使ってしまった今、打つ手がないのだ。
鼻がムズムズする。
「んあっぶしゅっ!!!」
クシャミが出た。誰か噂でもしてるのか?
クシャミって出したら結構気持ちいいよな。ってなんか卑猥っぽい発言になってね?
今は一時間目と二時間目の間の十分休憩。
前方に雄也発見。俺は暇だったので話しかけようと思って席から立った。
三つ席を挟んだ先にある雄也の席へ歩いていると、雄也と目が合った。
と、思えばそこには雄也と話す茶髪のサイドポニー――天海さんの姿が。
やばい、俺天海さんと話したことない。雄也と話したかっただけなんだけど。
でももう引き返せない。もう二人との距離はまさに一メートルほどまで来ている。このままトイレ行くか?いやそれもなんか不自然だ。
やばい。友達の友達とか一番気まずい関係なんだよぉうおおどうしよどうしょうわぁぁぁぁぁぁぁ――、
「よう、雄也」
焦りから生まれたのは、ただただ平然とした挨拶だ。きっと何も変に思われてないはず。よかった。
「おう英斗」
返事する雄也。ちょっとニヤニヤしてる。
「噂をすれば来たね、木枯君」
天海さんもニヤニヤしながらそう言った。
「え、噂?」
ほんとに噂されちゃってたよ。てか噂されたらクシャミ出るってどういう原理なんだろう。嫌いな人の噂しまくってクシャミ出させまくるの面白そう。
「英斗、山口さんとはどう?」
雄也が聞いてくる。
どうと言われましても、大して何もないんですけどね。
「ま、まあ、LINEはしたよ。あと今日学校で話したくらいかな」
「おぉ、いいじゃんいいじゃん!」
なんかちょっと楽しそうに言うのは天海さんだ。
天海さんと話すのはこれが初めて。
まだ何も知らないけど、元気な女の子っぽい。見た目でもなんとなくわかるんだよな。
「何話したんだ?」
「んー、実行委員の事ぐらいしか話せてねえな」
てかなんでこんな質問攻めされてんの?
それはそうと、確か天海さんは山口さんの件について、本人から直接言われたのだそうだが。
もうちょっと事実確認がしたい今、聞いてみるのもいいのかも。
「天海さんは、その、本人から直接聞いたんだっけ?」
俺が聞くと、天海さんは笑顔で頷いた。
「そーだよ!春休みくらいに菜月本人から直接聞いた!向こうから言ってきたんだよ!」
「な、なるほどぉ」
これはもう納得せざるを得んな。
別に納得してなかったわけでも、納得したくないわけでもないのだが、ちょっとにわかには信じられなかっただけだ。もうこれで何も間違えてる心配はない。
「あ、あと、天海さんじゃなくて美佳でいーよ!ていうかそうして、英斗!」
「お、おお。わ、わかった」
ええ何、今英斗って言った?初めて会話して一瞬で下の名前呼びになったぞ。
……ていうか俺も!?女子の名前を下の名前で呼ぶの!?初めて会話して一瞬で!?
下の名前呼びといえばすぐ目の前にいる雄也。
俺もこいつに近づいてしまうのか。ま、まあ女子を下の名前で呼ぶとか、そ、その、いいじゃん。うん。
「よろしく、み、美佳」
やべえ慣れねえ違和感しかねえ。今俺気持ち悪くない?大丈夫?てか何をよろしくしたんだよ。
「うん。よろしく、英斗!」
満面の笑みでそう返してくれる。み、み、美佳が。
そうして休み時間が終わった。